第15章  そっと触れて、そっと繋がる


 日向が来るまでの間に掃除を少しでもしようと、淡雪は申し出た。
 雨都は気が引けるようだったけど、本の整理が好きな淡雪は「大丈夫、大丈夫」と言って、2階に上がった。
 雨都が言葉を濁した理由はすぐに分かった。

 うん……これはなかなか、素晴らしい空間だ。

 淡雪は心の中でそう呟き、コホンコホンと咳き込む。
 少し息を吸っただけで、埃っぽさとこの時期特有のかび臭さを感じたのだ。

 雨都はとりあえず服を着替えてくると言って、自分の部屋に入っていった。
 淡雪は部屋を見渡し、しばし呆然としたが、まず、足の踏み場を作ろうと考え、本の整理を先に回した。

 本の分野は幅広かった。
 文学全集から学術書、伝記、レポートをまとめた小冊子。
 この家にある部屋全部に、これだけの本があるのかと思うと、淡雪は心がわくわくした。
 これだけの量の本。
 記憶できたらどんなに気分がいいだろう……?

 ただ……今の任務は残念ながら読破ではなく、整理……掃除。後片付け。

 ガタガタ……と椅子を書棚の傍まで移動した時に、「ピンポーン……」と呼び鈴が鳴った。
「書記長! ひなが来たみたいだよ?」
 すぐに、淡雪は隣の部屋に声を掛けた。
「は、はい……今出る……」
 困ったような、雨都の声。

 淡雪はとりあえず、椅子に上って、書棚の最上段の状態を見た。
 さすがに一番上に置いている本だけあって、使用頻度は低いらしく、びっしりと埋まっていた。
 けれど、「上巻・下巻・中巻」と配置してあるのが気になって、淡雪は手を伸ばす。

 淡雪が1冊本を抜き取ろうとした瞬間、書棚の最上段にあった本が全部……根こそぎ抜けた。
「げっ……」
 普段ならあまり出さない切羽詰った声。
 次の瞬間、目の前が埃くさいハードカバーの本で埋まった。
 びびってのけぞったせいで、バランスを崩し、派手に体が床に叩きつけられた。

 感覚は麻痺している。
 落ちた衝撃は伝わったけれど、痛いとは感じなかった。
 でも……ここは……。

「痛ってぇ……」

 淡雪は情けない声でそう叫んだ。
 これが人間らしさ。
 感じられない痛みも……少しでも感じた気分でいたかった。

「い、委員長……平気?」
 お客の応対に出ようとしていた雨都が、部屋の前を通った瞬間のことだったらしく、心配そうに淡雪を覗き込んできた。

 薄い萌黄色のシャツに薄桃色のカーディガン。
 黒のチェックラインが可愛らしい白いボックス型のプリーツスカート。
 紺色のハイソックスが、私服なのによくマッチしていた。
 雨都が意識を失う前にも思ったけれど、お人形さんのようだ。
 でも、……今は血色もいいから、無機質な人形ではない。
 いいとこのお嬢様そのもの。
 これまた、霧とは偉い違い……と言ったら、故人は怒るだろうか……。

「平気……です、たぶん」
 淡雪は情けなく笑って、むくりと起き上がった。
 痛みなんてないのに、心配をさせたのはちょっとだけ気が引ける。
 腰をさすり、立ち上がると……
「うっちー、雪ちゃ〜ん!持って来たよ〜。きんぴらたくさん作ってもらったよ〜!」
 という元気な日向の声がした。
 淡雪も雨都も、その声に同時に微笑んだ。



 安曇がリビングに通された瞬間、表情を歪めるのが見えた。
 淡雪は横目でそれを確認。
 すす……と安曇との距離を縮める。
「きったね……」
 安曇が開口一番そう言おうとした瞬間、淡雪は前を歩いていく雨都と日向に気が付かれないほど光速の肘打ちを放った。

「ぐはっ……!」
 苦しそうにみぞおちを押さえる安曇。

「?」
「ん?」
 雨都と日向がその声に不思議そうに振り返った。

 淡雪はにっこり笑って
「なんでもないなんでもない」
 と2人に言った。

 それを見て、2人は気にせずに腰を下ろすと、日向がお弁当を広げ始めた。
 日向が嬉しそうに笑って、
「うっちー、その服可愛い〜。制服もいいけど、私服もいいよねぇ。前、公園で会った時も思ったけど、本当に可愛い♪うわぁ、あたしが男だったらさらってしまいたいよ〜。あぁ……あたしも着替えてくればよかったかなぁ?今度、遊ぼう!ぜひ遊ぼう!」
 ブンブンと元気いっぱいに腕を振っている。
 雨都が少し困ったように控えめな笑顔を返す。

 淡雪はその2人のやり取りに目を細めて笑った。
 ……が、次の瞬間、ガシッと肩を掴まれ、体の向きを無理やり変えられた。
 ヒクヒクと口元をひくつかせ、安曇は小声で言った。
「なんのつもりだ?ゆっきー。俺は、お前をそんな子に育てた覚えはないぞ」
「いやぁ……あんまりお前が素直なんで、ちょっと、愛の肘鉄砲を……」
「素直?素直って言ったな、お前。お前も汚いと思ってるんじゃねぇか……」
「…………。まぁ、気にするな」
「くっそぉ……本当のこと言って、何が悪い……ん」
 悪びれもなくそう言う安曇の言葉を、淡雪の表情が止めた。
 なかなか見せない、少し怖い表情。
 優しい目が、安曇の目を睨んでいた。
「……。わかったよ。余計なこと言わねぇよ。これでいんだろ?」
「そうそう」
 安曇の反応を見て、淡雪はまたにっこりと笑う。
「……はぁ……お前。まったく、罪作りなやつだな。俺を黙らせることができるのはお前の愛だけだぞ、わかってるか?」
 困ったようにため息をつく安曇に、淡雪は淡白な反応を返す。
「はぁ……」
「思いっきし引いた顔するなよ……」
「まぁ、肘打ち分、僕のきんぴら食べていいから、その嫌がらせはやめてくれ」
「嫌……?!」
 淡雪の冷めた言葉に傷ついたように、安曇がオーバーアクションで胸を押さえた。

 淡雪は思う。
 これだけ、面白い反応を、みんなの前でもすればいいのに……と。

「嫌がらせだろ?」
「し、心外だ……雪、俺は非常に心外……」
「ねぇ、2人とも、そこでバカやってないで、早くお弁当食べようよ」
 安曇の言葉を遮って、日向がそう言ってきた。
 安曇のターゲットがあっという間に日向に変わる。
「うるせぇ、チビクロ」
「なに?あっくん、食べたくないなら帰っていいんだよ」
「ざ〜んねん。俺の愛する友がきんぴらを全部分けてくれると今言った」
 不満そうな日向に対して、安曇はキラーンと目を輝かせ、淡雪の肩を抱いてきた。
 淡雪は呆れたように安曇を横目で見て、ため息混じりに呟く。
「……全部とは言ってないぞ」
 だが、安曇は聞かなかったフリをするように日向に対して、意地悪く笑いかけている。

 その時、雨都が……
「ふはは……」
 といつもよりトーンの低い声でおかしそうに笑った。
 3人ともキョトンとして雨都を見る。
 ちょっと悪役ちっくな笑い方もそうだけど……彼女の笑い声を聞いたのが……初めてだったからだ。

「……あ……」
 雨都はみんなに見られているのに気が付いたのか、恥ずかしそうに口を塞いだ。
 安曇がボソリと言った。
「支配者ちっく……お嬢さん」
 その呟きに、淡雪はつい吹き出してしまった。
 いつもなら諌めるところなのだけど……思ったことを代弁されてしまったから堪えようがなかった。

 見る見るうちに縮こまる雨都。

 表情に出ない分、肩をすぼめて俯いている。

「ねね?うっちー、今の面白かったの?」
 日向はとんと気にしないように嬉しそうに笑って尋ねた。
 雨都が驚いたように日向を見る。
 日向は首を傾げて、雨都の顔を覗き込む。
「だってだって、うっちー。そりゃ、笑い方は少し変わってたけど、今までで一番いい顔してたよ〜」
 嬉しそうにそう言う。
「あ……別に、今までが変な顔だったとかじゃなくって……えと……ぅんと……」
「大丈夫、ひなたちゃん。わかる、なんとなく。ありがと」
「そう?よかった」
 雨都が優しく目を細めたので、日向も嬉しそうにふにゃりと表情をほころばせた。

 淡雪と安曇は空いているスペースを選んで腰掛けると、安曇が早速きんぴらに手を伸ばした。

 しかも、わざわざ、日向のお弁当に。

 日向がピシャリと安曇の手を叩き、臨戦態勢に入った。

 雨都が楽しそうに、その様子を見守る。
「こういうやり取り……近くで見たの初めてなの。だから、楽しくって」
 その声に淡雪は目を細めた。
 前に耳にした雨都のことを話す男子生徒の言葉を思い出したのだ。

『十二神ってさ、綺麗なんだけど、何考えてっかわかんねーよな』
『ああ、それはあるよな。いっつも1人だし、話し方きついところあるし』
『あ……でもさ、最近、希(ねがう)さんと一緒にいるところ、よく見ない?』
『ああ、そういえばそうだな。せっかく、日向ちゃん、女友達多いのに、あいつといると減るんじゃねぇの?』
『……そんなもんかねぇ』
『だってよ、女ってそういうところ、あるだろ?姉貴がそんな感じだから、なんとなくわかる』

 ……確かに、とっつきにくいところはあると思う。
 でも、あんな風に言われるほどのことを、雨都はしたのだろうか?
 単に、話し方が朴訥とか……表情が変わらないとか、そんなことだけのはずだ。
 以前の淡雪はあの言葉につい心の中で頷いてしまった。
 けれど、話してみてよかったと、淡雪は今なら思える。
 そうでなければ、消え入りそうな声で頑張って話をしようとする、今の彼女を知ることはなかったろうから。

「ふぅん……」
 安曇が珍しく反応した。
 日向が構えているのも無視して、雨都を見る。
「お嬢さん、せっかく素材いいんだから、勿体無いぞ」

 驚いたのは日向と淡雪だ。
 安曇が……この2人以外のことを気にかけるのは初めてだ。

 雨都は安曇の言葉に困ったように首を傾げた。
「俺はこういうヤツだからいいけど、アンタ、人のこと好きなんじゃん。だったら、勿体無いと思うぜ?そんなに可愛い顔して、いい髪質してて、それなのに周りと打ち解けられないのは勿体無い」
「……え?」
「あっくんが……雪ちゃん以外を褒めてる……」
 日向があんぐり口を開けてそう言った。

 安曇はふぅ……とため息をついた。
「俺だって、人くらい褒める」
 湿気でワックスが取れかかっている髪の毛を触りながら、安曇は言う。
 雨都は自信なさそうに、眉をハの字にして安曇のことを見つめた。
「で、でも……私は……」
「1つ、言っとく。俺は嘘は言わないし、お世辞も言わない。正直に勿体無いと思ったから言ってる。このチビクロが認めたヤツなら、俺だって受け入れていいと思ってるから、こんな高台まででもついてきたんだ。わかるか?お嬢さん」
「…………」
「ま、俺と同種ならそれでもいいさ。その分、大事にしてくれればな」
 鋭い目を細めて、チラリと日向を見る。

 淡雪は安曇を見て笑みを浮かべる。
 嘘がない分、いいことを言った時に信用できる人間でもある。
 その良さを、淡雪は知っていた。

「わ、私は……ただ、ひなたちゃんと話ができれば、別に……」
 雨都はチラリと日向を見てそう言った。
 日向が少しだけ悲しそうに目を細める。
「そう言ってもらえて嬉しいけどさ……。でも、あたし、うっちーの良いところみんなに知って欲しいな」
「え?」
「うっちー、物知りだし、数学とか教えてくれるの上手だし、すごく優しいもん。みんなに変な風に言われてるの、勿体無いとあたしも思うよ?もし……ね?人と話す勇気出たら、もっとたくさんの人とお話しようよ?無理に……とは言わないからさ」
 日向は優しく微笑んで、雨都の頭をそっと撫でた。
 サラリと……黒い髪が揺れる。
 雨都は俯いたまま、日向を見上げた。
 そして、次に淡雪に視線を移してきた。
 淡雪は穏やかに微笑んでその視線に応える。
 雨都はそれを見て安心したような声で言った。

「ありがとう。あなたたちには、嘘がないのね」

 雨都はそう呟いて、その後に、
「さ、そろそろいただきましょう。私、お腹空き過ぎて具合悪くなってきちゃった」
と笑った。

 日向がその言葉に反応して、すぐに雨都に割り箸を渡す。
 淡雪に2本渡してきたので、淡雪は安曇にひょいと手渡した。

 安曇はにんまり笑って、それを受け取る。

 なぜか、安曇は上機嫌だった。

 きんぴらが食べられるからかな?と思ったが、次の呟きで、淡雪はガクッと床に突っ伏した。

 その言葉は……
「よっしゃ〜。これで、あの綺麗な髪、いじれるかもしんねー♪」
 だった。

 嘘がないのは本当だったろうが……それが真意か、この男は……と淡雪は頭を抱えてため息をついた。

 雨はまだまだ降り続く。
 けれど、夏はもう目の前だった。



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