第23章  あなたの笑顔が見たいのに……


 安曇が淡雪の頼みを聞いてブランケットを持ってきてくれた。
 今、それを日向が羽織ったところだ。
 朦朧とする意識の中、こういう時だけ安曇は自分のことをからかわないなと思っていた。
 いつもなら、ひねくれた笑みで日向のことを見下してくるのに。
「話っていうのに、俺はいていいのか?いないほうがいいのか?」
 目を開けると、淡雪とは反対方向に安曇の顔があった。
 しゃがみこんで、日向とほとんど変わらない目線の高さだった。

 日向はぎゅっと淡雪の袖を握る。
 無意識だった。
 昔から、心許ないと自分が意識する前に、淡雪の袖を握る……それはもう癖でしかなかった。
 その様子を見て、安曇は髪をぐしゃっと握る。
「いじめっこのあっくんは退散しとくわ」
「あ……違う……わかんない……」
 首を弱々しく振る日向に、安曇も淡雪も首を傾げた。

「わかんないって、ひな……?」
「大事な話だから、そんな状態でここまで来たんだろう?」
 2人とも呆れたように日向の顔を覗き込んでいた。

 日向は淡雪の肩に頭を戻すと、ギュッと淡雪の袖を掴みなおす。
 淡雪が心配そうな目をしている。
 今まで見たことがないほど、不安そうな表情だった。
 日向もそれを見て心配になる。すぐに口をついて出た。
「大丈夫だよ。あたし、だいじょぶ」
 なんの大丈夫なんだかわからないけれど、必死に日向は大丈夫を繰り返した。

 不安そうな淡雪の表情をどこかで見た気がして、そう言わずにはいられなかったのだ。
 ……そう。彼のそんな表情、今まで見たことがないはずなのに、覚えがあった。
 日向は今のように、大丈夫を繰り返したことが……あった気がする。
 でも、覚えがあるだけでそれがいつだったのかはわからない。

「雪ちゃん」
「ん?」
「聞きたいことが……あるんだ……」
「……何?」
 優しい声が耳に心地よい。

 耳に膜を張ったように、少し遠い世界の音。
 それでも、淡雪の声だけは、きちんと聞えていた。
 安曇が淡雪に視線を送っている。ここにいていいのかどうかの確認だろう。
 けれど、そんなの、淡雪にわかるわけもない。
 結局、安曇はそこにしゃがんだまま待機していた。

「あたし……昨日、ハッサクくんに頼まれて、卒業文集を見てきたの」
 その言葉を聞いて、淡雪が明らかに動揺したように目を見開いたのが見える。

 日向は淡雪の袖じゃなく手を、その小さな手で握り締めた。

 そうしないと、彼が遠くに行きそうで、不安でどうしようもなかったから。

 彼の手は、いつも通り冷たくて、熱の上がっている日向には心地よかった。

「それで……ね」
「ひ、ひな、のど渇いてない?水持ってくるよ」
 淡雪が無理やり話を切って立ち上がろうとするけれど、日向は淡雪の手を離さない。
 だから、淡雪は立ち上がれなかった。
 ここで、無理に立ち上がったら、日向がバランスを崩すのがわかっていたからだろう。

「水なら、俺が持ってくる」
 安曇がすぐに立ち上がる。
 ギシギシと床が軋んで、すぐに静かになった。

「……雪ちゃん、去年も一昨年も、その前も……2年の学年に写ってた」
「 ?! 」
 泣きそうな淡雪の顔が近くにあった。

 触れてはいけない……ことだった。
 知らずにいれば、知らないフリをすれば、そのまま通り過ぎたことなのに。
 けれど、それは違う気がした。日向は違う気がしたのだ。
 きっと、きちんと彼なら話してくれるから。
 そうやって解決して、また笑えるはずだから。
 だから、そんなに悲しそうな顔をしないでほしい。
 日向は淡雪に笑っていてほしい……。
 全部、きちんとしてから、それでも、一緒にいられるならいいと思っていた。
 それが熱のある頭で出した結論だった。

「思い返してみるとね?あたし、雪ちゃんと学校での思い出が去年以外ないの。おかしいんだ。ずっと一緒に育ってきたのに。小学校の頃の運動会も、中学校の遠足も……雪ちゃんはそばにいなかった。それを、今の今まで疑問にも思わなかった」
 そこで1度言葉を切り、日向は淡雪の手を握り直した。
「変だよね……けど、雪ちゃんがいつもあたしを包んでくれていた記憶は確かにある。いつも優しく笑って、あたしをなだめたり叱ったり。その雪ちゃんの姿はきちんと成長してる。でも、昨日見た文集には、ずっとおんなじ雪ちゃんが写ってたの。どういう……ことなのかな?」
「…………」
 淡雪は何も言わなかった。

 蝉の鳴き声が、ボワ〜ンボワ〜ン……と日向の耳にはおかしな音に聞える。
 沈黙よりもしんどい。
 今、この音は必要なかった。
 もしかしたら、淡雪は何か言葉を発しているのに、自分の耳が捉え切れてないんじゃないかと不安になる。

「……それで、昨日から様子がおかしかったんだ……?」
 淡雪の囁き。
 その声があまりに苦しそうで、日向はいたたまれなくなった。
 慌てて口を開く。
「雪ちゃんの言葉を信じるから。だから、ちゃんとしたこと、教えてくれないかな?」

 呼吸が速い。
 きちんと話しているつもりだけど、話せているのかわからなかった。

 淡雪は躊躇うようにじっと床を見つめている。
「今度じゃ、ダメ……だよな……」
 日向の真剣な心を感じ取っているから、誤魔化すことをしてはいけないと思っているんだろう。

 愛しい人の横顔が、苦しそうに笑った。

「僕は……年を取らない……」
 目を細めて、搾り出すように……彼の声は、深く、重く……日向の心を捉える。

 昨日、文集を見て感じ取ったことだったせいか、そんなに驚きはなかった。

「うん」
 気がつくと、日向は頷いていた。次を促す動作だ。

 日向が気になったのは、今の今までそれに周囲が気がつかなかった原因だ。
 それがわからなくて、日向は具合が悪くなって、吐き気がして、どうしようもなくなった。
 淡雪が人間でなくても別に良かった。
 幽霊だろうとなんだろうと……おかしいかもしれないが、日向にとって、そんなことは問題じゃないのだ。

「僕には、人の脳に働きかける『力』がある……」
「……うん」
「その一端が、人の記憶を操作する能力だ」
 日向はいきなり『力』の話が出てきて戸惑った。
 超能力を取り上げた番組を見ることはあるけど、まさかそれが身近に来るだなんて思いもよらなかった。

「年を取れない僕の体には……その『力』がちょうどよかった。おかげで、おかしな目で見られずに済んだから」
「その『力』で、あたしたちの中に、溶け込んだ?」
「……うん……そう……」
 淡雪の言葉は、歯切れが悪い。

 人の記憶をいじっていることに罪悪感がないはずがない。
 こんなに優しい人なら、それは当然のことだった。
 あんまりにスケールが大きくて、日向は自分の頭がついていってないことがわかった。
 けれど、同時にそれを受け入れようとしている。
 淡雪の言葉なら信じる。その言葉に偽りはなかった……。

「お前は覚えていないかもしれないけど、僕とひなが出会ったのは、10年前のこんな風に暑い日だった。僕が海岸で倒れているのを見つけて、お前が必死に呼びかけてくれたんだよ。……お前はお父さんを交通事故で亡くしたばかりで、泣きながら僕を揺さぶっていた」
 懐かしそうに目を細めて、淡雪は話し始めた。

 日向も……なんとなく思い出す。
『どうして、泣いてるの?』
 海岸に倒れていた青年は、優しい声でそう言うと、ふらふらと起き上がって、幼い日向の涙を拭ってくれた。
 その大きな手の、冷えた感触は、今日向が必死に握り締めている淡雪の手と同じだ。
 おぼろげな父の記憶。
 その父と淡雪を、幼い頃の日向は重ねたのかもしれない。

「可愛くってね……。あんまりちいちゃくて壊れそうだったから、しばらく傍にいてあげたいって思ったんだ」
「それで……」
「え?あ、違うよ。その時は僕は何もしてない。適当に野宿して、昼はお前と遊んでた。それだけ」
「え?じゃ、どうして……?」
 どうして、記憶操作してまで、ここに留まるようになったの?
 そう、日向は尋ねた。

 淡雪は目を細めて、しばらく考えていたけれど、覚悟を決めたように日向を見つめてきた。
「……護ってあげたいって……思ったから」
「え?」
「大切で大切で、仕方なくなったんだ」
 淡雪が頬を赤らめながら、必死に言い切った言葉は日向が飛び上がりたいほど、嬉しいものだった。

 知っていた。淡雪の優しさで、そんなことはわかっていた。

 でも、のぼせ上がれるほど、自分は愚かでもなくて……いつでも、彼の想いに不安を感じていた。

「この『力』を使ってでも、傍にいようって思ったんだ」
 そっと、優しく日向の髪を撫でて、淡雪はため息をついた。
「こんなこと、本当はよくないんだけど」
 淡雪は苦しそうに唇を噛んだ。

 そうだ。許されることではない。
 1つ間違えたら、その人の一生を左右しかねない行為なのだから。

 その様子を見つめた状態で、日向は、淡雪の言葉を聞いて、ふと浮かんだ疑問を口にした。
「雪ちゃん、その記憶操作は、人の感情も操れるのかな?」
「え?!」
 明らかに淡雪はその言葉に動揺していた。
 そんなことを聞かれるとは思ってもみなかったのだろう。
 何かを考え込むように淡雪は黙り込んだ。

「雪ちゃんが、言ってくれたから、あたしも言うけど……。あたし、雪ちゃんが好き」

「…………」

「でも、この気持ちは……作られたものなのかな?」

 揺れる想い。
 戸惑う、彼の表情。
 そんなことないよと、淡雪が言ってくれたなら……日向は何も悩まなくて済む。

 けれど、淡雪は……
「その可能性も、否定できない」
 と、穏やかな声で言い切った。

 ギシギシと床の軋む音がしたかと思ったら、バシャッと水のかかる音が聞えて、日向の頬にも少しだけ跳ねてきた。

 何が起こったのかわからなくて、日向は顔を上げた。
 淡雪の肩から顔を上げるだけでクラクラする。
 淡雪の髪が濡れていた。
 後ろにはコップをひっくり返した状態で持った安曇がいる。
 冷ややかな目をして、淡雪を見下ろしている。
 淡雪は大して動じない。

「立て!」
「お前、いくら夏でも、やっていいことと悪いことが……」
「いいから、立て」
 普段、日向をからかう声とは全然違っていた。
 ここまでドスの効いた声は初めて聞くかもしれない。
 そのくらい、腹の底から怒りを表した低い声だった。

 淡雪は日向を壁にもたれかけさせると、すっくと立ち上がる。
 背の高い2人がにらみ合うように並ぶのを、首が痛くなるくらいの角度で日向は見上げる。

「俺の愛をよぉく感じなさいって言ったよな?」
「ああ、いつもの悪い冗談だな」
「……っく。このヤロ……お前、いっつも、そういう風に見てたのか?!」
「お前が……身内を大事にするヤツなのはよぉくわかってる」
「だったら……なんで、否定しねぇんだよ!」
 安曇が淡雪のシャツの襟首を締める。

 苦しそうに淡雪がにわかに咳き込んだ。
 日向は止めるために立ち上がろうとして、膝に力が入らないのに驚いた。
 自分の体が熱に蝕まれているのもあったけど……たぶん、力が入らないのは、淡雪が日向の想いを、半ば否定したから……。

「俺は……自分の気持ちに忠実に、お前を親友だと認めたんだ。否定しろよ。そんな力、関係無しに、俺もひなたも、お前のこと好きになったんだって!そう、思わせればいいじゃねぇか!?なんで、1回ついた嘘を覆すようなことするんだよ!!」
「あっくん……」
 見上げる形だったけど、安曇が怒りで眉を歪ませているのはよくわかった。

 それは、裏切られたとかそういう気持ちじゃなくて、ただ、悔しかったんだと思う。
 淡雪がはっきりと言い切らずに中途半端な言葉を口にしたこと。
 それが悔しくて、悲しかった。
 日向も、そうだから。
 そう……つき始めた嘘なら通せばいい。
 通し続ければ、それは真実になる。
 それができないなら、はじめから嘘などつかなければいい。
 ……でも、淡雪がつき通そうとした嘘を暴いたのは、他ならぬ自分だ。
 知らないフリをすればよかった。
 あんな文集、見なければよかった。
 何にも……知らずに笑っていればよかったのだ。

 頬を、涙が伝ってきた。
「っ……!」
 嗚咽が漏れる。

 熱で弱りすぎて……今、泣くのは辛すぎる。けれど、涙が止まらなかった。

「馬鹿にしやがって……。そんな力で、俺たちの信頼得たのかもしれないって、少しでも考えてたお前がすげぇむかつく!俺は……ひなたは……そんな浅い愛情で、お前のこと、見てねぇよ!!」
 涙を拭って、必死に涙を止めようとしていた日向の耳に、ドガッと鈍い音が届いた。

 驚いて、日向は顔を上げた。
 淡雪が玄関のドアまで吹っ飛んでぶつかった。
 すぐに体勢を立て直すと、淡雪はゆっくりと顔を上げた。
 全然、痛そうな素振りを見せない。

「……帰ってくれ……」

「雪!」
 静かな淡雪の声に、安曇は怒声を上げる。

 淡雪は額に指を当てて俯くと、
「お前も、ひなも……帰ってくれ……!」
 涙声でそう叫んだ。

 日向はその声に胸が詰まる想いがあった。

 自力では立ち上がれない日向は、淡雪を呆然と見上げることしかできない。
 こんな展開になるなんて思ってもみなかった。
 全部、ありえないこと。
 ありえないことだらけで、淡雪の想いを垣間見ることができたのに、結局悲しい。

「ひなた……立てないのか?今日は、ひとまず帰るぞ……」
 すぐに茶の間からカバンを持ってくると、安曇は日向を抱え上げた。
「え、ちょ……立たせてくれれば歩けるから……」
「面倒くさいから黙れ」
 不機嫌な安曇の声。安曇の表情。

 日向はドアを開けて待っている淡雪を見つめた。
「雪ちゃん、ごめんね?」
「…………。まず、体直せよ?」
 沈んだ淡雪の声は、聞き取るのが精一杯なくらい小さかった。
 それでも、その言葉に優しさがあるのを、日向はちゃんとわかっていた。

「うん……すぐ直るよ。だから、雪ちゃんも……」
 『次に会う時は笑って?』と言おうとした瞬間、ドアが閉まってしまった。

 陽射しは照りつけるように熱いはずなのに、日向の感じる空気は薄ら寒かった。
 安曇は道を挟んだ日向の家まで、日向を送り届けると、特に何も言わずに帰っていった。

 その後、日向は母親にこっぴどく叱られた。
 部屋を覗いたら高熱出している娘がいないのだ。
 それはあたふたとしたらしい……。



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