第9章 君がいる……ただ、それだけで
「雪ちゃん、雪ちゃんてばぁ……!」 誰かが呼ぶ声がする。 長い夢を見ていたのだろうか……。 淡雪として、名前を呼ばれることが懐かしく感じられた。 襲ってくるまどろみを振り払って、淡雪はなんとか目を開けた。 目がシパシパする。 寝過ぎたろうか? 目を慣らすように、パチパチと目をしばたかせると、天井を見つめた。 何年か前に安曇がつけたコーラのシミが見えた。 「やぁっと起きた!」 次の瞬間、日向の満面笑顔がどアップで現れる。 それに驚いて、淡雪はがばっと飛び起きた。 かぶっていた布団がにわかに吹き飛ぶ。 「ひな、なんでここに?!」 ようやっとそれだけ叫んだ。 日向は楽しそうに笑う。 「昨日もお母さん、夜シフトだったので、朝ごはんをいただきに参りましたぁ♪」 前の日が夜シフトの時、日向の母親は帰ってきてすぐに寝てしまうので、決まって日向は淡雪の家に朝ごはんを食べに来る。 これは子供の頃から決まっていることだった。 「雪ちゃん、いくら日曜だからって、のんびり寝過ぎだよ。ほらほら、もう10時半!あたし、待ちきれなくてごはん食べちゃったからね」 時計を見せつつ、叱るように真剣な顔をする日向。 だが、なりが子供っぽいせいか、叱られてるように感じないのがいつものことだ。 淡雪は思わず吹き出す。 その様子に日向は目をパチクリさせる。 「な、なに?いきなり……。失敬な」 「ん……ごめんごめん。気にしないで。今日の朝飯はなに?」 淡雪は誤魔化すように笑って、よいしょっとベッドから降りた。 淡雪的に緊迫した夢を見ていたせいかもしれない。 日向の表情が、余計に安心感を誘ってつい笑ってしまった。 日向は淡雪の問いに、指を折りながら答えてくる。 指を1本立てる度に、カニ頭の毛先がピョコンピョコンと跳ねる。 「えっとぉ……ゆかりご飯に、あさりのお味噌汁。出汁巻玉子でしょう?ほうれん草のおひたし……。鯖の味噌煮と……きゅうりと白菜の浅漬け。あ、あと、特製ジュース!今日はバナナだった」 美味しかったよ〜☆と付け足して、日向はニッコリ笑う。 「あ……美味しいのは当たり前か。雪乃さんだから」 今度は顎に人差し指を当てて、むんと唇を尖らせた。 淡雪は穏やかに笑って、 「母さんでも、たまに失敗するよ?ひなが来る時は気合入れてるから、失敗したのを食ったことがないだけでさ」 と答える。 日向がそれを聞いて意外そうにへぇぇ……と頷く。 「あ、着替えるから、出てもらっていい?」 淡雪はスウェットに手をかけながら、そう言った。 「あ、そっか。うん、わかった。あ、コング連れて行っていい?」 日向は淡雪の言葉に慌てて立ち上がるが、ふと目に付いた緑色のキリンのぬいぐるみを手に取って、小首を傾げた。 それに対して、別に構わないよとだけ返す。 コングははっきり言って、置いてあるだけのものだから、持って行かれようと特に支障はなかった。 ……ということは、プレゼントしてくれた日向には言わないけれど。 日向は嬉しそうにコングを小脇に抱えて、タッタカタッと部屋を出ていった。 本当に……どうしてあんなにキリンが好きなのやら。 淡雪は眉をへの字にして笑う。 日向が小学生の時に訊いたら、こう言った。 『だってね、だってね、キリンさんは凄いんだよ!気合で首が伸びたんだから!!』 はっきり言って、意味不明。 キリンは別に気合で首が伸びたわけではなく、進化の過程でどうしても首が長くなる必要があったから変化したに過ぎないのだが。 まぁ……そう思ってるなら、それでもいいとは思うけど。 淡雪はその時、特に訂正はしなかった。 今でも、同じことを考えているかはわからない。 それでも、日向のキリン好きは年を重ねるごとに増していっている気がする。 着替えを済ませて1階に下りると、日向がコングを抱いて待ち構えていた。 昔から見慣れているせいか、キリンのぬいぐるみがとにかく似合う……と思う。 「おはよう」 淡雪は台所に入るとそれだけ言った。 母親は呆れたような表情でおはようと返してきた。 もうご飯と味噌汁以外は用意されていた。 日向が降りてきてすぐに、温め直してくれたようだ。 「まったく、珍しいじゃない。アンタが起きてこないなんて」 「あー……うん、昨日、本読んでたらずいぶん遅くなっちゃって」 淡雪はもっともらしい嘘をついてかわした。 本の虫の淡雪なら決して怪しまれることはない。 変な夢を見て……と言うと、日向が変に心配するから言うのは避けた。 はっきり言って、日向が起こしてくれなかったら、淡雪は何時まであの夢を見続けていたかわからない。 それが怖かった。 今更だが、日向が起こしてくれたことに心の底から感謝したい気持ちがこみあげてきた。 ”この町に来る前”はよくあったのだ。 夢から目覚めずに、ずっと夢を見続けたりすることが。 そして、突発的に飛び起きる夢(自分の体が腐っていく夢)以外だと、なにかきっかけがない限り、起きることができなかった。 それは必ず過去の夢で、結果がわかっていて、本当は見たくもないものに限って、際限なく見続けることになる。 だから、正直、淡雪は助かったのだ。 目を背けたい過去を見ずに済んだのだから。 雨都とあんな話をしたからか、それとも、ああいう夢を見るのにも決まった周期があるのかはわからないが、淡雪にとって、今日の夢は禁断の領域だった。 席に着くと同時に、母親がご飯と味噌汁をコトリ……と置いた。 味噌の香りが鼻をくすぐって、萎んでいた気持ちが食欲と一緒に膨れ上がるのを感じる。 「天気も良いから、食べたら少し出掛けて来なさい。その間に布団とかも干しちゃうから」 淡雪の母親はいつでもチャキチャキしている。 日向曰く、憧れの女性……だそうだ。 こういう、出来る系の女になりたいのだそうだ。 ガンガン、前に推し進めていく力のある母親だから、淡雪もへこんだりしている暇がない……という点では感謝している。 「わかった。というか、布団くらい、干してから出掛けるよ。ガキじゃないんだし。いただきます」 淡雪は手を合わせると、箸を手に取り、まずゆかりご飯をぱくつく。 「あらら、一丁前なこと言っちゃって」 母親は嬉しそうにそう言うと、茶の間へさっさと下がってしまった。 どうやら、掃除の最中だったらしい。 「どうして、こんなところに靴下が……?!全く、お父さんってば……」 という呟きというかぼやきが後ろから聞こえてきた。 日向を見ると、日向もそれが聞こえたらしく、目が合った瞬間、おかしそうにクスクスッと笑いをこぼした。 海へと続く道をテクテクと、淡雪は日向と連れ立って歩いていた。 母親の出掛けてきなさいは、『ひなちゃんと』が省略されたものだ。 さすがに10年も一緒にいれば、それが当然のことになる。 少し遅い朝食を食べ、布団も言われた通り干し、ついでにコングも干してきた。 さすがに色褪せはまずいから、陰干しだけど。 満腹のお腹をさすってから、淡雪はのんびりと伸びをした。 「体よく追い出されたもんだなぁ」 笑いながらそう言うと、日向が隣でニコニコと頬をほころばせた。 「なに?」 不思議に思って首を傾げる淡雪。 「なんか、雪ちゃん、世間一般のお父さんみたいなんだもん」 おかしそうに、それでも暖かく見守るように日向は言う。 歩く度に、髪の毛がピョコンピョコン跳ねる。 「年は取りたくないものですなぁ……」 淡雪はわざとらしくそう言って、肩をポンポンと叩いた。 「あはは……そういうんじゃないよぉ。雪ちゃん、あたしと同い年じゃん」 「……そうだなぁ、見えないけどな」 「え?雪ちゃん、年相応じゃない?」 「僕じゃなくて……」 淡雪はシゲシゲと日向の体をつま先から頭の先まで見る。 その視線でようやく言葉の意味を察したのか、日向はむぅ……と頬を膨らませた。 「そういうのは、雪ちゃんじゃなくて、あっくんが担当!なに〜?いきなり……そういう雪ちゃん、嫌い!」 背が低いのを気にしているのもあって、こういうネタでからかわれると日向はすぐにムキになる。 ふん!と顔を背ける日向を見て、淡雪はまぁまぁ……とすぐにたしなめた。 「悪い悪い……冗談だから」 「気にしてるの、知ってるくせにぃ」 「だから、悪かったって……」 長い付き合いなのだが、淡雪は日向がご機嫌斜めになった時の対処法を未だに掴めていなかった。 だから、慣れないことはやるもんじゃない……と心の底で反省する。 安曇みたいに、スパンスパンと話を切り替えて、なかったことに出来るほど器用でもないのだから。 しばらく、歩くと堤防が見えてきた。 もう少しで海だ。 5月の海……ともなると、まだまだ寒いだろうけど、なんとなく来たくなったのだから仕方がない。 黙りこくっていた日向が急に駆け出す。 不意を突かれて、淡雪はただ背中を見送った。 速い速い……。 ただでさえ小さな背中があっという間に、豆粒くらいになった。 ふと……淡雪の頭に一抹の不安が過ぎる。 駆けていく幼い頃の日向。 淡雪はそれを優しく見守る。 日向が振り返って、手を振ったので、淡雪はそれに応えるように走り出した。 その時、耳を裂くようなブレーキの音が響き渡って……。 そこで、淡雪は我に返った。 以前に見た”あの夢”の『そのままだと……』の後の言葉を思い出したのだ。 雨都と話している時に、浮かんだ少女の姿は……霧ではなく、日向だった。 おぼろげだった少女の顔が、今回はくっきりと浮かぶ。 脳裏に浮かんだ日向は、今より1回りも2回りも小さい。 頭から血を流して、どんどん生気を失っていく姿が消えない。 淡雪は頭を振ってそれを振り払った。 ダメだ……起きているのに、これでは夢を見ているのと変わらない。 心の中で呟く。 はじめから、緩んでいたタガが……この前の一件で完璧に外れてしまったのかもしれない。 「雪ちゃ〜ん!早く、早く!」 駆け出す前までむくれていた日向が、もうケロリとして、淡雪に手を振っていた。 いつ上ったのか、堤防の上でぴょんぴょんと跳ねている。 淡雪は、手を上げて、日向に応える。 少しだけ速度を上げた。 堤防まで辿り着くと、堤防のヘリに手を掛けて力強く自分の体を引き上げた。 「あ〜……不精!」 「え?」 「こっち側に階段あるのに」 日向は反対側を指差してそう言った。 淡雪は言われるがままにそちらを見る。 確かに、コンクリートの階段がそこにはあった。 でも…… 「僕は上れたからいらなかった」 笑いながら、そう言って、すとんと腰を下ろす淡雪。 「あたしだって上れるよ。これでもスポーツ測定診断Aだったんだから」 なぜかムキになって、日向はそう言った。 その後に、見ててねと付け加えて、堤防から飛び降りると、ひょい!と自分の頭より少し高い堤防のヘリに手を掛けて、上ってきた。 そして、すぐに淡雪の隣に腰を下ろす。 「ほらね。どうだ♪」 なぜか日向はこういう時、変に挑戦的なところがある。 別に勝負しようとは思っていないのに、淡雪がやることに対して、ずいぶんな情熱を傾けるというか……なんというか。 ただ、読書だけは真似してこない。 淡雪は下手すると、一日に2冊は軽く読んでしまうから、運動部所属の日向では挑みようがないのだ。 まぁ、それは置いておいて、淡雪は素直に感心した。 女の子で、自分の頭より高いところに自分の体を軽々持ち上げられる子はそうはいない。 男でも出来ないやつは出来ないだろう。 「すごいなぁ……ひなは」 穏やかに笑って、淡雪は日向の頭をポンポンと撫でた。 それをくすぐったそうに受け止めながら、日向が安心したように笑う。 淡雪はその安心したような笑顔が、いつもよりも大人っぽく見えて、首を傾げた。 それと同時に、少しだけ動揺する。 時に取り残されていく自分。 これから、彼女は自分を置いて、どんどん大人になっていく……。 脳裏を、そんな言葉が過ぎる。 けれど、淡雪のそんな様子に気がつくこともなく、日向は笑顔で言った。 「よかった。いつもの雪ちゃんだ♪」 「へ?」 「なんか……夢にうなされてたみたいだったから、心配だったの」 「あ…………」 日向は目を細めると、淡雪の顔を覗き込むように首を傾げる。 それに淡雪は不意を突かれて、少しだけマヌケな声を出してしまった。 口を慌てて塞ぐ。 「雪ちゃん……最近、顔色良くないから、大丈夫かな?ってね、思ってたの」 日向は淡雪から視線を外して、水平線を見つめてそう言った。 淡雪はその横顔を見つめて、目を細める。 何か……胃を締め付けるような、胸を締め付けるような感情がこみ上げてきた。 この子は……いつも、見ていないようで見ている。 だから、絶対にこの子の前では気を抜いてはいけないのに。 「あたしね、チビだし、子供っぽいし、雪乃さんみたいに料理も上手くないし。あっくんみたいに漢の会話できないし、うっちーみたいに頭も良くないからね。だから、……雪ちゃんに頼ってもらえないの、仕方ないなって思うの」 話しているうちに、どんどん涙ぐんでくる日向。 日向は再び淡雪に視線を戻した。 淡雪はそれは違うよと言おうとしたけれど、それよりも早く、日向が続けた。 「そのくせ、泣き虫で、弱虫で……本当になんにもできなくて……。ごめんね、今だって、本当は元気づけようとして、話し始めたのに……話しているうちに、自分が情けなくなってきちゃった」 涙を拭いながら、日向は少しの間俯いた。 しゃくりあげて咳き込む。 その後に、なんとか息を整えて、顔を上げる日向。 淡雪はポンポンと日向の頭を撫でた。 慰めるように。 何にも要らない。 日向はそこに居てくれるだけでいい。 そこで笑ってくれれば、それだけでいいのに。 それなのに、自分のことで泣かせてしまった……。 日向は、淡雪にとって、かけがえのない人。 消えてしまいたいと……死んでしまいたいと願っていた人間に、もう一度、居場所をくれた人なのだから。 お前が泣く必要なんて、どこにもないんだよ……と、淡雪は言葉に出来ない分、優しく頭を撫で続ける。 日向は、頭を撫でられることで、また情けなくなったのか、また涙を零した。 「ごめんね。あたし、いっつも雪ちゃん、困らせちゃって……」 「違うよ」 「え?」 「ひなは……いつも、一生懸命だから。いつも、お前の笑顔に勇気づけられるんだよ。ああ、あとちょっとだけ頑張ろうって。僕は……ここに居てもいいんだなって……」 淡雪は穏やかに笑って、そう囁いた。 目が少しだけ寂しげに揺れる。 日向はその微かな揺れも見逃さなかった。 悲しそうに、唇をかみ締める。 「どうして?居ていいに決まってるじゃない。ここは、雪ちゃんの居場所だもん」 日向は真剣な声で言う。 「雪ちゃんは、ただ穏やかに笑って、そこに居てくれればいいんだよ?あたし、それだけで安心できるんだから」 同じことを……淡雪が心の中でだけ呟いて言葉にできないことを、こんなにもあっさりと日向は口にした。 いや、決してあっさりではない。 その言葉の重みは、そんな言葉で表現してはいけないものだ。 日向は涙を拭うと、淡雪の手を取って、なんとか笑顔を作った。 「あたしね……いつでも、元気でいるから。そうしたら、雪ちゃんも安心して笑っていられるでしょう?あたし、キリンさんになるの」 「え?」 淡雪はその言葉の意味がわからなくて首を傾げた。 『気合で首が伸びたんだから!』 小学生の時に、鼻息を荒くして言った日向が思い出される。 やっぱり、いまいち、意味が掴めない。 「雪ちゃんのお日様になりたいんだ。だから、頑張るんだぁ!」 日向は、今度は作った笑顔じゃなくて、しっかりと笑った。 両の手の拳を握って、気合を入れるように体を弾ませる。 微かに耳に触れる、波の音が心地良かった。 水面は日に照らされ、キラキラ・ユラユラしている。 淡雪は穏やかに笑って、 「無理しない程度にな」 とだけ言った。 一生懸命な子に、更に頑張れなんて、言えなかった。 頑張れといえば、日向は喜んで頷いただろうけど、その言葉を口には出来なかった。 自分のために頑張ってくれると言われて……頑張れなんて、誰が言えるだろう。 頑張る必要なんてない。 淡雪にとって、陽だまりのように暖かな存在。 それはもう、決定事項で。 揺らぐことなどなくて。 だけど、淡雪は「お前は前から、僕のお日様なんだよ」なんて……そんなことは口に出来なかった。 いつか、日向は自分を置いて大人になる。 もっともっと広い世界を知っていく……。 だから、淡雪は、日向を縛る言葉なんて、口に出来ない……。 でも……せめて、今だけは傍にいて。 その言葉を口にはせずに、もう1度だけ、日向の髪を撫でた。 |
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