第22章  雨・雷・血しぶき・蝉時雨


 蝉の鳴き声が山のほうから聞こえてくる。
 その声がうざったいのか、目の前で安曇がため息をつき、顔をしかめた。
 淡雪は苦笑する。

 今日は夏休みの宿題をさっさと終わらせてしまおうという算段から、安曇が淡雪の家に押しかけてきていた。
 ちょうど、母親も町内会の寄り合いで出掛けているので、茶の間で顔をつき合わせて勉強をしているところなのだった。

「ああ、うるせえ」
 安曇は1人ごちるように吐き捨てた。
「……夏っぽくて風流じゃないか」
「お前はこういう時、じじむさいんだよ」
 苦笑気味の淡雪に、暑さとやかましさでいらつく安曇がそれだけ呟いて黙った。
 カリカリと、シャーペンがノートを走る音が耳をつく。
 仕方ないので、淡雪もテキストに目を落とした。
 安曇がため息をついたから顔を上げたのだが、どうやら迷惑だったようだ。
 比較的暇人な淡雪は、宿題がほとんど終わっていた。
 だから、この機会に集中して……という気もない。

 蝉が鳴いている。
 輪唱でもするように色々な声で鳴いている。
 聞き分けにでも挑戦しようかと思い始めたその時……
「そういえば、最近、ひなたどうよ?」
 安曇が顔を上げてそう言った。
 淡雪は一瞬きょとんとして質問の主旨を少し考える。
 まぁいいかと、思いついたままに答えを返した。
 午後から勉強教えてもらいにこちらに来るという話を昨日の別れ際に話したから、そろそろ来てもいい頃合だなと思い出しながら。
「昨日、夕食残したよ」
「なに?!雨が降るんじゃないのか?」
 安曇は先ほどまで機嫌が悪そうだったのに、淡雪の言葉に反応よく叫んだ。
 なんという言い様だ……と淡雪は思ったが、とりあえず冷静に返す。
「雨は降ったほうがいいさ。水不足を免れられる」
「そういう問題かよ……」
 のほほんと言った淡雪の言葉に対して、安曇が呆れたようにため息をついた。
 淡雪は安曇のため息の意味がいまいちわからなくて首を傾げてみせた。

 それを見て、安曇がまたため息をつく。
「お前って、ひなたを誰よりも大事にしてるくせに、誰よりもぞんざいな時あるよな……?」
「え?」
「アイツが飯残すなんて、天変地異ものだぜ?」
「……。だって、それは……」
 夕飯の前に大クレープを淡雪のおごりで食べたから……と言おうとしたけど、安曇が不服そうに髪を撫で付けているので、言葉を切った。
 何かがお気に召さないらしい……。
 蝉が遠くで鳴いている。
 まるで、安曇の視線のように、淡雪を責めている気がした。

 ちょうどその時、電話が鳴った。
 淡雪はそれにすぐ反応して立ち上がって、受話器を取る。
「はい、水無瀬です」
「あ、雪くん?」
 日向の声を少し落ち着かせた感じの声が電話口から流れてきた。
 家族が出掛けているのはわかっていたけど、一応確認しながら、淡雪は穏やかな声を返す。
「日和さん?今日、母さん、出てますけど……」
「ううん、違くて。あのね、ひぃちゃん、昨夜から熱出しちゃって、部屋で寝てるのよ」
「え?」
「今日、勉強会の約束してたんでしょ?だから、一応電話しておいたほうがいいかと思って」
「だ、大丈夫なんですか?」
「ええ、大丈夫。軽い夏カゼだから。ほら、あの子、熱上がりやすい体質だから、心配はいらないわよ」
 部活が終わってから合流する……という話だったから気にも留めなかったが、来るのが遅くなっていたのは、体調のせいだったらしい。
 淡雪の動揺した声に、日和が苦笑交じりで答える。
 母親というのは、こういう時、さばさばしているというか……。
 淡雪の母もそうなのだが。

「電話の用件はそれだけなんだけど」
「今日、日和さん、家にいるんですか?」
「ん?ええ、いるわよ。だから、大丈夫!お見舞いとか……いらないからね?」
 淡雪の言葉を先回りして言う日和。
 確かに日向は昔から熱の上がりやすい体質だが、周りの人間がその体質に対して慣れるかと言えばそうでもない。

 やっぱり、心配は心配だ。

「あの、僕……あとで……」
「雪くん?ひぃちゃんね、今日、誰にも会いたくないんだって」
「……え……?」
「なんだか……落ち込んでるみたいで。雪くんに、そういうところ、見られたくないみたいだから。わかってあげてくれない?」
「………………」
「あの子も……いつまでも子供じゃないから」
「……わかりました」
「うん。物分りがいいから、おばさん、雪くんのこと好きよ」
 納得できていない声なのをわかっていながら、日和は電話の向こうでそう言って笑った。
 それが、淡雪にはよくわかった。
 だから、それじゃ、お大事にって伝えてください……とだけ言うと、電話をかちりと置いた。
 置いて、すぐにため息。

「やっぱり、昨日何かあったのか?」
 昨日の、普段よりもわざとらしいほどの表情やリアクションを思い出す。
 聞いているようで聞いてない、そんな目を日向がしていたことに、淡雪は気がついていた。
 けれど、本当に困った時は淡雪に頼ってくるから……そう思って、淡雪は何も言わずにクレープをおごってやった。
 頼ってこないなら、日向が自分で解決することができるってこと。
 それとも……淡雪には相談できないこと?

 今更、気になりだしてきた。
 もっと、早くに気にかけてやるべきことだったのだ。
 気が晴れない状態の淡雪に、安曇が扇風機に顔を近づけながら声をかけてきた。
 小学生が宇宙人ごっこと称してやる、あの状態で声が跳ねる。
「日和さん、なんだって?」
「え?あ、ひながカゼひいて、今日は来ないってさ」
「は?あの、チビクロサンボがカゼ?!おいおい……雷が落ちるぞ」
 宇宙人声で安曇がまたアホな叫びを上げる。
「あっくん、せめて、扇風機から離れて叫んでくれ。心配してるんだか、ふざけてるんだか、判断が難しい」
「お?珍しいな、あっくん呼び」
「はいはい……」
 嬉しそうな安曇の表情に淡雪は頭を抱える。

 音もなく歩み寄って、ぐいっと安曇の首を無理やり回す。
「痛っ!こらこら、ゆっきー、首が……」
「お前がそこにいると、風が来ないだろう?」
 淡雪は不機嫌な声でそう言うと、扇風機を首振りモードに切り換えて、座っていた場所に戻った。
 扇風機の風が右から左へと流れていき、髪の毛がサラッとなびく。
 安曇は扇風機の脇で風を受けながら、そんな淡雪のことを見つめていた。
「悪かったよ。ふざけてる訳じゃねぇよ。単にタイミングが悪かっただけだろ」
「ん……別に怒ってないけど」
「怒ってるじゃねぇか……」
 ボソリとごちる安曇。

 淡雪はシャーペンを持ってクルリと回す。
 指の上で円を描いて、元の位置に戻ってくる。それを何度か繰り返す。
 目を細めて、はぁーぁ……とまた深いため息。
「…………。どうしたんだよ?」
「自己嫌悪中だよ」
「は?」
「自分に腹が立ってるところ」
 淡雪の呟きに、安曇は少し考えるように腕を組んだ。そして、当然のように言う。
「お前が具合悪いのに気がつかなかったなら、それは相当ひなたが我慢してたか、帰ってから熱が上がったかのどっちかだよ。……お前が気がつかなかったなら、誰も気がついてなんてやれねぇ。気にすることじゃない」
 安曇は『涼風』に切り換えると、膝をすりながら元の位置まで戻ってきた。

 置いてあったコップに手を伸ばして、勢いよくオレンジジュースを飲みきると、淡雪の表情を探るような目を向けてくる。
 淡雪は目が合った瞬間、すぐに吐き出した。
「……誰にも会いたくないんだって」
「お?」
「見舞いに来るなってさ」
「へえ……チビクロがそんなこと。血しぶきが降りそうだな……」
「お前……」
「アイツがお前に会いたくないなんて、レアのレアの超レアごとだ。……と、あんまりふざけたこと抜かしてると、俺の血の雨が降りそうだからこれ以上は言わないけどな」
 クックッと笑いながら髪の毛をいじる。

 淡雪はそれを見て、寂しそうに目を細める。
 そうだ……いつでも、嬉しそうに近寄ってくる子だから、『誰にも会いたくない』という言葉が余計に悲しかったんだ。
 それに、落ち込んでいるようだと、日和が言っていたから余計に気になってしまう。

「お兄ちゃんは……本当に面倒見がいいな」
「え?」
「アイツが解決できることなら放任する。解決できないなら、自分に相談してくれるだろう」
 見透かすような安曇の言葉に淡雪は目を見開いた。
 安曇はニィッと笑う。

「お前の主義、とやかく言う気はない。確かにその通りだし。けど……アイツだって色々ある。俺たちより数段社交的なわけだし……な。大好きな雪ちゃんに会いたくない時もあれば、大好きな出汁巻き卵を食べたくない時もある。少しは割り切れるか?ゆっきー」
「僕が甘すぎる?」
「なんだよ?自覚なかったのか?」
「……いや、あったけど……」
「雪、俺様の愛をよぉく感じなさい」
「は?」
「俺は、お前たち以上にお前たちのこと、わかってる」
 ふっと髪をかきあげると、らしくないさわやかな笑顔を淡雪に向けてきた。

 淡雪は夏にも関わらず、腕に鳥肌が立つのを感じて、慌てて肌をさする。
 けれど、安曇は動じる様子もない。
「あつも……」
「ん?」
「いつも思ってて、言わなかったことがある」
「なんだ?愛の告白か?」
「……お前が好きなのは……」

 茶化してなんとか場の雰囲気(淡雪の心)を暖めている安曇に対して淡雪が言葉を言い掛けた時、

 ピンポーーーン!

 と、呼び鈴がなった。

 言い掛けた言葉を飲み込んで、淡雪が立ち上がる。
「新聞勧誘はいりません〜ってな。お前、勧誘断るの下手だから」
「この時間に勧誘はないだろ……」
 淡雪は苦笑交じりにガシガシと頭を掻いて、駆け足気味で玄関に出た。
 特に確認もしないで、ドアを開ける。
 この辺は田舎なので、防犯という面でだいぶ無用心だ。
 大体、何事もないからそれが普通なのだが。

 ドアを開け切ると、そこには日向が立っていた。
 髪の毛は簡単に後ろで結わえただけ。
 熱が下がったわけではないようで、少しだけ潤んだ目をしている。
「ひな、熱出て寝てるって……」
「ちょっと……話が……あって……」
 おぼつかない声とフラフラしている体。
 淡雪は慌てて中に入れると、玄関先に腰掛けさせた。
「誰にも会いたくないって言ってるって言われたから、見舞いに行かなかったんだけど」
「うん……お母さんに、そうお願いしたから」
「立てる?中に……」
「ここでいい」
 弱りきって、淡雪にもたれかかるようにして座っているくせに、その言葉だけは何か力強さを感じさせるほど語気が強かった。

 淡雪も立ち上がりかけた体を元に戻す。
 海から強い風が吹いてきて、閉まらないようにしておいたドアがバタン……と閉まった。

「雪、ひなたが来たのか?」
 安曇が茶の間からひょいと顔を出した。
 日向が気だるそうに振り返る。
「あっくん、来てたんだ」
「なんだよ、寝てたほうがいんじゃねぇか?」
 見るからに具合の悪そうな日向に、安曇が声を掛ける。
 日向はそれには返答を返さずに、淡雪の肩に体を預けてきた。
 もしかしたら、あまり周りの音が聞こえていないのかもしれない。
 甘えることはあっても、こんなにあからさまに淡雪に触れてくることは今までなかった。
 通常より熱い日向の体が、体温の低い淡雪には余計に熱く感じた。

 夏の気温なんて、目じゃない。
 呼吸も少し速い。

 淡雪はそっと日向の頭を撫でてやる。
 日向がくすぐったそうに笑った。
 蝉の鳴き声が、山のほうから聞える。
 鳴き声は激しさを増して、蝉時雨という言葉がピッタリなほど、この家を包んでいた。

 その音さえ、日向は聞えないようにして、目を閉じている。

 話があると言いながら、まだ何か迷っているのか、日向は目を閉じたままだ。
 安曇がギシギシと床をきしませて歩いてくると、日向の顔を覗き込んで、それから淡雪のことを見つめてきた。

 一体、何の用なんだ?と言わんばかりの視線。
 淡雪も視線で答える。


 さあ……?



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