第11章  紫陽花のようにうつろって、それでも……


 梅雨に入って、窓の外ではしとしとと雨が降り続いていた。
 庭の紫陽花がピンクっぽい紫色に染まり、いつもは物寂しい窓からの景色にも彩が加わっている。

 日向は久々に母親の作った朝食を口に運びながら、近況を話していた。
 日向といったら、朝であろうとなんであろうと元気だ。
 今日は休みなのもあって、カニ頭も健在ではない。
 髪を下ろせば、それなりに大人っぽく見えなくもない。
 母親は笑いながら、それを聞いている。
 もう、この子との付き合いも17年。
 慣れたものだ。

「それでね、あっくんがあんまり人の話聞かないから、あたし言ってやったんだ。『この、顔だけ男。性格ブサイク!』って。」
「あら〜、ずいぶんな言いようだこと……」
「だってぇ、本当にそうなんだもん。融通利かないし、すぐ揚げ足取るし、雪ちゃんに……ベタベタ……するし」
 日向は箸を口元に寄せた状態で、少し恥ずかしそうにそう言った。
 母親がぷっと吹き出す。
「結局、そこなのね」
 母親がおかしそうにそう言うので、日向は箸をブンブンと振って訴えようとする。

 今、箸に何も収まっていなくてよかった……と母親は心の中で思ったようだが、日向はそんなことには気がつかない。

「だってだってぇ……だって……さぁ」
 日向は嫉妬しているのが恥ずかしいのか、一生懸命、全身で訴えようとするが、言葉にはならない。
 母親はそれを見て、また笑った。
「はいはい、わかってます。大丈夫よ、ひぃちゃんと雪くんは誰が見ても仲良いから」

 日向がそう言われて、ピタリと動きを止める。

 突然、静かになっていそいそとご飯を食べ始めた。
 満面笑顔で言われて、さすがに照れたのだ。
 本当に、母親は日向の扱いをよく理解している。

「でもねぇ……」
「ぅん?」
 日向は玉子焼きを飲み込んで、母親に顔を向ける。
 母親は嬉しそうに笑うと、こう言った。
「雪くんは物分りがよくって可愛らしいけど、わたしと雪乃ちゃんは結構、あつもくんのファンなのよぉ」
 ほんわかと、ふふ……と笑い声を付け加える母親。

 あんまり当たり前のように言うので、日向は一瞬きょとんとした。
 ……が、すぐに、
「ぇぇええええ〜?!」
 という驚きの声が上がる。

 その驚いたのを見て、また母親は楽しそうに笑った。
「だ、だ、……え?なんで?どうして?あっくん、悪い人ではないと思うけど、ででで、でも、えぇぇ?」
「あら? そんなに不思議?」
「だ、だ、だ……」
「はい、まず、深呼吸しましょうね。わたしの耳が痛いわ」
 おっとりと母親はそう言うと、ゆっくりお茶をすすった。

 今日は日曜日で、しかも、久しぶりに母親が休みときている。
 おまけに、外は雨なので、部活もなかった。
 だから、そんなに慌てて話すことなどない。
 日向は言われたとおりに、吸って吐いてを繰り返してから、叫んだ。

「あっくんなんて、あっくんなんて、ただの変人だよ!いっつも寝てるし、意地悪いし、人嫌いだし、雪ちゃんに……ベタベタ……するし」
 自分で恥ずかしがるくせに、勢いをつけると、どうしてもそこに辿り着くらしい。

 母親は思わず苦笑した。
「でも、ほら、格好いいじゃない、いつも。あれでいて、頑張り屋さんだし、言い方を変えれば、大切な人は大事にしてくれるってことでしょう?人嫌いなのに、雪くんとは仲良くって。なんだか、あつもくんを見ていると、若かりし頃の憧れの人を思い出すのよ。雪乃ちゃんもね、同じなんだって。男は、どこかミステリアスな感じを匂わせているくらいが丁度いいというか」

 日向は納得できないように、むぅぅ……と唇を尖らせる。

「人気あるんじゃない? 違う?」
「そ、それは……確かに、よく……橋渡ししてくれって頼まれるけどさ……」
「ほぉら。世の女の子はよく分かってる」
 母親は楽しそうにそう言う。

 日向はあんな偏屈のどこがいいの? と首を傾げるばかりだ。

「でも、1つも橋渡ししてあげたことないんだよ。だって……あっくん、断る時も言葉選ばないから……。可哀想で、おすすめしたくないんだもん」
「ああ……まぁねぇ、それは仕方ないわ」

 母親は楽しそうだ。

 若かりし頃の憧れの人……というのもあながち嘘でもなさそうだ。

 日向は珍しく、ふぅ……とため息を吐いた。

「あたしは……雪ちゃんのほうが……いいなぁ」
 ぽつりと。
 本当にぽつりと言った。

 いつも、元気なのに、その言葉の時だけは、静かだった。
 ……その日向の声の艶っぽさを感じ取って、母親は目を細める。

「そうねぇ。雪くんは物分りが良くって、人に気ばかり遣って……。時々心配になるくらいだけど、ああいう穏やかな子、なかなかいないわ。ある意味、癒し系……なのかしらね。ああいう子だから、ひぃちゃんを任せても安心だと思えるのだしね」
「雪ちゃんは……痛くても痛いって言わない人だから、心配なんだぁ」
「ふふ……」
「なに?」
「なんだか、嬉しいわ。ひぃちゃんも、成長したなぁって思ったらね」
 母親は、娘を見守るように優しい眼差しでそう言うと、
「さぁて……お茶が冷めちゃった……入れ直そうかしら。ひぃちゃんも何か飲む?」
 と立ち上がって、湯呑みのお茶を流しに流す。
「あ、ココア! 黒豆じゃないヤツ!」
「はぁい。じゃあ、お母さんもそれにしようかな♪」
 お味噌汁に口をつける前に、スパンと指定する日向に、母親は了解のウィンクを返す。

 食器棚の一番下に置いてある、お茶セット一式を入れた箱からココアの缶を取り出すと、今度は、一段上にある棚からマグカップを二つ取って、テーブルに並べた。
 食器棚の段の配置は、日向の背に合わせて決めたものだった。
 日向1人で留守番になる時のことも考えて、小学生の時に母親が配置して、そのままになっていた。

「本当に……雪くんには感謝してるわ。それに、雪乃ちゃんにも、水無瀬さんにも。ひぃちゃんが健やかに育ったのは、水無瀬家のおかげ」
 母親は寂しそうな目でそう言うと、ココアの粉末をカップに二さじずつ入れて、ポットのお湯を注いだ。

 日向はそれは違うと口にしようとしたが、母親はすぐに話題を変えてきた。
「そうそう。最近ね、こんな田舎町なのに、急患が多いのよ。まぁ、田舎とかそんなのは関係ないんだろうけどね」
 そう言いながら、黄色いキリン柄のカップを日向に渡すと、席に着いた。

 一口飲んで、幸せそうにため息をもらす。
「それでさ……その急患が、みんな、ひぃちゃんと同い年か下くらいの子達でね。おじいちゃんとかならわかるんだけどさ……。おかしいと思わない?」
「その……運び込まれた理由はなんなの?」
「突然倒れる……かな……」
「え?」
「脈に乱れもないし、貧血でもないのよ。だけど、倒れて全く反応しないから、慌てて救急車を呼ぶってケースでねぇ」
 そこで、また母親はココアに口をつける。
 あまりに美味しそうな顔で飲むので、日向は急いで残っているご飯とお味噌汁を口に流し込んだ。
「運び込まれてから3日くらいすると、みんな目を覚ますんだけど、激しい頭痛がするとか……手が震えるとか……そういうのが残っちゃってね。検査しても、どこにも問題がないんだけど……」
 その言葉を聞いて、日向は少し不安になった。

 母親は真剣な目をして言った。
「本当は外部にもらしちゃいけないんだけど……、1人、昨日亡くなったのよ」
「……え?」
「運び込まれてきた時から、衰弱しててね。……でも、検査しても異常が見当たらなくって、処置のしようがなくて……」
 母親の声はどんどん小さく、それでも真剣味を帯びていく。

 日向は、さっき食べたご飯の味を忘れるくらい、その母親の話に耳を傾けていた。

「原因不明だから、気をつけろとも言えないんだけど。ひぃちゃんのこと心配だから、一応、このことは話しておこうと思ったの。ごめんね、朝からこんな話で……」
 それから取り繕うように、母親は笑った。

 ココアを口に含んで、言おうか言うまいかを思案するように目を細めている。

 日向はとりあえず、『怖い』話を聞いた時のような喉の渇きを覚えて、ココアをぐいっと飲んだ。

「倒れる前日に……」
 母親が意を決したように口を開いた。
「みんな揃って、何かに追いかけられる夢を見てるの」
「追いかけられる夢?」
「そう……偶然か、必然かはわからないんだけどね……。追いかけられる夢なんて、結構見る人、多いものだし」
 母親は不安そうに言った。

 本当に心配なのだろう。
 特に、母親が仕事の時、日向は食事を水無瀬家でごちそうになる以外、ほとんど1人で過ごす。
 そんな時に、わが子が倒れでもしたら……という不安があるのだと思う。
 原因がわからないから、処置ができないにしても、そこで倒れてるのと、少なからず手を施すのでは、結果は全然違ってくることもあるのだから。

 日向はなんとか笑顔を作った。
 母親が暗い時は、いつも自分がハツラツと笑っている……と決めている。
 もう、絶対に泣かない……というのが、子供の頃からのきまりごとだった。
 それでも、やっぱり泣いてしまうことは、時々あるのだが……。
 けれど、それを決めてから、日向は母親の前で涙を流したことは、1度もなかった。

「大丈夫だよ♪ なんか、おかしいなって思ったら、すぐ報せるし。そんなに不安なんだったら、雪ちゃんに何回か見に来てもらえるように頼んでおくから。あたしは大丈夫だよ、元気だもん。それだけが取り柄だもん」
 日向はカップを置いて、全身で元気さをアピールした。

 母親がその様子を見て、少しだけ安心したように笑う。
「そうね……。お願いだから、ひぃちゃんは、あの人みたいに……。あ……、なんでもないわ……」
 言いかけてやめた。

 でも、日向にはすぐにわかった。
 『お父さんみたいに、突然死なないで』と言おうとしたのだと思う。

 いつも、ほんわかとした空気を漂わせている人だけど、父親のことを思い出すと、突然弱気になる。
 今回の件で、日向の身を案じた結果、そこまで考えが及んでしまったのだろう。

 日向は寂しそうな母親の目をジッと見つめた。
 視線に気がついて、母親も見返してくる。
 日向は朗らかに笑って、
「ねぇねぇ、お母さんの憧れの人ってどんな人だったの?写真とかあるなら見たいなぁ♪」
 と話をずらした。
 母親は一瞬困ったように首を傾げたけど、あんまり楽しそうに日向が笑うので、目を細めて笑い返してきた。
「そうね、見せてあげてもいいわよ。アルバム取ってくるから、ひぃちゃんは食器を流しに置いておくこと」
 優しくそう言って立ち上がると、スタスタと物置になっている階段の下の部屋へ歩いていってしまった。
 日向は母親の背中に
「はぁい♪」
 と元気良く、声を返す。


 生まれてから17年、一緒にいる。
 母親が日向の扱いを理解しているのと同じで、日向も母親の扱いをきちんと理解していた。

 この人の前では……決して、自分は暗くなってはいけないのだ……。

 日向は食器を流しへ置いて、すぐに席に戻った。
 窓から見える、庭の紫陽花が……雨に濡れて微かに輝きを放っている。
 ほんの少しでもいいから、あんなふうに耐えられる花に、自分もなりたいと……日向は願っていた。

 きっと……みんなは、紫陽花と言われたら、雨都をイメージするだろうけど……。

 雨都は……日向の憧れの女の子だった……。



第10章 ← → 第12章
トップページへ戻る


inserted by FC2 system