第17章  海の戯れ


 目の前で日向が笑っている。
 満面笑顔。
 思わず、淡雪は目を細めた。

 どうしてだろう?
 音のない世界だった。

 ただ、日向は楽しそうに笑ったり、時折照れたようにしっとりとした笑みを浮かべたりする。

 何を言っているのかはわからないけれど、それに対して淡雪は、日向が子供の頃と同じように、ただ微笑みを返して頷く。

 これは夢なのだと……にわかに悟った。
 幸せな夢だ。
 本当に……幸せな夢だ。
 このまま、日向と同じ時を過ごせたなら、きっと、淡雪は何も望まないのに。

 日向がふと、手の平をこちらに向けて、小首を傾げる。
 目はキラキラとしていて、まるで吸い込まれてしまいそうなほど綺麗だ。
 淡雪も、なんとなく、手の平を日向に向けた。

 たぶん、こういうことなんだと思う。
 日向が子供の頃、しきりに淡雪にねだったのが、手の大きさの競争だった。
 勝てるはずなどないのに、小さな手で、何度も何度もねだってきたのを思い出す。
 淡雪は、手を合わせる度に、日向が少しずつ成長していっていることをしっかりと感じていた。
 日向しか見ていなかったから、……だから、わかる。
 兄のように……父のように、そして、幼馴染として。
 日向を見守ることが、淡雪の誓いだった。
 昔交わした……密かな誓い。

 淡雪が手の平を向けると、日向はにっこり笑って、そっと指先を合わせてきた。
 少しだけ冷えた指先が合わさって、ほんのちょっぴり温かくなった。
 その瞬間だった……。
 淡雪の手が、指先から砂のように崩れた。
 サラサラ……と微かな音が耳に心地悪かった。

「 !! 」

 ぎょっとして、腕を引っ込める淡雪。
 日向の体が、今崩れ落ちた淡雪の手のように、サラサラ……と音を立てて崩れていった。
 淡雪は手だけで済んだのに、日向は腕が崩れたと思ったら、その後に顔・上半身・下半身の順で、崩れ落ちていった。
 日向がいた場所に、白い砂のようなものが小さな山を作って、残された。
 呆然と淡雪はそれを見つめる。

 日向だった、もの。

 背筋に電気が走ったように、ザザザザッと鳥肌が立った。
 崩れ落ちた自分の手を見つめる。
 手は、元に戻っていた……。
 小刻みに震えている指。

「冗談じゃない……」
 淡雪はこみ上げてくる涙を堪えて、そっと額に触れた。
 ジンジンと、額に熱が集まっていく。
 じき、脳が破壊されるような、激痛が走る。
 もう、夢の中でだけ感じることのできる痛みの前兆に慣れていた。
 痛みには慣れない。慣れるはずはない。
 痛みは、自分が生きていることを知らせてくれるのと同時に、自分を奪っていく。

 死ぬことのない体なのか?
 痛みを知らぬだけの体か?
 年を取らない体……?
 だが、永遠に、そこにあるかはわからない。
 前例もなければ、淡雪の他に、こんな特異な体を持つ者はいない。
 本当に、そうであるかなど、誰が言えるだろうか?
 微かな可能性……。
 いつか、淡雪は死ぬかもしれない。
 その未来を望む自分。
 望んだ自分。
 叶わなかった望み。
 だけど、この先も叶わないかはわからない。
 その望みを……日向に出会って、先延ばしにしたいと思った。
 死にたくないと、ここにいたいと、それを望んでいいと……幼い日向が教えてくれたから。

 淡雪は堪えていた涙を零した。
 唇が震える。
 声にならないしゃくりあげが、淡雪の胸を圧迫した。
「いなく……ならないで……。お前が……いなくなるくらいなら、僕が消える……」
 淡雪の悲しい囁きが、音のない世界に響いた。
 その日、初めて、前兆を感じながらも、淡雪は自分の頭に激痛が走り、白骨化し、風化していく夢を見なかった。
 けれど……初めて、日向が目の前で風化する夢を見た。
 ただの夢だと、信じていたかった。



 焼け付く太陽の下で、日向が大きく伸びをした。
 ちびっこいけど、出るところは出ている日向の体に、オレンジ色のスポーツビキニタイプの水着が良く似合っている。
 ……膝だけが、他の肌より少しだけ黒く焼けていることには目を瞑ってあげよう。
 ガテン焼けと同じだ。
 淡雪はそっと自分の腕をさすった。
 焼けにくい体……いや、紫外線すら無力化するだけなのだ、この体は。

「ふぅぅ……さって、泳いでくるかな。雪、お前はどうする?」
「ん? 少し甲羅干しする」
「そか」
 競泳用の海水パンツ姿で、安曇は念入りに準備運動をしていたかと思ったら、さっさと波打ち際へと駆けて行ってしまった。
 うっすらとガテン焼けしている体を、きっちり焼く!と宣言していたから、当分戻ってはこないだろう。

 今日は終業式だけだったので、午後から4人で泳ぎに来たのだ。
 この町の海は、漁船が行き交う場所だが、地元の者にしかわからない泳げるポイントがある。
 ただ、地元の者は知っているわけだから、貸切気分で遊ぶとまではいかないが……。
 有名な海水浴場に行くよりも、数倍好き勝手に泳ぐことができるのだ。
 雨都はこの場所を知らなかったようで、感心したように、木々に囲まれた裏道をキョロキョロと見回していた。

 日向も準備運動を終えると、くるりと振り返って、パラソルの下にいる雨都に手を差し伸べた。
 パラソルの下で、白いパーカーを羽織り、膝を抱えた状態で座っていた雨都が不安そうに日向を見上げた。

「大丈夫だよ。あたしが教えてあげる♪いつもと逆。今日だけ、あたしがうっちーの先生☆」

 ウィンク1つで朗らかに言い切る日向に、雨都は困ったように目を細めた。

「私、背泳ぎでも沈むから……というか、う、運動は苦手だから」
「大丈夫!体は浮くように出来てるの!足つくところで泳ごう?無理に沖に出ようとか言わないからさ」
「少しだけでも泳いでみたら?どうしてもダメだったら、そう言えばいいよ。怖いのなら仕方ないからね」
 淡雪も穏やかにそう促す。

 泳ぐのをわかっていて、ここまでついてきたのだ。
 どうせなら、泳がなくては勿体無い。
 本当に泳ぎたくないなら、雨都はついてきたりしない。
 そういう子なのは、最近の付き合いでよくわかっている。
 わかっているから、日向もこうやって声を掛けるのだろう。

 雨都はチラリと淡雪を見てから、思案するように俯いた。
 日向が屈みこんで雨都の手を取る。
「うっちーの水着見たいなぁ、見たいなぁ♪お家から着てきちゃったって言うもんだから、おじさん、まだ見てないのだぞよ?」
「私の水着なんて……」
「何言ってるの!うっちーの水着なら、ご飯3杯いけるって!」
 淡雪は日向の脇で突っ込むのを堪える。
 『おじさん』とか『ご飯3杯いける』とか……あまりにも日向には不似合いで、しかも、だいぶディープな表現でおかしさが漂っている気がした。
 雨都がその言葉に対して思いついたように口を開いた。

「それを言うなら……」
「え?」
「日向ちゃんの水着姿で、おみおつけまでつけちゃう人がいるわよ?」
 その言葉にきょとんとする日向。

 淡雪が思わず咳き込む。

 雨都が楽しそうに笑った。
 ほんの今まで、泳ぐのイヤイヤと言っていた者とは思えないほど楽しそうに笑っている。
 淡雪は恨めしげに、雨都を見下ろした。
 雨都がニッコリと笑い返してくる。

「……書記ちょ……」
「えぇぇ?!どっかに変なおじさんいるの?あ!だから、うっちー、脱ぐの嫌だって言ってたのか?!」
「え?」
「は?」
 日向のすっとぼけたボケに、2人は同時に声を上げた。
 上手いこと、声がハモる。
 『え?』が淡雪。『は?』が雨都だった。
 日向は屈んでいる状態から更に体を縮こまらせて、辺りに警戒するようにキョロキョロと見回す。
 その一連の動作を、2人は呆然と見守る。
「うぅ……やだなぁ……今年はまだ、変な人に遭遇してなかったのにぃ」
 完璧に誤解している。
 ただ……たぶん、日向の中では、そっちのほうが可能性が高いのだろう。
 それとも、そういう面で、淡雪は全くリストに上がらないのか……?

 淡雪はふぅ……と、安心したようにため息をつくと、
「なんにもいないから、泳いできな」
 と苦笑交じりで日向に言ってあげた。

 日向は事の真偽を確かめるように、淡雪と雨都の顔を交互に見回す。

 どうも……『変な人恐怖症』はだいぶ重いらしい。

 雨都は優しく目を細めると、すっと立ち上がって、パーカーを脱いだ。
 水色のボーダー柄のタンクトップビキニ。
 できるだけ、露出を控えようとした結果か。
 シンプルを好みそうな雨都が選びそうなデザインだ。
 可愛らしくまとまらず、それでいて、野暮ったい訳でもない。

「大丈夫。何もいないから。ごめん、遊びすぎた」
 きちんとパーカーをたたむと、そっと日向の頭を撫でて、立ち上がるように促す。
 日向がようやく立ち上がった。
 しかも、さっきまでの動揺はどこへやら、雨都の水着姿を見て嬉しそうに笑った。
「結構カジュアルだね♪」
「可愛いのは……好きじゃないから」
「そうなの?」
「うん。似合わないから」
「そんなことないと思うけどなぁ」

 雨都の言葉に、悩ましげに日向は首を傾げる。

「ねぇ?雪ちゃん。うっちー、可愛い服似合うよね?」
「……。え? あ、うん。書記長なら似合うんじゃない……かな」
 淡雪は思った以上に白い肌を装備している雨都に見惚れて、心ここにあらず的な言葉を返す。

 日向が、その様子に少し顔をしかめた。
 ……が、すぐに雨都に笑いかける。
「今日は、うっちーにスパルタじゃ〜。うっちー、ここにいると、雪ちゃんに襲われるよ。早くいこ!」
「え?それはな……い」
 雨都が言い掛けた言葉は日向には届かず、日向はたたたっと駆けていってしまった。

 雨都が困ったように笑って、淡雪を見る。

 淡雪もふぅぅ……とため息をついた。

「荷物は僕が見てるから、行っておいで」
「うん。お兄さんは大変ね」
「え?」
「なんだか、淡雪くん、お兄さんみたいだから。保護者みたいっていうか」

 雨都は最近になって、『委員長』から『淡雪くん』に呼び方をチェンジした。
 淡雪もよくは覚えていないが、いつの間にか、この呼び方が定着していた。

 雨都の言葉に淡雪は穏やかに笑って、静かに返す。
「伊達に1000年生きてませんよ」
「あ……」
「はは、冗談冗談」
 雨都に対してでは、それが冗談にならないことをすっかり忘れていた。
 自分の秘密を知っている分、気を遣わなくっていいと思ってしまうせいか、こういうところで変なことを言ってしまう。
 けれど、雨都もわかったように頷いて、う〜んと伸びをした。

 つま先から指の先までが糸に吊られたように真っ直ぐ伸びる。

「運動不足の体がどこまで持つか分からないけど、頑張ってくる」
「ああ、頑張って」
 淡雪の言葉にコクリと頷くと、海へ歩き始める雨都。
 けれど、なにか思いついたのか、海へと向かう体を、もう1度振り返らせて、雨都は忠告するように言った。
「……日向ちゃん、意外とやきもち焼きよ。表情には気をつけてね」
「え?」
「だから、お兄さんは大変って言ったの」
 含むところありげにそう言うと、雨都は今度こそ、日向を追って波打ち際まで走っていった。

 向こうで待っていた日向が何か言って、雨都が準備体操を始めるのが見える。
 それに合わせて、日向ももう1度準備体操をし始めた。
 『教える』ということで、だいぶ張り切っているらしいのが遠目からでもよくわかった。
 淡雪は青空を見上げて、目に染みるほどの光を顔いっぱいに受けた。

 夏だ。
 また、この季節がやってきた。
 日向に出会ってから、10回目の夏がやってくる。

 淡雪は砂浜に腰を下ろすと、温かい砂に体を横たわらせた。
 じんわりと、地面からの熱が伝わってくる。
 海パン1枚だから、肌への砂の感触も心地よかった。
「はぁ……気持ちいいな」
 目を閉じて気持ち良さそうに淡雪は声を出した。
 陽射しは熱いが、ちょっと前まで日陰だったのか、淡雪が寝転がった場所はまだそんなに熱くなってはいなかった。

「ふ〜ん……ここに出るわけか」
 頭の上で感心しているような声がした。

 声の感じから、中学生くらいと感じた。
 そっと、目を開けると、堤防の上にしゃがみこんだ状態で海を眺めている少年の姿があった。
 前髪が真ん中分けで、後ろ髪が外はねしている髪型。
 耳にはクリップタイプのヘッドフォン。
 背の高さまでは、ここからではわからない。
 肩から大きなスポーツバッグをぶら下げて、片手にはアイスミントチョコが握られていた。
 自販機で110円で買える、あのアイスだ。

 見ない顔だな……。

 淡雪はまずそう思った。

「よっと!」
 少年はバッグを小脇に抱えると、勢い良く跳び上がった。
 しゃがんだ状態からビヨンと跳ねる。
 淡雪の体の上を軽々飛び越えて、砂浜にスタンと着地を決めた。
 立ち幅跳びより大変なはずなのに、少年の体はまるで宙を舞っているようだった。
 バッグから手を離して、両腕を広げると、
 操選手のようにぴしっとポーズを決めて、自慢げな声で言った。

「諸 雫選手。10.00!新記録です!」

 にぃっと笑って振り返ると、淡雪に話しかけてきた。
 淡雪は慌てて体を起こす。

「ねぇ、『十二神』って家、知らない?オレ、この町来るの、初めてでさ、テケトーに歩いてたら、ここに着いちまったんだけど。携帯も圏外だし……」
 ポケットから取り出して携帯電話をブンブン振りながら、雫選手はふてくされたように呟く。

 淡雪はすっくと立ち上がって、雫選手を見下ろした。

 淡雪の背の高さに、雫選手はふてくされたように挑戦的な視線を向けてくる。

「なんだよ、背が高いからって……オレは負けないぞ」
 淡雪の顎くらいの高さの背の雫選手は、比べられたくないのか、1歩2歩と後ずさりながらそんなことを口にした。

 雫(しつこいのでそろそろやめる)は、この暑さの中にも関わらず、汗1つかいていない。
 ”あの”雨都でさえ、うっすらと汗をかくこの空間で、雫は汗を全くかいていなかった。
 少しだけ、気になったが、そういう体質なんだろうととりあえず流して、雫の反応に首を横に振った。
「いや、別に。そんなことは誰も気にしてないよ。単に、お探しの『十二神さん』なら、あそこで泳いでるよって言おうと思っただけ」

 淡雪が指差した先では、日向が雨都の手を引きながら、バタ足を教えている最中だった。
 バタ足で上がる飛沫がキラキラと輝く。

「……あの、変な頭の女が『雨都ねぇ』?」
「変……? ああ、あの子は違うよ。バタ足の練習してるほうが『十二神さん』」
「顔、見えねぇ……」
「呼ぼうか?」
「いや、ここで待ってるさ」
 雫はどさっとバッグを下ろすと、勢いよく砂浜に腰を下ろした。
 なので、淡雪も2人に声を掛けるのをやめて、座り込む。

 雫がこちらをマジマジと見つめてくる。
 淡雪はその視線に気がついて、雫に視線を返した。

「なに?」
「あんた、雨都ねぇのなに?」
「クラスメイト。友達だけど」
「そう。名前は?」
「水無瀬 淡雪」
「ふぅん……。オレは諸 雫。雨都ねぇの従弟。よろしく♪」
 ビシッと伸ばした人差し指と中指を軽く振って、挨拶してくる雫。

 口調は生意気だが、明るくハツラツとしているため、さほど嫌味には感じなかった。

「従弟か」
「そそ、従弟。今日、初めて会うんさ」
「へぇ……」
「あんた、反応淡白だねぇ」
 言葉少なに返事を返す淡雪に苦笑して、雫がそう言った。
「そう?」
「ああ。まぁ、そんなもんなのかなぁ……。なんか、変わったにおいを感じるよ、あんたから。なんだろ?人間的なものというより……同種のような……」
「え?」
「や、なんでも」
 言いかけて雫は言葉を切る。

 そして、ぽそっと呟いた。

「……やたらと、この町はにおうな。こいつのせいだけじゃない……」

 淡雪は聞こえたけど、それはスルーした。

 たぶん、訊いてもはぐらかされるのが目に見えていた。
 初対面なのに、やたらと馴れ馴れしい少年と、なぜか隣り合って座っていることがまず不思議というものだ。
 けれど、変に違和感もないのはなぜなのか。

 海を見つめると、日向が雨都に教えようと、泳ぎ始めているところだった。
 雨都が濡れた髪をいじりながら、日向の横をなぞるように歩いていく。
 日向のバタ足は飛沫がそんなに上がらなかった。

 10メートルほどバタ足で進むと、日向は立ち上がって、雨都に何か言って聞かせる。
 身振り手振りを交えて、腿の後ろ側をさすりながら、念を入れて言っていた。
 それをきちんと聞いて頷く雨都。

 日向はまた何か言うと、またパシャパシャと泳ぎ始めた。

 今度は手もつけて。

 クロール。

 小さい体からは想像も出来ないほど、力強い泳ぎ方だ。

 あっという間に、30メートルほど進んで、そこで止まると、日向は雨都に手を振った。
 『ここまでバタ足で来て』という意味らしい。
 けれど、元気に手を振っていた日向の体が突然傾いで、水の中に消えた。
 少し待っても、顔を出さない。

「おい、溺れたんじゃねぇの……」
 雫が心配そうな声を上げた時には、淡雪はもう波打ち際に向かって駆け出していた。


 準備体操?
 そんなの気にしている場合じゃない。
 日向は背が低い。
 足が攣ったりしたら、深い場所では顔を上げられない。
 あんなに念入りに準備体操していたのに、なぜ突然?
 そう思いながらも、淡雪はある程度の深さまで辿り着くとすぐに、クロールで泳ぎ始めた。

 細い体からは想像できない、力強い泳ぎだ。
 日向に泳ぎを教えたのは……淡雪だった。



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