第10章 雲を貫く光あれ
晴れた昼下がり。 どこまでも、空は真っ青で……ついつい、安曇は口元を吊り上げた。 公園へと続く道を、幼い頃の安曇が歩いている。 友達との約束に遅れそうで、少しだけ慌てていた。 その時、パタパタパタ……と海に続く道から栗色の髪の女の子が駆け出してきたのが見えた。 いつも、安曇がいじめている日向だ。 息を切らせ、肩で思い切り息をしている。 確か、最近、父親が亡くなって塞ぎこんでいた。 ……はずなのだが、今日はいつも通り、表情がキラキラしている。 安曇は、日向が楽しそうにしていると、どうしてかいじめたくていじめたくて仕方がなくなるところがあった。 少しからかってやろうかな……と、安曇は日向のほうへと素早く方向転換をしようとした。 けれど…… 「おにいちゃ〜ん!はやくはやく〜!」 と、安曇に気がつきもせずに、日向が振り返って誰かに手を振った。 思わず、安曇は歩みだした一歩目を止めた。 日向は一人っ子だから、兄などはいないはずなのに……と心の中で首を傾げる。 すると、道の向こう側から声が聞こえてきた。 「ひなちゃん、あんまり遠くまで行っちゃいけないよ!」 高校生くらいの、低すぎず高すぎずの声だった。 日向がその声に笑顔で応える。 「だったら、はやくきてよ〜」 「わかったわかった……」 安曇は、舌打ちをして、予定通り公園へ向かおうと、向きを元に戻した。 相手が誰だか知らないが、保護者付きならいじめてもつまらない。 日向は告げ口は絶対にしないし、誰かがいる時にいじめても、決して泣かないという、ある意味見上げた根性の持ち主だったからだ。 その分、誰もいない時は盛大に泣く。 そういう機会を見計らって安曇がいじめると、日向はすぐに泣くのだ。 「な〜にがおにいちゃんだ……」 安曇ははぁ……とため息をつく。 バットを肩でゴロゴロ転がしながら、もう1度だけチラリと日向を横目で見る。 こんなことをしている場合ではない。 これから公園で、ささやかながらも野球をするんだから。 安曇は被っていた帽子を被り直して、バットを小脇に抱える。 1回2回……と屈伸をしてから、安曇はすぐに駆け出した……が、前方から危なっかしい運転の車がこちらに向かって走ってきたので、大慌てで道の端に避けた。 「……っぶねぇなぁ……」 安曇は舌打ちをして、そう呟く。 けれど、然して気にも留めずにまた走ろうと、足に力を入れ直した……その時だった。 後方で、耳に刺さるようなブレーキの音が響く。 グシャッと……何かが潰れるような、嫌な音……。 その後に、ドゴン!ともバキン!とも形容し難い、金属と石のぶつかりあう音がした。 その音の衝撃で、触れていたコンクリートの塀が、にわかに震えたのを感じる。 安曇は何が起こったのか、掴みかねていた。 それは仕方がない。 安曇はまだ、小学1年生で……世界の果ても、世界の天井も、何も知らない。 ただ、目の前に在るものが全てだと信じて疑わない……ちっぽけな存在でしかない。 何が起こったか分からない……。 だけど、それは見てはいけないものだと……心のどこかが叫んでいた。 けれど……安曇の好奇心が、それを打ち消す。 安曇は唾を飲み込んで、振り返った。 そこには……さっきすれ違った車と思しきものが、コンクリートの塀にぶつかって、グチャグチャになり、煙のような白いものを上げている光景が広がっていた。 車から少し離れたところに、ヒト……が、フタリ、横たわっていた……。 突っ伏して……ピクリとも動かない。 ヒトリは見たことのない男の人……そして、も・う……ヒトリは…… 「ひ……なた……?」 安曇は、そのヒトの名を、思わず声に出した。 動かない。 ピクリとも動かない。 突っ伏しているから、表情も見えない……。 安曇は、生まれて初めて、心からの恐怖を感じていた。 駆け寄ろうと……心では思うのだけれど、足が強張って、全く動いてくれない。 膝がカタカタと震え始めた。 力が……入らない。 こういう時、どうすればいいのだったか……? 確か、先生は救急車を呼ぶか、近所の人に声を掛けなさいと言っていた気がする。 なんとか、誰かに知らせないといけない……。 でも、体が言うことを聞かない……。 安曇は自分が不甲斐無くて、強く強く唇を噛み締める。 ふと、その時だった……。 男の人が、ゆっくりと体を起こした。 意識を呼び戻すように何度も頭を小刻みに振る。 遠めだったが、その頭から派手に血が出ているのが分かった。 けれど、なんともないように、その男の人は、血をグイと拭うと、日向の体を抱き起こした。 日向の顔を覗き込むような仕種をして、その後に何度も何度も、日向に呼びかける。 反応がないことに慌てるように、その声はどんどんと切羽詰ったものに変わっていった。 そして、ふと、何かを思いついたように、呼びかけるのをやめると、そっと……日向の頭に手をかざした。 何をしているのかはわからない。 だが、しばらくの間、男の人は同じ体勢で静止していた。 さすがに騒ぎを聞きつけた誰かが通報したのか、それから程なくして、救急車が到着した。 安心したせいか、安曇の体を縛っていた緊迫感も次第に抜けていった。 急いで、救急車に乗せられようとしている日向に駆け寄る。 日向の頭に、うっすらと血の跡が残っている。 けれど、それ以外で目立った外傷は認められなかった。 顔色も正常で、意識を失っているその顔も、まるで眠っているように見える。 安曇は、それを見て、違和感を感じていた。 車はあんなにグシャグシャで……運転していた人は、死亡が確認されていた。 それくらいの衝撃で、……2人にぶつかったはずなのに、日向は軽症で……そして、この男の人は……。 安曇は、救急車に一緒に乗り込もうとしている男の人を見上げた。 ケロリとしていた。 さっき、頭に血が伝っていたのを確かに見たのに、今、彼の頭にそれらしい怪我は認められなかった。 男の人が、安曇を見て穏やかに笑った。 「ひなちゃんのお友達?」 「そ、そんなんじゃ……」 慌てて、安曇は首を横に振ろうとした。 自分のイメージする大人のような穏やかさに、自分が気圧されているのがなんとなくわかった。 男の人は、立ち止まると、安曇の頭にそっと触れてきた。 「…………」 何かを確認するように、安曇の目を覗き込んで黙り込む。 安曇は、訳が分からなくて、ただ、男の人の目を睨み返した。 けれど、その視線に全く臆さずに彼は笑った。 「大丈夫だよ。ひなちゃんは大丈夫。大丈夫。君の……も少しだけ、いじっておくから」 囁きは小さすぎて、声は聞こえたけれど、言葉を聞き取るまでには至らなかった。 安曇はそれに首を傾げる。 「今……」 なんて言ったのかを尋ねようとした時、男の人はもう救急車に乗り込んでしまっていた。 けたたましいサイレンの音とともに、救急車は走り出して、すぐに角を曲がって消えていった。 安曇は、約束をしていたけれど、行く気が失せてしまって、そのまま、家へと引き返した。 夕方に、友達の一人から電話がかかってきたけれど、風邪をひいたと嘘をついてかわした。 事実……帰ってすぐに頭痛を覚えたのだから、決して嘘ではないと言えるだろう。 そして、眠る頃には、その日起きたことが現実だったか夢だったかさえ、判別がつかなくなってしまっていた。 「志筑くん、志筑くん」 「んぁ?」 安曇は妙に馴れ馴れしい女子の声で目を覚ました。 不機嫌そうに顔を歪めて、机に突っ伏した姿勢から起き上がる。 基本的に、授業中だろうとなんだろうと、安曇は自分の眠りを妨げられると一気に不機嫌になる。 ……夢見が悪かったとなれば、それは2乗する。 しかも、仲も良くない奴に声を掛けられたとなれば、もう比例の対象ではない。 地雷を踏んだに等しい。 安曇は、自分が認めた者としか親しくしない。 口調は常に馴れ馴れしいくせに、人に馴れ馴れしくされることを好まなかった。 据わった目で、女子を見上げる。 けれど、そんなことを知らない女子は少しウェーブを効かせた髪をいじりながら言った。 「あのさぁ……志筑くん、髪のアレンジするのが好きだって聞いたんだけど、アタシの髪もアレンジとか、考えてくれない?」 後ろに、もう2人の女子が顔を赤らめて様子を見守っている。 はぁ……またかと、安曇はため息をつく。 時々いるのだ。 自分目当てで、こういった声の掛け方をしてくる人間が。 いや、自分の”顔”目当てで……が正確。 安曇は自分が目当てにされるような人間じゃないことをよく分かっていた。 「あー……悪いんだけど、また今度にしてくれる?」 素っ気無く、安曇はそう言って、立ち上がった。 できるだけ穏便に。 一応、以前言われた親友の言葉を胸に刻んでいた。 面倒ごとも好きではないし、それで終わるならそっちのほうが楽だと考えているから、淡雪の言葉も素直に聞けたのだ。 けれど、その女子はそんなことを知らないものだから、食い下がる。 「今日って、部活ないんでしょう?いいじゃない、少しくらいさぁ」 安曇は心の中で舌打ちした。 まずった……帰って寝ればよかったと心の底から思う。 安曇は女子の髪をそっと触った。 それに驚いたように、後ろの2人が目を見開いた。 触られた女子は嬉しそうに顔をほころばせる。 けれど、その後に続いた言葉は、すぐにその場を凍らせた。 「汚ったねぇ髪。なんだよ、これ、枝毛できまくり。アレンジする前に、まず、きちんと手入れしろよ。安物のカラーリング使ってるだろ……。お前、このまま行くと、髪スカスカになるぞ」 人を刺すように不機嫌な声で、安曇はそう言うと、乱暴に机の脇に掛けていたバッグを掴んで、女子の脇をすり抜けた。 「もし、俺にそういう話で声掛けるなら、天使の輪くらいできる髪になっとけ」 容赦なくそう言うと、スタスタと出口へと向かう。 今が放課後で、もうほとんど生徒が残ってなかったために、その女子3人は、その場で「なにあれ〜?」と不服そうな声を上げているのが聞こえた。 安曇は特に気にも留めない。 ちょうどその時、教室に入ってきた雨都と目が合った。 さっき、安曇が言った言葉が聞こえたのか、少しだけ咎めるような目で見てきた。 安曇は目を細めて、雨都の髪にさりげなく触った。 雨都が慌ててかわそうとしたが、すでに遅く、安曇は嬉しそうに何度もその髪を撫でる。 「そうそう。このくらい、綺麗な髪だといいんだよな」 雨都は安曇の嬉しそうな表情に驚いているようだ。 確かに、こんな風に表情を軽くすることはなかなかない。 綺麗な髪を見つけた時と淡雪といる時だけ……人が変わるのだ。 「あ、あの、志筑くん、私、髪の毛触られるの、嫌いなの。離してくれる?」 素っ気無い声で、雨都はそう言うと、パシッと安曇の手を払いのけた。 その態度を、安曇も大して気に留めずに、雨都の脇をすり抜けていく。 雨都は静かに言った。 「ああいう言いかたはない……と思う」 小声で。 安曇の耳に届くだけの小さな囁き。 損な性格してるな……と、安曇は目を細めた。 「俺は別にどう思われても構わないからな」 安曇も、同じように小声でそう返した。 「ただ……雪には言うなよな……また怒られるから」 そう言うと、ポンと雨都の肩を叩いて、教室を出た。 寝起きに話しかけるのが悪い。 それだけだ。 穏便に済ませようと、一応はした。 だが、自分は短気だった。 それだけだ。 今日は……夢見が悪かった。 それだけだ。 「夢……あの光景……どこかで見たような……」 安曇はそっと頭を触った。 あの男の人に触られた場所……。 けれど、モヤがかかったように思い出すことは叶わなかった。 「ま、似たような夢なら、いくらでも見るからな……」 そう呟いて、なんとか具合の悪さを払拭する。 校舎を出て、ソフトボール部のグラウンドの脇を通った。 マウンドの中心に立って、生き生きとバッティングピッチャーを務める日向の姿が、そこにあった。 安曇は、なんとなく、立ち止まって、その姿を見守った。 もう、日は暮れ始めている。 明日は練習試合だと言っていたから、最終調整なのだろう。 時が足りないとでも言いたいように、テキパキテキパキと、日向は次々にボールを放っていた。 |
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