第12章  一人ぼっちの雨粒、ひとつ


 制服も夏服に変わって、窓の外では、相変わらず雨が降り続いている。
 人の熱気と湿気で、ムシムシとしているけれど、窓も開けられたものじゃない。
 教室にいる全員の不快指数は、確実に120を越えていた。
 八朔(ほずみ)は、それでも涼しい顔で授業を進めていく……と言っても、額に汗が浮かんでいるが。

 安曇がパタパタと……下敷きで顔を仰ぎながら、我関せずとでも言うように、窓の外を見つめているのが見えた。
 たぶん、今日も部活は筋トレか……とでも、心の中でぼやいているのだろう。
 淡雪は、その様子を見て、目を細める。
 この前の出来事は、風の噂で聞いた。
 さすがに説教くさくなるから、聞かなかったことにしたけれど、もっと敵を増やさない生き方ができないものかな……と、安曇を見ていると心配になる。
 ああいうことをする度、どんどん安曇は孤立していくのだ。
 人嫌いでは……美容師になる夢だって、困難になってしまうだろうし……。

「はい、じゃあ、この問題、解いてもらいましょうかねぇ。はい、ぜひ、解きたいって人、挙手。はい」
 黒板に何問かの問題を書き終えると、八朔は振り返って、自分も挙手の動作をして教室を見回した。
 「はい!」と手を挙げる人はいない。
 それをわかっていながら、八朔はこの2ヶ月挫けずにこの言葉を口にしていた。

 けれど、今日は少しだけ違った。
「はぁい! ハッサクくん、あたし、解けるよ」
 授業中だろうと構わずに教師をニックネームで呼ぶ日向が、ピョンピョンと体を弾ませて挙手をした。
 授業中に面と向かってニックネーム……というのも、頭の固い古株教員には日向だってしない。

 だけど、八朔の場合は1度呼ばれた時に、
「それいいですね。これからはその呼び方で呼んでください」
 と嬉しそうにしたものだから、日向は本当にそれからずっと呼び続けている。

「ああ、希(ねがう)さん、自信満々ですね」
「はい! 今日は、うっちーと一緒に予習してきたから完璧です♪」
 日向は本当に自信満々に答える。

 日向の前の席で、ずっと参考書を読んでいたのだが、突然自分の名前が上がったことに驚いたのか、雨都は顔を上げた。
 それを聞いた八朔はにこやかに笑って言った。
「それじゃ、十二神さんにも参加してもらいましょうか」
「え? ……はい」
 雨都は状況を理解できないように、一瞬沈黙したが、とりあえずそう返事をする。

「あと、1人……ですねぇ。それじゃぁ……塚山くんにお願いしましょうかね」
 八朔がちょうど目が合った男子に笑いかけてそう言うと、塚山くんは不服そうな声を上げた。
「えぇ〜……冗談だろ、先生。オレ、この前の小テスト、点数悪かったの知ってるじゃん」
「はい、だからこそ、こういう小問を解いて感覚を養うんですよ?数学は理論で成り立ちます。その理論を理解できれば、国語以上の点数を取ることができる科目なんです。国語の満点者より、数学の満点者のほうがたくさんいるのがいい証拠です」
 八朔は穏やかにそう言うと、チョーク入れから三本新しいチョークを取り出し、問題の下にコトンコトン……と置いていく。
「理解できないから、困ってるんだろー……」
「そうですねぇ。まぁ、やってみてください。解答はきちんとボクが説明しますから」
「……はぁい……」
 塚山くんは渋々ながらも承知して立ち上がった。
「当てた順番どおりで、1番を希さん、2番を十二神さん、3番を塚山くんにお願いしますね」
 優しく声をかけると、八朔は他の生徒の解答を確認するように教室を見回り始める。

 日向は解答を書いたノートを持って、雨都は特に何も持たずに、塚山くんはチャート式と教科書を持って、それぞれ壇に上がった。

 雨都は全く迷いを発生させずに、カッカッカッと黒板に数式を書き込んでいく。
 淡雪のところから見ると、「こんなくだらない問題……」という感じの呆れを感じるほど、本当にスピーディーに書き上げていく。

 日向が書いている途中に、雨都に笑いかけた。
 雨都はふと手を止めて、日向の解答に視線を移した。
 そして、コソコソ……と日向にだけ聞こえるように何かを言う。
 すると、日向は「あ、ホントだ……」と慌てたように声を上げて、書いたばかりの数式の『2』の部分を『4』に直した。

 全く……せっかく予習してきたのに写し間違えたら意味がないだろうに。
 淡雪はその様子を見て、そんなことを思った。

 その時、回ってきた八朔が立ち止まって、淡雪のノートを覗き込んできた。
「なんだぁ……水無瀬くんもできてるじゃ……あぁ、全部途中で止まっちゃってますね」
 淡雪のノートに苦笑をもらす。
 淡雪は困ったように笑うと、
「どうしても、そこからわからないんですよ」
 とだけ答える。
「そうですねぇ。このへんは少しゴチャゴチャしますから……」
「何回やっても、理解できなくって……」
「もう10年になるのにねぇ……」
 八朔の声が、心なしか低くなったような……そんな気がして、淡雪は顔を上げる。
「え?」

 ギクッとした。
 まさに、漫画の擬音のその表現が合っていた。
 眼鏡が光っているせいで、八朔の表情は確認できない。
 それが、余計に淡雪の心臓の鼓動を早めた。
 10年……?
 それは……自分のことを言っているのか?
 でも、八朔がどうして?
 淡雪は、その数字に思わず、唾を飲み込んだ。

 ノートを繰り返して見返し、
「ああ……この問題もか」
 と頷くように色々確認する。
 そして、八朔はノートから目を離すと、ニコリと笑った。

「いやぁ……中学の頃から、数学を人に教えるのが好きだったんですけど、どうしても、数学の理論をきちんと教えてあげられないんですよね」
「あ……」
「得手不得手があるから、どうしようもないんですけどね」
「はい……そうですね」
 淡雪はなんとか笑顔を作って、それに答える。
「もしよかったら、あとで来てくださいね。いくらでも教えますから」
 八朔はそう言うと、別の席の生徒に声を掛けて、歩いていってしまった。
 淡雪はふぅ……と息を吐く。

 大丈夫だ。
 偶然の数字だ。
 気にすることじゃない……。
 淡雪は暑さで出たのではない汗を拭って、顔を上げた。
 すると、安曇がこちらを見ていた。
 淡雪は眉をへの字にして笑う。
 安曇がその笑顔に、意地悪そうに笑って答えてきた。

「安曇はいいよな……」
 淡雪はポソリと呟く。

 安曇は感覚の人だ。
 理系の勉強をあまりしなくてもこなせるような……そんな人間だった。
 その分、とことんコツコツ……が必要な学科は全くできなかったけれど。
 淡雪とは全く逆だ。

 雨都が戻り際に、淡雪の脇を通った。
 なぜか、心配そうな眼差しだった。
 淡雪は
「どうかした?」
 と声をかける。

 その問いかけに立ち止まり、雨都は八朔に視線を移し、すぐに淡雪に戻す。

 笑みを浮かべるまでは至らなかったけど、目を細めて言った。
「なんでもない……ただ、あなたが、気分悪そうに見えたから……」
 声はどうしても淡白になりがちだが、言葉尻が心配してくれてるというのを感じさせる。

「今日……蒸し暑いからね。息苦しくって」
 淡雪は穏やかに笑って、そう返した。
「ああ、そうね」
 雨都が涼しげな表情で頷く。
 彼女の顔には、汗ひとつ浮かんではいなかった。
「暑くないの?」
 淡雪のその問いに、雨都は首を傾げる。
「暑いけど……私、元々低体温だから、このくらいなら耐えられるわ」
 本当に、表情も声も、抑揚があまりない。
 顔がやたらと綺麗なものだから、余計に無機質な人形のような印象を放っている。

 同じ血を引いてる割に、霧とは偉い違いだな……と淡雪は思った。
 どちらかと言うと、雨都のそれは、当主に似ている。
 いや、あんな人間と比べたりしたら失礼だけど、心からそう思ったのだ。
 けれど、それもそのはずか。
 雨都は当主の血のほうが色濃いのだろうから。

「それより……この部屋、暗くない?」
 雨都は教室を見回してそう言った。
 淡雪もつられて見回す。

 けれど、いつも通りだ。
 窓の外は雨模様で暗いけれど、教室の中まで暗いということはない。
 蛍光灯は煌々と室内を照らしてくれていた。

「なんだか、息苦しいのよね……」
 雨都は憂いを帯びた表情で、そっと呟いた。
 苦しげに顔を歪める雨都に、淡雪は違和感を覚える。
「なんだか……体に力が入らな……」
 そう言いかけた途中で、雨都がかくりと膝から崩れる。
 慌てて、淡雪は雨都の脇に手を差し入れて、崩れ落ちるのを阻止しようとした。
 ……が、片方の手が間に合わず、雨都は横倒しの形で、床に倒れこんだ。

 教室が騒然となった。
 授業中に目の前でクラスメイトが倒れれば当然の反応だ。
 淡雪は目の前で倒れた雨都を見て、背中に冷や汗が伝うのを感じた。

 まさか……いや、そんなはずはない。
 なぜか分からないが、彼女は、淡雪の力の干渉を受けていなかった。

 すぐに椅子から立ち上がって、雨都を抱き起こす。
「書記長。書記長!」
 雨都には悪かったが、ペチペチと優しく頬を叩く。

 けれど、反応はない。

 顔が真っ青で、触れた頬は本人が言った通り低体温のせいなのか、とても冷たかった。
 とりあえず、雨都の首に触れて、脈を診た。
 特に乱れているようには感じない……が、彼女の脈の速さがわからないから、断言はできない……。

 日向も事態を把握して、教壇から下りて、駆け寄ってきた。
「うっちー?」
 ゆさゆさと雨都の体を揺さぶる。

 やっぱり、雨都は反応しなかった。

「待ちなさい、揺さぶらないほうがいい」
 八朔が心配そうに言った……が、日向はそんな言葉は聞き入れない。

「なんでもいいから、雪ちゃん、早く、保健室!」
 日向は珍しく、語気を強めて言い放った。
 淡雪もその声に反応して、そのまま雨都を抱き上げて歩き始める。

 細い体は簡単に持ち上がった。
 腕の中の雨都は、あまり力を入れると折れるんじゃないかと思うくらいの脆さを感じさせる。
 頬と同じで、触れた腕も冷たい。
 触れた背中から温もりを感じたことで、淡雪は少しだけ安心した。
 彼女は……人間じゃないのではないかと……思ってしまうところだった。

 日向が横に並んで、不安そうに雨都の顔を覗き込む。
 淡雪はできるだけ平常心を保って言った。
「大丈夫だよ。呼吸にも脈にも、乱れはないから」
 気休めにしかならないだろうけど、日向を安心させようとする優しい声。
「う……うん……でも、まさか、そんな……」
 日向はその言葉ではない、別のことで動揺しているような様子だった。
 淡雪は早足で歩きながら、首を傾げる。
 後ろで、なんとか生徒を落ち着かせようと、八朔が珍しく声を張っているのが聞こえた。
 淡雪と日向は、少しずつ静かになっていくクラスメイトたちの声を背に、階段を下りていく。

「やだよぉ……そんなの、やだ……」
 日向が保健室に向かう途中、何度かそんな言葉を口にしているのが聞こえた。
 でも、そんな事態でもなかったから、淡雪は深くは追及せずに保健室へと急ぐ。

 保健室の扉を日向に開けてもらい、大急ぎでベッドに寝かせる。
 そして、すぐに保健医の先生に診てもらった。
 髪の長い保健医の先生は、雨都の目を開いて、瞳孔の動きを確認したり、脈を測ったりして……うぅ〜ん……と腕を組んだ。
「ど、どうですか?」
 日向が心配そうに尋ねる。
 先生はそれには答えずに、雨都の額に手を当て、その後に、口の中を覗き込んだ。
 日向が不安そうに、淡雪の制服を握ってきた。
 淡雪は優しく、日向の肩に触れて応えた。

「これは……」
 先生が結論を出したように頷いて、こちらに向き直った。
 2人はゴクリと……喉を鳴らして、言葉を待つ。
 先生は緊張したような面持ちで、一拍二拍……と間を置いた後に、なぜかニッコリと笑った。

「栄養失調と、睡眠不足……あと、生理痛かしら?」

「え?」
「は?」

 2人は同時にマヌケな声を上げた。

 その後、淡雪だけ、顔を赤らめる。

 日向はとりあえず、胸を撫で下ろしたようだった。
「た、大したことないんですか?」
「うん、栄養失調……って言っても、軽いものっぽいし、睡眠不足は今寝てるからすぐに解消されるわ。生理痛は……まぁ、いつものことだから」
 先生はそっと雨都の頭を撫でて、そう言った。
「この子、毎月来るから、顔は覚えてるわ。でも、この日本で、このご時世に栄養失調とはねぇ」
 先生は呆れたように苦笑をすると、2人に確認するように訊いてきた。
「この子……お昼食べた?」

「あ……最近、うっちー、調べたいことがあるからって、お昼一緒してなかったんです」
 日向は困ったようにそう言った。 「まさか、何も食べないでやってるなんて……」
 という呟きを付け加える。
「本当にね」
 先生もその呟きに賛同するように頷いた。

「とりあえず、目を覚ましたら、送っていってあげてちょうだいな。先生、今日は会議があって、これから帰らなくちゃいけないの。えっと……ちょっと待ってね」
 そう言うと、先生はデスクまで行き、引き出しを開けて、チョコレートを取り出した。
 それを日向の手に渡す。
「とりあえず、栄養剤は打っておくけど、起きたら、これ食べさせてあげて。または、強引にでも、お家に招待してあげてほしいわ」
「え?」
 その言葉に日向が首を傾げる。
 淡雪も表情だけだが、反応した。
「この子、1人暮らしなのよ」
 あっさりと、先生は言う。
 それを聞いて、2人とも、きょとんとした。

「ぇえ〜?!」

 ようやく、日向が驚いて声を上げる。
 淡雪はただ、雨都を見つめる。

 先生は言っちゃまずかったかなぁ……と顎に人差し指を当てていたけれど、続けた。
「この子、料理もできるようだったし、しっかりしてるみたいだったから、学校側にも言わないでいたんだけど、……さすがにこういうことになるとなぁ」
 先生は悩ましげに言った。
 雨都を見つめて、うぅ〜ん……と声を上げる。
 そして、その後にふぅ……と息をついて、
「この子に言っておいて。今度、こんなことがあったら、学校側に事情を話すからって。なんだか、そういうことになってること、知られたくないみたいだったけど、さすがに、家で倒れたらまずいからね」
 と心配そうに目を細めて言った。

「わ、わかりました」
 日向はブンブンと首を縦に振って応えると、ベッドの脇の椅子に座って、雨都の顔を真剣な眼差しで見つめた。

 淡雪も、隣のベッドから椅子を引っ張ってきて腰掛ける。
「もし、目を覚まさなかったら、僕が背負っていくよ」
 そう……優しい声を掛けると、日向がコクリと頷いた。

 窓の外の雨はだいぶ小降りになってきていた。
 これなら、なんとか、背負って帰ることもできるかな……と淡雪は心の中で呟いた。

 それにしても……まさか、あの高台の屋敷のような家に、1人で暮らしているとは……。
 どこまでも、想像の及ばない部分を持った子である。

 淡雪は、栄養剤を打たれて、少しだけ顔色の良くなった雨都を見つめて、ふぅ……とため息をついた。



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