第13章  巡り巡るものが本当に在るのなら……


 雨都は子供の頃から、人の心の声が聴こえる子だった。
 いつも、人が傍にいると、ざわざわと耳障りな声が雨都の心を支配してやまなかった。
 そのせいか、幼くして、人と一緒にいることを好まない子になってしまった。
 けれど、決して、雨都は人が嫌いなわけではない。
 本当は……クラスメイトたちと話したかったし、仲のいい友達だって欲しかった。

 ただ、周囲が雨都にそれを求めなかっただけだ。たった一人を除いて。
 だから、雨都は話しかけられることでもない限り、人に近づかなかった。
 それだけのことに過ぎない。

『なんか、この子やりづらいんだよなぁ』
『十二神さん、恐いんだよねぇ』
『少し可愛いからいい気になって……』

 綺麗に整った顔をつんと澄ませているのがいけなかったのか、雨都はすぐに近づきづらい子……と思われてしまう。
 それでも、雨都の、感情が表に出ない欠点ともいえる特技のせいで、それが当然のことのような空気になる。
 人の心は……言っている言葉と違う……。
 それが思いやりなのか、それとも、同情なのか、蔑みなのか、そこまで読み取る力は雨都にはない。
 ただ、口にした言葉と、心の中の言葉にギャップがあるのがすぐにわかるから、せっかく話しかけられても、敬遠してしまうのだ。
 もちろん、自分だって、心で思った通りのことを口にできているかと言えば、違う。
 けれど……できるだけ、自分の心に近い言葉を言っているつもりだ。

 雨都はある時、家の蔵から一冊の古文書を発見した。
 元々、将来を有望視されていた雨都はその古文書をあっという間に解読。
 そうして、ある1人の少年の存在を知った。
 それが……今、同じ教室で机を並べている淡雪だ。
 一族の実験が生んだ、悲劇の少年。
 雨都はそれを知った時、自分に生まれつきこの力があるのは、その罪が巡り巡って、自分にこの力を与えるという罰として返ってきたのだと……そう思った。

 そう……これは罰なのだ。
 自分が悪いのではない。

 罰。

 身に覚えもない……因縁。

 けれど……それでも、雨都の中には1つの想いが芽生える。
 もしも、この少年に会うことができたなら、その時は……自分が謝罪をすると。
 それが決してなんの解決にもならないことを、雨都はわかっていた。
 それでも、その気持ちだけは譲れないものだった。
 たとえ会えても、その少年だとわかることなどないことも、わかっていたけれど。

 中学に入学する前、両親の研究の都合でアメリカに行く話が持ち上がった。
 雨都の家は……代々続く学者の家系だった。
 雨都には兄が3人いるのだが、そのうちの2人も今では科学者となって、世界を飛び回っている。
 ちょうどその研究の話が持ち上がった時、大学受験を控えていた兄と雨都を残して、一家はアメリカへと行ってしまった。
 そうして、兄が通うことになった大学の近辺で、十二神家の別荘として使われていた、今の高台に引っ越してきたのだ。

 そして、この町に来て、3ヶ月経った頃、不思議な空気の少年に出会った。
 いや、ただすれ違っただけだが……それが、雨都にとって、『出会い』以外の何者でもなかった。

 すれ違うだけでも……雨都の耳には人の心の声が届く。
 それは人がどんなに穏やかにしていても、ざわざわと騒がしい。
 それなのに、その少年の心は、とても静かだったのだ。
 まるで、さざ波のように穏やかで……雪が降り積もるように物静かだった。
 もちろん、少年が心を乱すことだってある。
 けれど、その心の乱れも、何もかもがいつも苦しげで、……雨都は気がつくと、目で追うようになっていた。
 そして、2年経ったある時、気がついた。
 彼は……年を取っていない……と。

 たとえ会えても、その少年だとわかることはない……。
 そう思っていた雨都。
 けれど、少年は、雨都の目の前にいた。

 少年は、時に寂しげで、時に悲しげで……それでも、満たされたように笑う人だった。

 雨都が読んだ文献の少年。
 一族の犯した罪の被害者。
 だけど、少年は、穏やかに微笑んで、そこに立っていた……。

 今年の春、兄が遠くの大学院に通うことになった。
 雨都を残して、家を出て行った。
 とても、心配していたのだが、雨都が「したい勉強をしたほうがいい」と、笑顔で言ったから、兄はその言葉に背中を押されて、進学を決定した。

 そうして……今、雨都はたった1人、あの広い家で暮らしている。



 雨都の目の前で、しんしんと雪が降り積もっていく。
「あれ? 今は……6月のはずだけど……」
 雨都はその光景に違和感を覚えて、首を傾げた。

 ハラハラと降ってくる雪に、そっと触れる。
 その雪は……冷たいものではなかった。
 とても暖かで……どうしてか、心が安らぐのを感じる。

「……雪……じゃ……ないの?」

 雨都がそう呟くと、雪は光り輝いた。

 慌てて、眩しさをかわそうと目を覆う雨都。

 ふと……耳に雨の音が届いた。
 傘が雨を弾く、微かな音。
 雨都はそっと……目を開けた。

 いつもよりも、だいぶ高い目線に驚いた。
 そうして、その後に気がつく。
 自分が誰かに背負われていることに。

「え?」
 雨都は思わず、声を出してしまった。

 温かな背中が心地よかった。

「よかった……目、覚めたんだね」
 穏やかな声を、その人は発した。

 水分を含んで、いつもよりも撥ねが厳しい黒いネコッ毛の髪。
 横顔から覗く、優しげな目と目が合って、雨都は自分がどんな状況なのかに、ようやく気がついた。
 突然、意識が途切れたことを思い出す。

「あ、い、委員長、下ろして……私、歩ける……」
 淡雪に背負われた状態で、なんとかそれだけ言う。
 けれど、淡雪は心配そうな声で続けた。
「え? でも、大丈夫? 軽い栄養失調だって、先生が言ってた」

「は……恥ずかしいから、下ろして! ……あ……」
 雨都は言ってしまった言葉を後悔するように、口を塞ぐ。

 確かに、恥ずかしいからだったが、こんな言い方をしたら、相手がどう思うだろう?
 あまり、自分の口の聞き方について、考えることのない雨都でも、その時だけはしまったと思った。

 淡雪は……別段気にも留めない様子で、
「そうだね。もう……子供じゃないんだし、恥ずかしいよね」
 と笑う。

 そして、そっと屈むと、雨都のことを優しく下ろしてくれた。

 傘を雨都にさしかけて、持っていた薄紫色の傘を渡してくる。
「大丈夫? フラフラしない?」
「え……ええ、平気。ここで、大丈夫だから……。送ってくれて、ありがとう」
 雨都は俯いた状態で、礼を言うと、傘を広げて、脇をすり抜けようとした。

 ふと、自分が黒い上着を着ていることに気がついて立ち止まる。
「……これ……?」
「あ、僕の服。ほら、今日、雨降ってるから、家に寄って取ってきたんだ。夏服じゃ……体に響くと思ったから。ひなは、今、うちの母さんに頼んで飯作ってもらってるから、できたら、持ってきてくれるって」
「……え?」
「ひなが、書記長の家まで届けるからって。ごめんね、勝手にひなってば、カバン漁って、鍵まで見つけちゃって……」
 淡雪が困ったように眉をへの字にして、ポケットから鍵を取り出す。
 ……そうか、それで、傍らに日向の姿がなかったのかと、雨都は心の中で納得した。
「あ……そういえば、カバン……」
「カバンはひなが持ってくるってから。こういう時、アイツ、抜け目ないんだ。保健の先生に、君が1人暮らしだって聞かされて……。たぶん、意地でも君の家、行こうとしてる……」
 苦笑しながら、淡雪は言った。
 ポリポリと、頬を掻く。

 雨都はブカブカの上着を脱いで丁寧にたたんだ。

「ひなたちゃんってば……」
 雨都は小さく呟いた。

 心の中で微笑む。
 日向のお節介は……嫌いじゃなかった。

「ごめんな、余計なお節介とか……思わないでね。ひな……書記長のこと、心配なんだよ」
「わかってる……」
「うん、それならよかった」
 淡雪はほっと安心したように笑う。

 雨都も……なんとなく、つられて笑った。

 そして、上着を淡雪に手渡す。
 淡雪は受け取りながら、
「送っていくよ、家まで。あ、僕は家まで入らないから」
 そう言って様子を伺うように、雨都を覗き込んできた。
「ううん……送ってくれるなら、お茶くらい出す。ひなたちゃんに、怒られるでしょ? ここで帰ると……。……あ……!」
 雨都はふとあることを思い出して、小さく声を上げる。

 淡雪の不思議そうな表情。

 雨都は、少し考え込んでから、こう付け加えた。
「……ただ、家が魔の巣窟になってても、耐えられれば……なんだけど」
 淡雪は意味を図りかねるように、そっと首を傾げた。


 洋風の造り。
 白塗りの壁に、緑色の屋根が可愛らしい家だ。
 雨都は見慣れているからすぐに庭を渡りきってしまったが、淡雪は圧倒されるように、しばしの間、家を見上げていた。

 雨都は鍵を開けると、どうぞと淡雪に声を掛ける。
 淡雪は頷くと、スタスタと歩いてきて、玄関に入った。
「……魔の巣窟……って?」
「あ……うん」
 雨都は困ったように、首を傾げ、それ以上は何も言わない。

「どこが一番、マシかなぁ……」
 雨都は淡雪に聞こえないように小声で呟いたけれど、聞き取れないにしても、声が聞こえたのか、淡雪が雨都を見た。
 雨都は何食わぬ顔で、靴を脱いで、
「ちょっと、待っててね」
 と言うと、スリッパを履いてパタパタ……と歩き、リビングの扉を開けた。

 本が山のように積んであるが、一応、リビングが一番綺麗な気がする。
 たぶん、キッチンまで入れれば、一番綺麗なのはキッチンなのだが、キッチンに客人を招くのもおかしい気がする。
 雨都はリビングの扉をパタンと閉めて、他の部屋も一応、確認する。

 やっぱり、リビングが一番マシだ。

 リビングは本が山積みなだけで、埃っぽくもないし、足の踏み場もある。
 他の部屋はどうしようもない。
 足の踏み場があっても、埃とかび臭さがあったり、その逆の部屋もある。
 それもこれも、資料を漁り続けた結果だった。
 足の踏み場がなくなり、埃っぽくなる度に、雨都は掃除をするのではなく、部屋を変えて、資料の読み漁りを継続していた。
 これが歴史史料だったら、何を言われるかわからない。
 雨都は研究や学習に没頭すると、ご飯は食べないし、掃除もしなくなるという……思いっきり学者肌の人間だった。

 しかも、普段は機能性を重視するくせに、没頭し始まると後先を考えない。
 使えると思った資料も、要らないと思った資料も全く分けずに山積みにしてしまっていた。
「しまった……」
 栄養剤を打ったおかげで、少しだけ冷静さを取り戻した雨都はそう呟いた。

 もうなかったことにしたくて、バタンと乱暴に扉を閉めた。
 一番最後、残った部屋……それがリビングだったのだ。
 だから、リビングが一番マシなのも、頷ける。
「やっぱり、リビングにしよう……」

 パタパタと玄関に舞い戻り、
「どうぞ、上がって」
 と声を掛けると、雨都は淡雪をリビングに招いて、すぐにキッチンに入った。

 ここしばらく、食事を取っていなかったということは……食材は全くないということだ。
 とりあえず、紅茶一式を整えてある棚に手を伸ばす。
 ティーポットにお湯を注ぎ、茶漉しに入れた茶葉を入れ、トレイに載せた。
 自分のマグカップと、間に合わせに兄のマグカップを取り出し、ひとまず、一息つく。
 カモミールの香りで、少しだけ気分が落ち着くのを感じた。
「私……栄養失調……だけだったのかしら?」
 どうにも、睡眠不足のせいもあってか、いまいち、記憶がおぼろげだった。
「まぁ……いいか」
 首を傾げつつも、とりあえず、自分に言い聞かせて、トレイを持ち上げた。

 お客さんを待たせるのもよくない。

 この家に、一族以外の人が来るのは初めてだ。

 そう思うと、少しだけ、心が弾むような感じがした。
 夢の中で光り輝いた雪のような、暖かさが広がる。

 雨都がリビングに入ると、淡雪が古ぼけたノートを手に取って読み始めるところだった。
「あ、すごい量の本だね、ついつい……」
「いいえ、本好きなんでしょう? 読んでもい……あ、それは!」
「ん?」
 雨都がテーブルにトレイを置いて、淡雪の持っていたノートを奪い取った。
 いきなり、手元にあったものが無くなったので、淡雪はきょとんとする。

「ちょ、ちょっと……これはダメ」
「そうなんだ……。あのさ、見た感じだと、脳神経とかそういうのに関連した本が多いみたいなんだけど……。まさか……僕のために、無理してるんじゃないよね?」
 淡雪は、顔をしかめてそう言った。
 ストンと腰を下ろして、雨都を見上げてくる。
 雨都もペタンと座り込み、淡雪の目をじっと見た。

 最近、自分の力は弱まっていた。
 罰のはずなのに、謝罪すべき相手が現れてから、雨都の力はどんどん弱まっていた。
 だから、集中しないと、相手の心を聞き取れない。

 心配そうに淡雪は見つめてくる。
 雨都に聞こえた声も、同じだった。

「僕のことで、君が悔やむことなんて、ひとつもないんだ。お願いだから……こういう無茶はもうしないで。ひなが……悲しむし……」
『僕も、心配だから』

 心の声が聞こえた。

 雨都はその声に恥ずかしくなって俯く。

「お願いだから、僕なんかのことで、時間を無駄にしないで」
 淡雪は寂しそうに目を細めた。
 声色が少しだけ、厳しいものに変わる。

 けれど、聞こえた心の声は違った。

『ありがとう。でも、君が頑張らないで』

 雨都は俯いたまま、答えた。
「……なんかじゃない」
「え?」
「なんかじゃない。無駄だなんて思わない。私は、あなたを救いたい。せっかく見つけた居場所でしょう?だったら、もう……ここだけで良くなるようにしたい。ひなたちゃんの傍にいさせてあげたい」
 雨都は決意したように顔を上げて、そう言い切った。

 淡雪は驚いたように目を見開く。

 あの日、屋上で聞いた、淡雪の心の声。
 『ひなの傍にいさせて』
 彼は心の中でそう言ったのだ。

 淡雪は困ったように唇をかみ締めていたけれど、少し経ってからニコリと笑った。

「ありがとう」

「ううん……ただ、今日みたいに倒れないように気をつける……」
 雨都はその優しい笑顔に照れて、淡雪から目を逸らした。

 鼓動が、少し早くなった気がした。

 それと一緒に……少し、胸のどこかが痛むのも……確かに感じた。

 雨の音が耳に優しい。

 彼の心と同じだけ、雨都に優しかった。

 雨都は、ティーポットを持って、慌ててマグカップに紅茶を注いだ。
 少しだけ、濃いハーブティーの出来上がりだった。



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