第21章  あなたであって、あなたでない……?


 日向は八朔に頼まれた通りに、各年毎に発行された文集を10年分探して、広いデスクの上に置いた。
 窓を全開にして風を通しているからか、図書室の中はとても涼しかった。
 夏休み中の図書室は見事なほどに人がいない。
 貸出日でもないから、今日は図書当番もいなかった。

 先程買っておいたポカリのタブを引き開ける。
 ポシュッと可愛い音がした。
 日向は勢いよく、それを口に流し込む。
 運動の後のスピード補給!
 これが日向の信条だった。

 今日は午前中が部活で、終わってから少しだけ居残りで投球練習をしていた。
 夏場の投げ込みは体力の消費の激しい季節に馴染むためにも、大切なのだ。
 ただ、相方のキャッチャーが今日は用事があるからと帰ってしまったので、ネットに向かって投げ込んでいた。
 なので、あまり集中した練習にはなっていなかった。
 そんな時に、八朔に声を掛けられたのだった。

 文集(アルバム的役割が大きいが)発行の実行委員を兼任していたせいもあって、今回の作業をお願いされても断れなかった。
 八朔が指定したページを探してコピーをすればいいだけとのことだ。
 どうしても今日中にやるようなのだが、他にも雑用があってできないからお願いしたいと言われた。
 そうして、今に至る。
 練習をあのまま続けていても、ためにはならなかったから別に構わないのだけど。

 それに、これは学校側だけで保管して、あとは卒業生にしか配布されないものなので、見る機会ができたと思えば楽しいものだ。
 普段、図書室になんて足を運ばないから、読んだことがなかった。
 自分のところだけ書きっ放しで、他の人がどんなことを書いているのか知らなかったから自然と興味が湧く。

「ちょっとだけ……見てから作業しようかな……」
 日向はるんるん気分で、去年の文集を開いた。
 勿論、まず見たいのは淡雪の欄だった。
 写真も写っているはずだ。
 幼馴染なのに、極度の写真嫌いのせいで、まともに持っている写真は入学式の時の1枚だけ。

 しかも、安曇に阻まれて、念願のツーショットは叶わなかったばかりか、安曇と淡雪のツーショットに見えてしまうという、なんとも悲しい1枚である。
 けれど、さすがにこれは拒めないだろうから写っているに違いない。
 カラーコピーして保管しよう……そんなことを考えていた。

「えっと……あたしとうっちーがA組で、雪ちゃんがB組だったよね、確か……」
 楽しげに呟いて、1年B組のページを開いた。
 まず、クラスの紹介文。
 そして、その後に出席番号順で生徒の写真とコメントがズラーッと並んでいた。
 1年生なだけに見知った友人たちの顔がどこか初々しかった。
 思わず笑みがこぼれる。
 その笑みをたたえたまんまで、日向は淡雪を探す。

「えーと……水無瀬……水無瀬………………・・あれ?」
 ページをめくりながら、目を皿のようにして探していたが、目的の名前を見つけられなかったし、彼の顔も見つからなかった。
 まさか、写真嫌いだからという理由でエスケープできるもんじゃないだろうに。

 日向は慌ててページを後戻る。

 ない。なかった。淡雪の写真もコメントもなかった。

 そして、クラス紹介文の中にも、淡雪の名前は出てこない。
「う〜ん……あたし、クラス間違えたかな?」
 日向はそんなことを呟いて、他のクラスも見てみる。
 A組ではないのは確かなので、Aは省く。
 C・D・E・F……全て見たけれど、ない。

 おかしい……そんなはずはない。
 淡雪は日向と同い年だ。現に、今同じクラスにいる。
 なのに、1年のページにいない……。
 どこにも、『水』も『無』も『瀬』も『淡』も『雪』も出てこなかった。
「なに……これ?ミスプリじゃないの?!」
 日向は少し機嫌の悪い声でそう言うと、文集から手を離した。
「作業終わったら、ハッサクくんに言いに行かなきゃ。いくらなんでも、生徒1人抜かしてるなんて、問題ありすぎ。名前を間違えてるとかならまだしも……」
 ブツクサ言いながら、文集に目を落とす日向。

 ふと、その時、強い風が吹いた。
 全開にしていた窓から、閉じた状態のカーテンバンドを弾くほどの強風が入ってきた。
 束縛を失ったカーテンがふわりふわりと、膨らんだり萎んだりする。
 いきなりだったので、日向は少しだけ目を細めてその風を凌いだ。
「すっごい風……」
 風で乱れた髪の毛をほんの少しだけ撫でつけて、日向はすぐに文集に視線を戻した。

 ページがだいぶ進んでしまっている。
 今の風で、バラバラとめくられてしまったのだろう。
 何人か見知った先輩たちの顔があった。
「あ……涼子先パイだ」
 部活でよくいじめてくる先輩(もう引退したが)の顔を見つけて、日向は少しだけ笑った。
「すっごい澄ましてる〜おかしい」
 ページを後戻りながら、知ってる先輩を見つける毎に、失礼ながら少しだけ笑い声をこぼした。
 そうやって、なんとなく流れていくページ。
 ふと、日向の手がめくるのをやめた。
 明らかにいぶかしんだような表情で、そのページの、ある一点を見つめている。

 そこに、いた。

 日向が探していた人が、少しひくついた笑顔で写っていた。
 ネコッ毛も、表情もそのままに。
 日向の記憶どおりの彼が、そこで笑っている。
 見つけられたが……日向の表情は冴えなかった。
 ツツ……とページの上部分に書かれているクラスを見た。

 『2年B組』

 に・ねん・びー・ぐみ。

 何度見直しても、『2年』だ。

「ミスプリにも程がある!」
 日向はコメントも見ることなく、パタンと文集を閉じた。
 ふんと鼻息を荒くして、目を背ける。
 風に揺られて、カーテンが日向の視界にチラチラと影を作る。
 しばらくの間、そうしていた。
 だが、何かを感じたように、もう一度さっきのページを開き、目を細めて考え始める。

 なぜだろう?違和感があった。
 2年のページで笑みをたたえる淡雪。
 少しだけ記憶を手繰り寄せる。
 淡雪に用がある時、踏み入れていた教室……B組……。
 けれど、それは本当に1年のB組だったろうか?
 おかしなことを考えていることは自分でも重々わかっていた。
 だが、どうしてかその違和感を拭い去れない。
 確かに一緒に1年生を過ごした記憶がある……。
 しかし、なぜか浮かんでくるのは『2年B組』と書かれた、教室の入り口にあるプレートの文字だった。

「 ? 」
 日向は首を傾げた。
 何を疑問に思う必要があるんだろう。
 淡雪は日向の幼馴染で、ずっとずっと一緒に育ってきた人だ。
 それ以上でも以下でもない。
 子供の頃、一緒に鬼ごっこもしたし、水遊びも冒険もした。
 確かに、年上みたいに落ち着いた面を見せてはいたけれど、日向の思い出の中で淡雪は日向と同じように成長している。
 揺るぎない事実が、日向の頭の中にある……。
 なのに、その日向の記憶に、ほんの少しの気がかりもある。

 『2年B組』

 日向は一昨年の文集を手に取った。
 確認だ。ただの確認。
 これが誤植であることの確認。
 本当はする必要もない確認。
 パラパラ……とページをめくる。
 どこか表情がぎこちなかった。
 ミスプリントに対して、何をこんなに不安がらないといけないのだろうと、自分でも感じ取っていた。
 けれど、自然と……指の動きもぎこちなくなっていく。

 心の中に、言葉には出来ない答えがある気がする。
 けれど、日向はそれがわからなかった。
 わかるはずもなかった。

 淡雪が記憶操作を行って、日向の幼馴染として存在していることを、記憶を操作されている日向自身がわかる術などない。
 日向はそんなことを知りもしない。
 今まで考えもしなかったのだ。
 当たり前だ。
 自分の中にある記憶を疑う人間が、どこにいるというだろう。

 1年のページを見終わって、日向はほっと……息をもらした。
 何のため息だろうか。
 自分でもよくわからない。
 ほっとしたのも束の間、次のページを開いた瞬間、日向の表情が凍りついた。

  『2年A組 15番 水無瀬淡雪』

 少し澄ました表情で、淡雪がそこに写っていた。
 日向は悲鳴にも似た短い声を発して、立ち上がる。
「……ど、どういう……こと?」
 日向はひきつる頬を顔を冷やすようにして押さえつけた。
 一昨年は……一緒に海水浴に行った。一緒に名古屋まで遊びに行った。一緒に母の日にお祝いをした。
 …………。
 学校では?
 中学生活での思い出は?
 ブレザー姿の……淡雪が……浮かばない。

 押し寄せる不安の波。
 事態を把握できないのに、日向は3年前の文集に手を伸ばす。
 今度は真っ先に2年のページから見た。
 なんとなく、そうすべきだと感じていた。
 A……いない。B……にもいない。C…………。

 日向は眉を歪めて悲しそうに淡雪の写真を見つめた。
 寝癖のついた頭で、そこに写る幼馴染。

「なに……これ……」
 くぐもった声で、日向はうなだれた。
 存在する生徒の写真を貼る場所を間違えることは、誤植だ。それで済む。
 けれど……存在しないはずの生徒が、この文集に載ることなんてあるだろうか?
 あるはずなんてない。
 吐き気がした。
 間違えているのは自分の記憶?それとも……この、文集?
 でも……でも、どちらが間違っていたとしても……、淡雪が常に同じ学年にいることはおかしいことのはずだ。
 止せばいいのに、日向は4年前の文集、5年前の文集……と遡っていく。
 そして、10年前の文集まで見終えて、どの文集にも2年として在籍している淡雪を確認した。
 全く変わらない風貌で、構図や表情は違えど、そこには淡雪が写っていた。
 コメントは『卒業おめでとうございます』。ただ、それだけ。

 日向は10年前の文集を乱雑にデスクに落とすと、椅子に掛けてあったスポーツバッグを引っ掴み、図書室を駆け出した。
 八朔に頼まれた用件は、すっかり頭の中から消えてしまっていた。
 そんなことに構っていられなかった。
 自分の頭がおかしくなりそうで、とにかく走らなければ……と、それだけを思って、あっという間に校舎を抜け出した。

 水無瀬淡雪。
 日向の大切な幼馴染。
 日向の大好きな人。
 日向が……心の支えにしている、優しくて穏やかで、謙虚な人。
 ずっと昔から一緒だった。
 一緒に成長して、一緒に遊んだ。
 記憶の中では確かにある。
 小学校低学年・中学年・高学年……中学校……。
 ある……ある……ある……。
 でも、なぜか、学校行事での思い出がない。
 必死に思い出そうとしても、そこにはなかった。
 どうしてか、文化祭の演劇の時に、観客席から見守っている淡雪の姿が浮かぶくらいだ。

「嘘だ……変だよ、そんなの」
 日向は振り払うように首を振って、坂を駆け下りる。
 バタバタバタ……という音が辺りに響いて、部活帰りと思しき生徒たちが振り返ってまで日向を見るのがわかった。
 けれど、そんなことに構ってなんていられない。

 聞けばいいのだ。
 淡雪なら優しく笑って答えてくれるはずだ。
 馬鹿だな、そんなことあるはずない。何年一緒にいると思ってるんだ?と。
 その言葉があれば信じられる。
 日向にとって、淡雪が世界だから。
 淡雪が何よりも真実だから。

 商店街にさしかかったところで、日向を呼び止める声がした。
 日向はすぐにスピードを緩めて、そちらを見る。
 紛れもない淡雪の声。
 視界に淡雪と雨都が入ってきた。

 暑い中、ダッシュでここまで来たため、汗でダクダクになっていた。
 Tシャツの裾で少しだけ汗を拭う。
 肩で息をしながら、日向は淡雪に近づいていく。

「どうしたんだ?そんなに慌てて……」
 淡雪の優しい声。
「あ……ううん、ちょっとね♪雪ちゃんこそ、どうしたの?」
 日向はなるたけ平静を装って尋ねる。
 チラリと、雨都に視線を動かす。
 いつもなら、勢いよく雨都に抱きつくくらいの勢いなのに、その余裕はなかった。

「母さんに醤油と牛乳買ってこいって言われた。そんで、ここ来たら、書記長にばったり」
「そう。私はお夕飯の材料を買いに。しずくが来てから、食材の減りが早くって……」
 淡雪の視線を受け継いで、雨都が言葉を続ける。
 日向はその言葉に、ふぅん、そうなんだとだけ返した。

 しかし、ふと考え直して続ける。
「もっくん……じゃなかった。シズ様元気?」
 出来るだけいつものようにしないと……。

 この2人は、心配性だ。

 日向はついこの前つけたばかりの愛称で、雫のことを尋ねる。
 日向は『もっくん』がよかったのだが、踊りの下手なアイドルみたいでヤダと言われたので、本人のたっての希望もあり、『様付け』になった。
 『様付け』が良いというあたり、まだまだ子供だ。

「ええ、元気すぎて大変。読書もろくに出来ないし」
 雨都はため息混じりにそう答えると、日向の顔を覗き込むように首を傾げた。
「な、なに?」
 日向は動揺したように後ずさる。
「ううん、元気ないような気がしただけ。気のせいよね。それじゃ、私はそろそろ行くから。まだ買ってないものもあるし」
 そう言って小さく手を振ると、雨都はポンと淡雪の肩を叩いて、回れ右をした。

 スタスタと、姿勢の良い後姿が少しずつ遠のいていく。
 淡雪はそれを横目で見送ると、日向に笑いかけてきた。
「さて、一緒に帰ろうか?今日はカレーだよ。醤油と牛乳……この2つは母さんの隠し味だ」
「あ、う、うん……」
「あれ?ひな、母さんのカレー好きだったよな?」
 気のない返事をした日向が意外だったのか、淡雪が困ったように首を傾げた。
 日向は慌てて、手をブンブン振る。
「あ……そうそう♪あたし、雪乃さんのカレー大好き!マイルドで、でも、ピリッとしてて、夏にはばてなくてちょうど良いよね」
 一生懸命に声を明るくしてそう言った。

 淡雪が日向の言葉に嬉しそうに頷くと、カレーについての小話を話し始めた。
 小話と言っても、雪乃のカレーの下味にはどんな調味料が使われている……という話だ。
 料理の得意な母親の創意工夫を見抜く舌を持ち合わせる息子も、なかなかどうして……と言ったところだろうか。

 なんだかおかしい。
 こんなに、いつもの自分を保つのが疲れるなんて……。
 日向は小話に頷いてリアクションを取りながら、らしくないことを考えていた。

 『ねぇ、雪ちゃん、訊きたい事あるんだ』
 『ん?なに?』
 『あのね……雪ちゃんさ……』
 そこから先の言葉が浮かばなかった。
 小話に頷きながらも、考えていることは別のこと。
 どう尋ねればいいのかわからないということで、日向は戸惑っていた。

 聞いてみればいい?どうやって?

 『雪ちゃん、年取ってないよね?』とでも、尋ねろと?
 もし……もし仮に、『ああ、そうだね』と返されたら?
 自分がどうリアクションを取ればいいのかがわからなかった。
 リアクションをどう取るか? なんて、考えなくてもいいことのはずなのに。
 だって、そんなこと……あるはずない。

「ひな?」
 淡雪の不思議そうな声で、日向は我に返った。
 いつの間にか立ち止まってしまっていた。
 斜め前で、淡雪が待っている。
 日向は慌てて駆け寄った。
「やっぱり、なにかあったんじゃないのか?さっきから様子が……」
 日向の目線に合わせるように膝を曲げると、淡雪は心配そうに言った。
 日向はすぐに首を横に振る。
「な、なにもないない!ちょ、ちょっと……練習で疲れちゃったみたい。はは……情けない。チームを背負うピッチャーなのに」
「まぁ……今年は暑いから疲れるのも仕方ないよ。それに、練習の後も投げ込んできたんだろう?お昼、食べた?」
「あ、うん……お昼は……あれ……食べてない」
「それだ!だから、元気ないんだな。それじゃ、クレープでも買ってこうか?ひななら空腹に甘いもの食べても平気だろ?」
「あ……うん、そだね」
 日向は軽く頷いただけ。
 淡雪がその様子を見て苦笑していた。

 目の前にいるこの人が、日向の真実。
 だけど、答えを聞く勇気が出ない。
 全然、符号がかみ合わない。
 何がなんだかわからない。
 ただ……文集の中の淡雪は10年間何も変わっていなかった。それだけ。
 それが何を表すのか……日向にはわからない。
 わかりたくもない。
 記憶のほうが嘘だなんて、思いたくもない。
 瞳だけ、淡雪に問いかける。
 淡雪は気がつかない。
 それは仕方ない。
 日向も悟られないように必死なのだから。



第20章 ← → 第22章
トップページへ戻る


inserted by FC2 system