第18章  夢の中の淡雪


 日向は必死に走っていた。
 自慢の足で、走れるだけ走る。
 膝に力が入らなくて、思ったよりも前に進んではくれない。

 誰かを追っているのか、それとも、誰かに追いかけられているのか……それがわからない。
 ただ、走らなければならないと、心のどこかが訴えかけてくる。

「ケホッ……」
 走っている最中にこみあげてきた苦しさを咳で逃がす。
「雪ちゃん……」
 泣きそうな声で、日向は淡雪の名前を口にした。

 追っているのだとしたら、淡雪だ。
 日向は自分でそう言いきれる自信があった。
 いつでも、追いつけるように頑張ってきたから……。
 どんなに走っても埋まらない距離に、いつも不安を覚えているから。

 追われているのだとしたら……わからない。
 逃げて、投げ出したいものはたくさんある。
 けれど、日向はその全てから逃げないと決めている。

 ふと、あることを思い出した。
 少し前に母から聞いた、急患患者の話。
 患者たちは、倒れる前の日に、必ず『何かに追われる夢』を見ている。

 思い出してから、日向の体の脈の速さが上がった。
 走っているせいだけではない、具合の悪い脈打ち。
 頭の芯がガンガンと音を立てる。
 走るしかない。
 夢に違いないのだから。

 広がる竹林。
 ザザザザ……と風に揺れて葉の音が聞こえた。
 日向はこんな場所を見たことはない。
 町には竹林がないのだ。

 足が何かにつっかかって、必死に走っていた日向はあっという間にひっくり返った。
 慌てて、受身を取る。
 反応の速さはさすがというところだ。
 けれど、穿いているものがキュロットパンツだったのもあって、少しだけ竹の葉でふくらはぎが切れてしまった。
「……っぁ……」
 日向は慌てて傷口を押さえる。
 にじみ出てくる血が、圧迫のおかげで一応は止まった。
「夢なのに……痛くても、目が覚めない……」
 表情を歪めて、日向は悲しげに呟いた。
 日向はゆっくりと立ち上がる。
 手を離すと、やはり血がにじみ出てきた。
 ひょこひょこ……と足を引きづりながら、それでも、走って向かおうとしていた先へ歩き始める。
 覚めない夢なら……何か、見なくてはいけないものがあるということ。
 そして、きっと、それはこの先にあるのだ。
 なんとなく、日向はそう感じていた。

「前に……進まなくちゃ。夢でもなんでも、前に……」

 その時だった。
 突風が後ろから吹き降ろしてきた。
 日向は目を瞑って、風が行過ぎるのを待つ。
 無理に歩くと、風に押されて倒れてしまいそうだった。

『ここまで来たの、初めてだ』
 不意に、そんな声が聞こえてきた。
 男の人の声だった。
 若いけれど、子供の声ではなかった。
 風が止まったのを確認してから、日向は目を開けて、声のしたほうを仰ぎ見る。
 声の主は、日向より頭一個分大きな人だった。

 淡雪と同じくらいだと、日向は思った。

 日向から2メートルくらいの距離を取って、その人は日向を見下ろしていた。
 辺りが暗いわけでもないのに、その人の顔はどんななのかがわからなかった。
 まるで、形を成していないように、ぼんやりとしたイメージ。
 でも、どこか寒気を感じる、嫌な雰囲気が漂っていた。

『お前は……キリ様と同じだ。前進しようとする意志が……とても強い。まさか、こんなところまで走ってきてしまうなんて』

 『キリ様』?
 日向は突然出てきた人の名に、首を傾げた。

『なるほど。だからか……』
 1人で感心したように、男は頷いた。
 日向はよくわからずに、男を見上げる。
 やっぱり、嫌な雰囲気。
 表情も何も見えないから、余計にそう感じる。
 少しずつ、日向は男と距離を取った。

「あなたは……誰?」
『俺は、タケルを闇に導く者』
「たける?」
『そう。タケル。ヤツを殺すためだけに、人の記憶を喰って永らえている。お前の記憶……失くしたら、ヤツは悲しむかな』
 男はくぐもった声でボソボソと言い、ククッと笑いをこぼした。
 日向はその声に鳥肌が立つのを感じて、勢いよくバックステップを踏んで、しっかりと男から離れた。

 竹の葉を風が薙いでいく。

『お前は……強く想っている……ヤツを。だから、きっと、失ったら、アイツは……』
 男が何かをブツブツと呟くと、男の影が獣の頭の形を成して浮き上がってきた。

 日向は向き直って駆け出す。
 足が痛いとか……そんなことを言っている場合じゃない。
 会ってはならない人に会ってしまったのだと思った。
 せっかく、今年は変な人にまだ遭遇していなかったのに、夢の中で、こんなのに会うなんて。
 目覚めようと思えば、目覚められるはずのもの――それが夢のはずなのに。

『無駄なんだ……これから逃げることは……』
 男が悲しそうにそう言う。

 耳元にぬるい空気が届いた。
 日向はぎょっとして、首だけ振り返る。
 影色の獣の顔が、もうそこに迫っていた。
「……ぃやぁっ!」
 日向は目を閉じて、屈みこんだ。
 なんだかわからないが、とりあえず、殺気を感じた。
 避けないと大変なことになると……思った。

 獣の声が辺りに響き渡る。
 日向は屈みこんでしまったことを後悔した。
 意地でも走るべきだった。
 そうすれば、もっと機敏に動けたのに……!

 覚悟を決めて、唇をかみ締める。

 けれど、いつまで経っても、何も起こりはしなかった。

 日向は恐る恐る目を開けて振り返った。

「え?雪ちゃん……?」
 全く予期していなかった人の背中がそこにあった。
 日向を護るように立ちはだかって、獣の顔を跳ね除けていた。
 淡雪は肩越しに笑顔を覗かせる。
『大丈夫……お前は僕が護るから。さぁ、目を覚まして』
 獣に噛まれてもへっちゃらなように、ニコニコと笑っている。
「雪ちゃん……」
 日向は淡雪を心配して駆け寄るが、淡雪は首を横に振って、空を指差した。
『ジャンプして。そうすれば、起きられるよ。本物の僕が待ってる』
「え……でも……」
『これは夢だよ。気にすることはない。早く……。僕が姿を保っていられる時間はそんなに長くない』
 淡雪を置いていくのを躊躇う日向に、淡雪は優しい声でそう言った。
「雪ちゃん……じゃないの?」
 日向はそっと呟いた。
 淡雪はコクリと頷いて、日向を素早く空に押し上げる。

 優しい声。
 優しい笑顔。
 穏やかな立ち居振る舞い。

 それは全て、日向が見てきた淡雪そのものなのに、彼は淡雪ではないと答えた。

 ふわりと浮き上がった体が、竹林を抜ける。
 淡雪も、影の獣も……うすぼんやりした男の人の姿もどんどん遠ざかっていった。

『僕は……君の中の僕。だから、淡雪であって、淡雪ではないんだよ』

 姿は遠ざかっているのに、その声はとても近くで聞こえた。
 日向はその言葉に目を細める。
 風が頬を掠めていき、竹林の規模がわかるほど上空にきたところで、誰かが日向の名前を呼んでいるのが聞こえた。



「……っん」
 日向はぼんやりとした意識の中、そっと目を開いた。
 青と赤と白のコントラストが可愛らしいパラソルの柄がまず視界に入ってきた。
 そして、すぐに喉から何かがこみ上げてくるのを感じて、
「ゲホッ……ゴホッ……」
 と激しく咳き込む。
 水を少しだけ吐き出して、なんとか落ち着いた。
「……まだ、胃に水が残ってたのね」
 安心したような雨都の声がした。
 ぼんやりとして、日向が雨都を見上げる。
 日向の脇で、心配そうに覗き込んでいる雨都。
「うっちー……?」
「もう……ひなたちゃん、はしゃぎすぎ」
「え?」
「足が攣って、溺れたの」
「……」
「思い出せる?」
「あ、うん……」
 いまいち、状況が掴めなくて、日向は少しだけ思考を巡らしながら答える。
 そのせいで、あまり元気な声が出なかった。
 いつもと違って、抑揚のない話し方の日向に、雨都は眉をへの字に歪ませた。
「どこか……具合悪い?処置は間違ってないはずなんだけど」
「え?ううん、ただ、ぼんやりするだけ」
「そう。たぶん、血が頭まで上がっていかないのね。ちょっと待って」
 雨都は自分のバッグを日向の足元に置いて、その上に日向の足を乗せた。
「もうしばらくは寝てないと駄目」
 そう言うと、足を動かしたことでずれた、日向に掛かっていたパーカーを直す雨都。

 日向は目だけで辺りを見回す。
 安曇が砂浜に寝転がっているのが見えて、その横に見慣れない少年が座っていた。
 淡雪の姿がない。
「……雪ちゃんは?」
「あ、淡雪くんは飲み物を買いに。すごい心配そうにしていたんだけど、頼んで行ってもらったの」
「え?」
「だって……邪魔なんだもの」
「 ? 」
 困ったようにそう言う雨都の言葉の意味がわからず、日向は首を傾げた。
 雨都は思い出したようにおかしそうに笑うと、
「ひなたちゃん、本当に幸せね」
 とだけ言った。
 日向は意味がわからず、もう1度首を傾げる。
「おっ?目覚ましたの?そいつ。雨都ねぇ」
「え?あ、うん、今ちょうど」
 見慣れないと思っていた少年が立ち上がって、こちらに歩いてきながら言った。
 戸惑ったような表情で雨都がそれに答える。
 安曇がムクッと起き上がって、意地悪げに笑ったかと思うと、
「ひなた、そいつ、『その他諸々の諸』だってよ」
 と日向に声を掛けてきた。
 『その他諸々の諸くん』がその声に素早く反応して振り返る。
「だ・か・ら!字はそうって言っただけだろ!……由来も……そうなんだけど……さ」
 後半は声がフェードアウトしていって、聞き取れるか聞き取れないかのギリギリのラインだった。
 雨都が悲しそうに目を細める。
 そして、物静かな声で言った。
「しずく。夕方に送っていってあげるから、そのまま帰りなさい」
「……。オレ、雨樹にぃに頼まれて来てやったんだけど」
「私はそれを望んでいないから。帰りなさい」
 日向からは雨都の表情がよく見えた。
 口調はとても冷たかったが、それを口にしている雨都は唇をかみ締めて辛そうに表情を歪めている。
「うっちー?」
 小声で雨都に声を掛ける。
 雨都は何も答えない。
「ったく、会った初っ端っから、当主面すんのかよ。オレたちの家系を『その他諸々の諸』って勝手に名付けたご先祖様がいるだけあるな。ガッッッッカリだぜ。雨樹にぃの妹っつぅから、もっとマシかと思ったのによ」
「ええ、そう思ってくれて構わないわ」
「あっそ。だったら、送ってくれなくって結構。自分で帰れる」
 憤慨したように雫は表情を歪めると、吐き捨てて大きなスポーツバッグを掴む。
「ちょっと待って!うっちーはそんな子じゃない!」

 日向は踏ん張って起き上がった。
 起き上がった瞬間、クラクラしたけど、そんなことには構っていられなかった。
 雨都のことを誤解したまま、いなくなられるのが嫌だったのだ。
 雨都が驚いたように目を見開いて、日向を見つめてくる。
 スポーツバッグを肩に掛けながら、雫も帰りかけた体を止めてこちらを見た。

「うっちー、今、辛そうな顔してるの。だから、今のナシ。間違い。この人は……すごく、優しいの。こういうこと言うなら、事情があるんだよ」
「事情?」
 雫は首を傾げて、雨都を見据えた。

 雨都は困ったように日向を見て、すぐに立ち上がった。
 スラリと回れ右をして、ため息をついた。
「こういう時、お節介な子がいると厄介ね……」
「……どういうことだよ。何の事情が……」
 怪訝そうに雫は表情を歪めている。

 雨都は、日向が起き上がったことではだけたパーカーを手に取り羽織った。
「この続きは……私の家で。他の人たちに聞かせる話ではない。ひなたちゃん、そういうことだから、淡雪くんによろしく言っておいて」
 スカートとサンダルを身に着けて、日向の足を乗せておいたバッグを、日向に確認してから抜き取った。

 日向は雨都を心配そうに見上げた。
 雨都は優しく微笑む。
「気持ちは……とても嬉しかった。悪い印象のままのほうがいいなんて、私も投げやりすぎたわ。ありがとう。そして、お大事にね」
 日向の頭を優しく撫でて、雨都は雫と連れ立って、裏道へ続く道を歩いていってしまった。

 日向はクラクラする頭で、それを見送ることしかできない。

 安曇が暑くなったのか、パラソルの下まで歩いてきて、ドスンと腰を下ろした。
 日向は雨都の背中を見つめたままで声を掛ける。
「あっくん……」
「ぁん?」
「あたし、余計なこと、言った……かな?」
 不安そうな声を感じ取ったのか、安曇が目を細めてしばし考える。
「……。ありがとうって言われたんだから気に病まなくていいんじゃねぇの。お嬢さんは建て前うまくないだろ」
「うん……なら、いいんだぁ」
 日向は安曇の言葉で、一応安心した声を返す。

 裏道から、セミの鳴き声が聞えてきた。
 一体、どのくらいの間、気を失っていたのか分からないが、太陽の位置があまり変わっていないので、そんなに時間は経っていないのだろう。

 明日から夏休みに入る。
 初泳ぎで溺れるなんて、幸先が悪いような気がして、日向は膝に顔を埋めた。

 それからしばらくして、淡雪が袋いっぱいのペットボトルを持って戻ってきた。
 日向の元気そうな顔色を見て、嬉しそうに顔をほころばせると、優しく日向の頭を撫でた。
 その様子を安曇がおかしそうに見守っていた。



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