第16章  生意気中坊、初登場!


 優(すぐる)は何かに追いかけられていた。
 なんなのかはよくわからない。
 振り返っても、そこには何もいない。
 ただ、夜闇を照らす月があるだけだ。
 けれど、何かに追いかけられていた。

 心の中に沸き起こる、どうしようもないほどの焦燥感。恐怖感。

 これは夢だ。
 これは夢だ。
 これは夢だ。
 そう、夢なのはわかっている。
 心の中で何度も何度も繰り返す。

 夢なのはわかっている。
 なら……どうして、目を覚ますことができない……。

 激しい息の乱れ。
 一体、どれくらい、走ったろうか……。
 前に進もうと必死に走っているのに、全く進んだ気がしない。
 いつもはもっと速く走れるのに……。
 足に感じる違和感。
 鉛のように重い足先がうざったく感じる。

 優は立ち止まって、手を膝につき、激しく吸って吐いてを繰り返した。

 誰かに……見られている。
 後ろから、誰かが迫ってきている。

 まるで、獲物を捕捉した獣のように、粘っこく舌なめずりする音が聞こえてきそうだ。

 首筋を……生温かい風が吹き抜ける。

「なんなんだよ……これ」

 優は怯えるようにそう言うと、肩越しに後ろを見た。

 やっぱり、何もいない。
 誰もいない。

 夜闇の中、自分を照らす月。
 落ち着いて、優は体勢を整える。
 背筋を伸ばして、キョロキョロと……辺りを見回した。

 見慣れた町並み。
 見慣れた通学路。
 見慣れた海の景色。

 ただ、異なることがあるとしたら、音がしないことだ。
 引いては返すさざ波の音。
 岩に打ち付ける大波の音。
 優はずっと走ってきたが、今まで誰ともすれ違わず、誰の声も聞かなかった。
 各家々から普段なら聞こえてくる生活の音。
 団欒の声。
 オーディオから流れる大音量のロック。
 洗濯機の音。

 夢なのはわかってるから、おかしいとは思わないけれど……でも、今、こうして追いかけられている状態では、何かに救いを求めたいと思ってしまうのは仕方がないことだ。
 もしかしたら、何かの音がきっかけで目を覚ますことができるかもしれない。

 そんな……淡い期待が、あった。

「夢なんだよな……もう、いっそ捕まってしまえば、目ぇ覚ますかもな」
 ポツリと、優はこぼす。

 何かに見られている。
 誰かに見られている。
 首筋を掴まれたように、背筋を襲う寒気があった。
 けれど、その者は姿を現さない。

 見えてもいないものに、恐怖を覚えていることにいい加減くたびれてしまった。
 優は夜空を見上げた。
 月が煌々と光り輝き、星々の煌きさえ遠ざけるほどの銀色の輝きだった。
 まるで……研ぎ澄まされたナイフのように、怪しい光を放つ……月。

 優はふと気がつく。

 この夢の中で、自分の目に、自分の脳裏に刻まれていた存在は……この月だけではないか?と。
 優は口元を吊り上げた。
 おかしそうに笑う。

「はは……月とおいかけっこかよ……馬鹿らしい。こんなのにびびってたなんて、オレらしくない……」
 自嘲するようにクックッと笑い、汗を拭った。
 言葉ほど、恐怖は拭いされていなかった。
 心の中には……逃げなきゃという焦りがまだある。
 きっと、嘲笑っている。
 もしも、この夢の中に、本当に自分を追いかけているヤツがいるのなら、そいつは優を嘲笑っているのだ。

 優の首筋に冷たく鋭い刃物をつきつけて、舌なめずり。
 振り返ってもそこにはいない。
 これは優が勝手に感じていることであって、その者がそこにいるわけではない。

「もういいよ。早く、起きろ、オレ……。オレはな、もっとピンクでハードで、刺激的な夢を見たいんだよ」
 もう諦めたようにしゃがみこむ。
 いい加減、慣れた……というのもおかしいが、相手が姿を現さないことには対処のしようがない。
 現れたとして、結局また逃げるようかもしれないが、今は体力の温存に務めよう。

 これは自分の夢なのだ。
 だから、どんなに追い詰められていようとも、最後に勝つのは自分なのだ。
 そう……この中なら、優は世界を救う勇者様にもなれる。
 開き直った結果、そんな結論だ。
 自分の意のままの夢を、今の今まで見たことがないくせに、開き直りだけは一丁前だった。

『いいのか? 逃げなくて』
 脳に直接語りかけてくる声。
 ブブ・・ン、ブン……といった雑音と一緒に聞こえた。
 自分以外の声。
 この夢の中で初めての音だった。

「面倒くさいんだよ!オレに用があるならさっさと出てくりゃいいだろう?!」
 優はそう叫んだ。
 声は答える。
『お前になど用はない』
「だったら、さっさとオレの夢から出てけよ!」
『ああ……出て行くさ』
 その声に、優は拍子抜けした。

 こんな長時間、自分のことを精神的に追い詰めておいて、これほどあっさり引く真意がわからない。
 優は頭を掻いた。
 まぁ、所詮夢だ。
 脈絡なんてものを期待してもしようがないか……。

 そう思った瞬間、ガブリと……何かが優の頭に噛み付いてきた。
 優は目を見開き、その後に
「うぁぁぁぁ!!」
 と叫んで必死に振り払う。

 ベリベリッと……皮膚が食いちぎられる音がした。
 具合の悪い音。
 ダラリと……血が頬を伝う。
 慌てて優は噛み付かれた部分を押さえる。
 血が止まらない。
 ダラダラと零れてくる。

 油汗が浮かぶ。
 痛い……。
 こんな痛み、味わったことがない。
 傷が激しく脈打つ。
 喉の奥から吐き気がこみあげてきた。

 なんで、こんな夢を見なくちゃならない……。
 優はそう思った。
 ただでさえ、受験だなんだで精神的に安定していないというのに、夢の中でまで苦しみたくない。
 自分の夢の中なのだから、ヒーローでいいではないか。
 勇者でいいではないか。
 なぜ、夢の中で自分が被害者にならなければならない。

 優はうなだれて、そこで鳥の囀りを聞いた。
「……よかった……朝だ……」
 そう呟いて、優の姿は、夜闇に包まれた町並みから消えていった。

 月だけが怪しく光る。
 先程、優に呼びかけた声が、町に響き渡る。
『タケル……俺が殺してやるからな。待ってろよ』
 その響きとともに、闇が薄ぼんやりとしていく。
 優が目を覚ましたのだ。
 少しずつ、闇が薄れ、世界の色が鮮やかになると、あれだけ自己主張の強かった月があっという間に消えてしまった。



 ジリジリと太陽がコンクリートの地面を焦がす。
 梅雨が明けたと思ったら、一気に日の光の強さが増した。
 観測史上1の猛暑になるのではないかと天気予報士が言っていた。
 納得ができるぐらい、街の景色はユラユラと揺れている。

 そんな中、ビルが建ち並ぶ街並みを、リズムを刻みながら歩いていく少年がいた。
 この暑さの中、ずいぶんと涼しげな顔で、人波をヒョイヒョイかわしていく。
 赤いネクタイに生成のベストを着ている。
 有名私立中学の制服だ。
 耳にはクリップタイプのヘッドフォン。
 背はさほど高くないが、品の良さそうな顔立ちが大人っぽさを感じさせる。
 髪型は前髪を真ん中分けにしていて、後ろ髪が少しはねている。
 携帯電話のバイブレーションに気が付いて、少年はヘッドフォンを外すと、制服のポケットから携帯電話を取り出して、着信ボタンを押した。
「はい、諸(もろ)ですけど〜」
 生意気そうな声で、少年は電話に出る。

 品の良さそうな顔立ち……は撤回すべきか?

 少年は電話の相手の声を確認して、嬉しそうににんまり笑った。

 少年らしいあどけない笑顔。

「なんだ、雨樹(うじゅ)にぃじゃん♪なになに?何の用?つーか、携帯の番号変えた?水臭いじゃん、オレにおせーてくんないなんて」
 電話の向こうで相手の冷静な声が聞こえる。
「あ、そう。昨日変えたばっか?ふーん……で、何の用さ?雨樹にぃがオレに電話かけてくるなんて珍しい」
 人波をかわして、少年はガードレールに腰掛ける。
 相手が話す言葉にふんふん……と相槌を打ちながら耳を傾けてると思ったら、いきなり嫌そうに叫んだ。

「はぁ?!ヤダよ、ヤダヤダ。なんで?オレ、雨樹にぃとしか面識ないのよ?それなのに、いきなし、いとこで〜す、遊びに来ました〜♪って行ってこいっつぅの?あんな田舎町まで?何?命令?」
 少年は相手の言葉を聞こうと、黙り込む。

 その言葉を聞いて、ふぅ……とため息をついた。
「…………。雨樹にぃも兄馬鹿だなぁ……」

 そう言ったら、相手の怒ったような激しい切り返し。
 思わず、少年は携帯電話を耳から少し遠ざける。
「そんな、でかい声で言うなよなぁ。悪かったよ、悪かった。はいはい、1人暮らしの妹を心配するのは当然ですね、はいはい。んでもさぁ、オレが行ってどうすんの?オレ、おさんどんも何もできねぇぜ?しかも、もう休み入るし……」
 少年はぶつくさと言い返す。

 『雨樹にぃ』に言われることでも、気乗りはしないらしい。

 パッパァァァ……と車が警音機を鳴らして後ろを通り抜けていく。

 少年はガードレールから立ち上がり叫ぶ。
「はぁ?!休み中、ずっとあっちに居ろ?!ちょっと待ってよ。オレだってね、部活っていうものが……。…………。それ、本当? …………。オレと……同じなの?」
 少年は驚いたような……それでも、嬉しそうな中途半端な表情でそう返すと、次の瞬間、
「わかった」
 と承諾した。
 電話の相手が確認するように聞き返してくる。
「了解しました。何ができるか知らないけど、雨都ねぇの力になれるよう、頑張ります。これでオーケー?」
 相手が優しい声で、「よろしく頼む」と言った。
 そして、プツッと電話が切れたので、少年も電話を切り、ポケットに戻した。

 ニッと笑い、ビルの隙間から見える狭い空を見上げる。

 陽射しが強くて、少年は目を細める。
「まぁ……たまには広い空を見に行くのもいいよな」
 そう呟いて、また、ヘッドフォンを耳に掛ける。
 この夏、発売されたばかりの新曲のサビの部分がちょうど流れているところだった。
 鼻歌混じりに、少年はノリノリで歩き出し、人波の中に消えていった。

 少年の名は、諸 雫(もろ しずく)。
 県下でも名門の私立中学に通う14才である。



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