第26章  出会いと別れのシンメトリー(前編)


『崩れてゆく……』

 淡雪は心の中で呟いていた。
 耳に微かに届く波の音。
 風でサラリと、砂が舞い上がる。
 時折見る夢で、風化してゆく自分の体……。
 今まさにそれが現実になろうとしている。そんなことさえ考えるほど、淡雪は体に力が入らなかった。
 脳にジンジンとした熱を感じる。
 夏のせいではない……あつさ……。
 風が吹く度、自分の体も飛んでいくような気がした。

『崩れて……ゆく。視界も、世界も、何もかも』

 淡雪は口元を吊り上げた。

『やっと……死ねる……』

 砂浜に顔を埋め、まるで、朝起きるのをごねる子供のようにゆっくりと目を閉じた。

 波の音と風の音……そして、どこかで子供の声がした。
『どこか……じゃない……』
 淡雪の頭上で、泣く声がした。

 次の瞬間、ユサユサと揺さぶられた。
 たぶん、その揺する手の感じからして、だいぶ小さな子供だ。
 淡雪は目を開けずにうざったそうに眉だけひそめた。
 やっと死ねると思ったのに、場所が悪かったようだ。
 ほとほと……この世界は、淡雪を生かしたいらしい。
 生きていたって、淡雪の目には何もいいものは映らないのに。
 いや、この程度のことで意識が繋ぎとめられるのなら、はじめからこの喪失感が死に直結していたわけではないのかもしれない。

「ねぇ、だいじょぶ? お兄ちゃん、どこかいたいのぉ?」
 しゃくりあげながら、子供の声は必死に淡雪を揺さぶる。
 何度も何度も、必死に。
 淡雪の服をぎゅっと握って泣く。揺さぶりながら、泣く。
「しんでるの?ねぇ、だいじょぶ?しんじゃダメだよぉ……」
 淡雪はそこでぼんやりとする思考をなんとか繋ぎとめると、目を開けて、声の主を見上げた。

 日に透ける栗色の髪はサラリと長くて、あどけない顔は涙でクシャクシャ。
 服は白いYシャツに黒のスカート。
 いわゆる子供用の喪服……というものだろうか。
 どこかのお嬢様でもない限り、黒のスカートをこんな小さな子供に好んで着せる親はいないと思う。
 女の子は淡雪が目を開けたことに気がつくと、大きな目をパチクリさせて、揺さぶるのをやめた。

 涙だけ、ポロポロ、ポロポロ……零れている。

 淡雪は霧のことを思い出していた。
 明るく快活な子だったが、あれでも出会った頃は泣くことの多い子だった。
 ”おつるい”家の分家であった霧の家は、末っ子の霧をよく預けては引取りに来なかった。
 分家の中で選りすぐりの優秀さを発揮した子だったために、当主が強引に連れてくるように言っていた……というのが事情だったらしいのだが、子供の頃ではそんなことがわかるはずもない。
 自然と当主のことを慕うようになったが、当主はそんな霧にも無関心で、”おつるい”の家に引き取られたばかりの淡雪に懐いてからは、いつも淡雪が頭を撫でてあやしてあげていた。

 淡雪は目を細めて笑うと、震える腕に思い切り力を入れて、ゆっくりと体を起こした。
「……っ。どうしたの?どうして、泣いてるの?」
 消えかけていた意識がぼんやりながら戻ってくる。

 崩れかけた視界が明るく、そしてくっきりと広がった。
 女の子の頬に触れ、指で柔らかく涙を拭ってあげる。
「僕が、こんなところで倒れていたから、ビックリしちゃったのかな?」
 優しい声でそう尋ねると、女の子はブンブンと首を大きく横に振った。

「そっか……僕のせいではないんだね?じゃ、どうしたの?あ……その前に、僕はタケルって言うんだけど、君は?何て言うの?」
「ひ……ひなた。ひなたぼっこの、ひなた」
「ひなたちゃんか。陽だまりの日向だね?」
 淡雪は日向の頭を撫でながら、穏やかに笑みを浮かべた。

 淡雪の言葉に日向が嬉しそうに笑う。
「そう。お父さんがつけてくれたの!いつでも、あったかいお日さまのような子でいてねって……」
 そこまで言うと、せっかく笑ったカラスがまたもや泣き出してしまった。
 淡雪は慌ててキョロキョロと辺りを見回す。
 ……が、話のネタにできそうなものがなかった。
 そりゃそうだ。自分が死にそうになっていたところだ。
 殺風景でなんにもあるわけなんてない。

「お、お父さんは優しい人?」
「……きのうのきのうのきのうにしんじゃったの……」
 日向が泣きじゃくりながら、小声でそう言った。

 薮蛇だったと、淡雪は更に慌てる。
 何か話を振ってあげないといけないとは思うのだけど、どうすればいいのかが浮かばない。
 霧をあやしてあげていた頃はどうしていたかを必死に記憶から引っ張り出す。

 なにせ、もう仙人並みに生きている。
 いくら記憶力を特化させられた、元モルモットでも、あやふやになっている部分のほうが多かった。
 けれど、淡雪が取り乱している間に日向が言った。

「お母さんが、泣いてるの。すっごくお父さんと仲よかったから……。ひな……なんにもできなくって……せめてね、せめて……笑っていようっておもったんだけど、ひなもお父さん好きだったから、ガマンできなくって……。うわぁぁぁぁん……あのまま、お母さんもしんじゃったらやだよぉ」
 最後のほうはもう叫びに近かった。

 力強い泣き声。子供特有の、恥じらいも何もない、無垢な泣き顔だった。

 淡雪はそっと日向の小さな体を引き寄せる。
 会ったばかりの子供に、何をしているんだろうと……冷静に考える自分がいたけれど、それどころではなかった。

 気がついたら、抱き締めていた。

 こんなに小さな体で、一生懸命に現実を受け入れて、生きようとしている子を、今だけでも包んであげられたらと思うことは、その時の淡雪にはごく自然のことのように感じられたのだ。

 そういえば、霧の時も、こうして抱き締めてあげたかもしれない……。

 遠い記憶に想いを馳せながら、淡雪は囁きかけた。
「大丈夫だよぉ。お母さんはひなたちゃんを1人にしない。こんなにお母さん想いなんだもの。だから、そんなに不安にならないで。1人で抱え込んだらいけないよ」

 抱き締めた手でポンポンと日向の頭を撫でながら、淡雪はただ優しくそう言ってあげた。



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