第27章  出会いと別れのシンメトリー(後編)


 それから数日が過ぎた、ある晴れた昼下がりだった。
 淡雪はまだこの町に留まって、日向と遊んであげていた。
 朗らかだけど、小さくて弱々しい子を守ってあげられたらという思いだけで、そこに留まっていた。
 死ぬチャンスを逃した……。
 けれど、淡雪は他人の辛さに気がついてやれない人間ではありたくなかったのだ。
 それが、たとえ範囲の狭い自己満足であっても。

 日向がすごい勢いで緩い坂道を駆け上がっていく。
 後ろから波の音が聞えてくる。
「おにいちゃ〜ん!はやくはやくぅ!」
「ひなちゃん、あんまり遠くまで行っちゃいけないよ!」
 日向が肩越しに淡雪を呼ぶので、淡雪も目を細めてそう返し、すぐさま駆け出した。

 出会った時は泣いてばかりだったからわからなかったが、元気な日向は落ち着きがなくて、目を離すとどこに行くかが全く予想のつかない子だった。
 正直、いくら愛する人を失ったからと言って、この子から目を離して平気でいる親というのも……問題があるような気がする。

 T字路に出て、日向は淡雪の来るのを今か今かと言った調子で待っている。
 体を弾ませて、手を振って……。
 まるで、犬のようだな……と淡雪は苦笑した。

 淡雪がようやく日向に追いつくかと思った時、左側から車の音が聞えてきた。
 すぐにそちらに目をやり、車が止まる気配がないことを確認する。
 淡雪はダッシュのスピードを上げて、大急ぎで日向の体だけでも車に轢かれないように守ろうとした……のだが、庇うことも押し出すことも叶わずに、日向の体も淡雪の体も、車にぶつかられて、ふわりと浮かび上がった。

 ぶつかられた瞬間、ぐちゃり……と自分の体が嫌な音を立てたのが聞えたけれど、淡雪には痛みが走らない。

 視界の隅で変な方向に曲がった右腕が、あっという間に元に戻るのが見えた。
 何度見ても、その瞬間は気持ちが悪い。

 ドドーン!と腹に響く轟音と共に、車がブロック塀に突っ込んで止まった。
 運転手は即死だろうと思われるほど、車はグチャグチャだった。

 視界に赤黒いものがドロリと垂れてきたので、淡雪はグイと拭う。

 そして、淡雪は車には構わずに、日向へと駆け寄り、抱き起こす。

 ひどい状態だった。
 頭からは大量の出血。下手をしたら、骨が見えるんじゃないかと思うほど、皮がめくれていた。
 右腕が通常の逆に曲がっているし、右足もにわかにおかしかった。
 淡雪の中で、あの時のことが過ぎった。

 霧が自分の腕の中で死んでいった、あの時……。

「霧……」

 子供体温の日向の体が、数日前に抱き寄せた時よりも冷たく感じられて、淡雪は心の中で取り乱す。
 けれど、混乱しそうになるのを必死に堪えた。
 ここで混乱してもなんにもならない。考えなくては。
 まず、救急車を……いや、間に合わない。どうすればいいのか?

「ひなちゃん!?聞える?」
「……っはぁ……っはぁ……」
 荒い呼吸。目を開けはしたけれど、意識がないのは確実だった。

 何度も何度も、日向の名前を呼んだ。
 淡雪は顔を歪ませる。
 嫌だった。もう二度と、あんな思いをするのは嫌だった。
 心を許した相手を失うことほど、辛いことはない。
 気がつくと、淡雪は日向の頭に手を添えていた。
 自分でもいまいちその行動の意味が掴めなかった。
 けれど、最もらしく、目を閉じる淡雪。

 昔、記憶の飛びやすくなった霧が言っていた。
『痛みの自覚がないのは脳がそれを自覚していないから。そして、脳が自覚しないことは体にも影響を及ぼさない。たぶん、あんたの体は、その能力に馴染んでしまうほどの特異さを持っているんだと思う』

 もしも……もしもだ。
 日向の体も、淡雪と同じように脳が自覚しなければ体が元通りになる、変わった体質であるなら……。
 それは奇跡にも近い確率だ。
 そんなのはわかっている。
 けれど、このまま腕の中で死んでいく日向を見送るわけにはいかない。
 淡雪の100分の1も生きていない人間を、こんなにあっさり死なせてたまるものか。

 目を閉じて、日向の意識に呼びかけた。
 暗い闇の中に、1人膝を抱えて、日向が座っていた。
 たぶん、これが今の日向の深層世界……。
 死にかけているのと、父親が亡くなったことで塞ぎこんでいる彼女の心を表しているのだと思う。

「ひなちゃん、戻っておいで。死んじゃいけない」
「おにいちゃん?暗いの。なんにも見えない……」
 不安そうな日向の声。
 淡雪は大丈夫だよと優しく返した。
「ひなちゃん、さぁ、戻ろう?」
 淡雪は日向の前に着地すると、そっと手を差し伸べ、立ち上がらせる。
「おにいちゃん」
 日向の手は温かかった。
 淡雪は日向の手をぎゅっと握った。
「帰ろうね。きっとお母さんが心配しているよ」
「ありがと。おにいちゃん」
「え?」
 淡雪は日向の言葉の意味がよくわからなくて、キョトンと目を見開いた。

 日向のことを庇うこともできず、こんな状況に追い込んだのは自分だ。
 感謝されることなんて何にもなかった。
 せめて、この子を生かしきること……それだけが、淡雪にできることだから。

 この子が無事で済んだら、自分はまた旅に出よう。
 行き先なんてない……ただ、死だけを求める旅に、また……出よう。
 そう決意を胸にして、淡雪はこの『力』を使ったのだ。
 この1000年で、1つだけ無駄じゃないと思ったものがある。
 それは……この『力』をコントロールするだけの経験を積んだこと。
 周囲の者に影響を及ぼさず、それでも、必要な時には取り出すことができるようになった。
 この子を救うことができたら、きっと、本当の意味で1000年間は無駄じゃなくなる。

「おにいちゃん……本当におにいちゃんだったらよかったのにな♪」
 淡雪の手も一緒にブンブン振って、日向は楽しそうにそう言った。
 そして、すぐに何かを考えるように下を向き、続けた。
「おにいちゃんは……そのうち、どこかにいっちゃうんでしょ?」
 寂しそうに、不安そうに日向が言った。
 淡雪は穏やかな笑顔のままで、日向の手を振り返す。
「さぁ、どうだろねぇ」
「ウソついてもわかるもん。いつかはみんな、ひなの前からいなくなるの。どうせ、おにいちゃんだって……」
「いなくなってほしくない?」
「……なんかね、おにいちゃんといると、このへんがぽっかぽかするんだよ」
 日向は胸を触りながら、ニコニコしてそう言った。
 淡雪は眉を八の字にして、そっかぁと笑い返す。
「だからね、いなくなってほしくないんだぁ。おにいちゃんがいられるんなら、ここにいてほしい!」
 淡雪を見上げて満面の笑顔。

 どうしてだろう?
 日向は満面の笑顔で、元気いっぱいに言ってくれたのに、その言葉を聞いた瞬間、淡雪は涙が出そうになった。

 浮かぶのは霧の笑顔。

「ああ……そうか……」
 思わず、そう呟いてしまった。
「どうしたの?おにいちゃん」

 淡雪は上を見上げて、涙目を日向には見られないようにして呟いた。
「僕は……どうして、こんなに弱いのかなぁ」

 別に、傍にいてほしいという言葉を言われたら、誰でも良い訳ではない。
 良い訳ではないのだけれど、それでも、不意に言われて嬉しくて……けれど、 そのまま、留まってはいけないのではないかと経験上思ってしまう。

「おにいちゃんはよわくないよ?」
「ん?そう?」
「うん。ほんとうによわい人っていうのは、ひなとかお母さんのことを言うんだよ?お父さんが言ってた。守ってあげたいって思われる人はよわいんだって」
「ははは。ひなちゃん、それは違うよ」
「え?」
「それは、お父さんの照れ隠しだよ」
「テレカクシ?」
「そう。素直じゃないんだ。僕は、ひなちゃんは強いと思うよ。小さな体で懸命に立とうとする」
「うぅん……でもでも、つよかったらないたりしないよ?」
「泣くことが、弱いことには繋がらないんだよ」
「 ? 」
「まだ……難しいかな」
「 ? よくわかんないけど、まぁ、いいや。おにいちゃんはほめてくれてるんだよね♪」
「そう。そういうことだよ」
 不思議そうに首を傾げる日向に苦笑しながら、淡雪は日向の頭を撫でた。

 撫でながら『力』を流し込む。
 怪我のことを忘れるように記憶変換をかける。
 脳に今回の怪我を忘れさせるように働きかける。
 正直、可能なのかは知らない。
 ただ、淡雪はそういう状態で生きているのだといった霧の言葉を信じるしかないのだ。

「ひなちゃん?」
「なぁに?」
「……本当に、僕はここにいていいのかな?」
「うん♪ひなはうれしいよ☆」
「そうか……それじゃ、少し考えておくね?」
「うん。おにいちゃん、1人にしないでね?」

 淡雪の手をキュッと握って、日向は寂しそうに首を傾げてそう言った。
 淡雪は日向に気がつかれないくらいの微妙さで目を細めた。
 それはこちらの台詞だと……言いそうになる。
 日向は明るい。確かに内面には危うい面を秘めているかもしれないけれど、その明るさで、きっと多くの人に愛されると思う。
 だから、そんなに不安そうな顔をする必要なんて、どこにもない。
 1人になるのは……淡雪のほうなのだ。

 決意が揺らぐ。
 どうして……この子は欲しい言葉をくれるのだろう?
 こんなに小さいのに……。
 いや……1000年生きているのに、自分が成長していないだけなのかもしれない。
 どんなに大人ぶっても、この子の強さには敵わない。
 素直さという強さには。

 日向の危うさを……もし守ってあげられる人間として傍にいられるのなら……。


 淡雪はそこで目を開けた。
 救急車の音がどんどん近づいてくる。
 淡雪は日向を見つめた。
 呼吸は先ほどと違い、すっかり落ち着いている。
 骨折が顕著だった部分が、ゴキゴキッと音を立てて元に戻った。
 そして、皮のめくれていた頭の傷も、シューと音を立てて癒えていくのがわかった。
 そっと頭の血を拭ってやる。
 傷が……消えた。
 自分以外でこういう現象が起こるというのも、あまり気持ちのいいものではない。
 ただ、この『力』に容易に対応してくれた日向の体に感謝してはいた。

 淡雪は目を細める。
 今回だけだ。
 あとは、絶対に怪我を強引に治すような使い方はしない。
 使いすぎると、日向まで死ねなくなる。または、霧のようになってしまう。
 多少の記憶変換だけで、できるだけ負担をかけないようにしないと。

 そこで首を振った。
 自分の考えていることに恐怖さえ覚える。
「馬鹿なことを……」
 1人で、死を求める旅に戻る。
 今までやってきたことだ。
 何を戸惑うことがある。
 ……でも、日向の顔を見ると、涙が出そうになるほど、胸が苦しくなる。

 本当は1人になりたくなんてない……。


 救急車のサイレンが耳に騒がしい。
 変な反響音まで聞えてきた。
 事故現場の近くまで来て停まる。
「君、怪我が酷いのはその子か?君は?平気?!」
「え?あ、はい、僕は平気なので、この子をお願いします」
「君、この子のお兄さん?」
「いえ、ただ、知り合いです」
「そう。じゃ、とりあえず、乗って」
「はい」
 救急隊員と言葉を交わしながら、日向をゆっくりと担架に乗せてあげた。

 顔に少し血がついている以外は穏やかなものだ。
 先ほどの惨状など、誰が想像するか。
 救急隊員に続いて救急車に乗ろうと歩き出した時、ふと日向と同じ年頃の男の子が目に付いた。

 立ち止まって笑いかける。
「ひなちゃんのお友達?」
 男の子は野球帽を目深にして、首を横に振る。
「そ、そんなんじゃ……」
 淡雪はもしかしてと思って、男の子の頭に手を触れた。

 男の子の目を覗き込んで確認する。

 男の子は挑戦的な目で睨んでいる。

 その眼差しが子供らしくて淡雪は目を細めて、またもや笑う。

 やっぱり、思ったとおり、男の子はこの事故現場に居合わせたのだ。
 こんな酷い状況を目の前で見てしまったのなら、トラウマになってしまうだろう。
 日向の記憶も事故のことは思い出し辛いように変換しておいた。
 この子の記憶も、変換したほうがいいだろうと淡雪は結論付けた。

 男の子が日向を心配しているのも、その記憶の中から感じ取れた。

「大丈夫だよ。ひなちゃんは大丈夫。大丈夫。君の記憶も少しだけ、いじっておくから」
 男の子はその言葉が聞き取れなかったらしく、首を傾げた。
 けれど、淡雪はそれには構わずにスタスタとその場を去って、救急車に乗り込んだ。

 人の記憶を覗くのは、あまり気分のいいことではない。
 今回だけにしようと、自分自身に強く言い聞かせた。










 淡雪はそこで目を覚ました。

 懐かしい夢だった。

 ここ最近、見ることのなかった夢だ。

 交通事故のことなど、記憶変換を施した本人が忘れていたほどだ。

 出会いの話をしたからだ……。

 天井を見上げて、淡雪はふぅ……と息を吐き出した。

 危うい面を守ってあげようと考えていたのに、悲しませた。

 自己嫌悪ばかりで前に進まない。

「これじゃ、ダメなんだよ、馬鹿」
 淡雪は髪をガシガシと掻いた。

 勢いよく起き上がる。
 窓の外が白み始めていた。
 目覚まし時計を見ると、5時前。
「ああ……そんなに寝てないな」
 眠りについたのが2時だから、本当にあまり寝ていないに入るだろう。

 ブブ……ンブゥン……。
 いきなり、部屋の入り口のほうから聞きなれない音が聞えて、淡雪は振り返った。
 影が立っていた。うっすらと、ぼんやりと、黒い影が。
 外は白み始めているとはいえ、まだ部屋の中は暗い。
 けれど、その影の部分だけが妙に濃い闇になっていたから、すぐにわかった。

『タケル……』
 懐かしい名前を呼ばれて、淡雪は驚きを隠せない。
 人の気配ではない。
 ビシビシと、殺気にも似た刺されるような気配を感じていた。
 淡雪はその殺気に気圧されながらも尋ねる。
「だ、誰だ?」
『忘れたのか?おれのこと。忘れるわけはないんだがな』
 声は低め。男の声がする度、ブブ・・ンブン……と音が鳴る。

 淡雪はその声に聞き覚えがあった。目を細めて記憶を辿る。
 愛想のない言葉遣い。
 殺気にも似た気配を自分に対して放つ人物。
 記憶の中に、思い当たる人間がいた……。
「アカツキ?」
『よかった、忘れてないんだな』
「……お前、どうして?生きているのか?」
 淡雪は動揺を隠せずに早口で尋ねる。
『相変わらず、会話が成立しないよな、おれたちは。おれが生きているかどうかなんて、どうでもいいことだ』
 嘲るようにアカツキは笑った。

 そして、たぶん、淡雪を見据えて次の言葉を続けた。
 鋭い視線を確かに感じた。
『まだ、お前のことを許していない。その事実だけで十分だろ?』
「…………霧…………」
『よかった。忘れていないのだな?』
「忘れるわけない……」
 淡雪はアカツキの言葉に表情を歪めた。

 忘れるわけなどない。
 どんなに年月が経っていても、初めて好きになった人のことを忘れるわけなんてない。
 自分が忘れたら、もう彼女の存在など、どこにもなくなってしまうのだから。
 自分だけが……まだ、霧をこの世界に結び付けていられる。
 もしも、永遠に自分が生き永らえることができるのなら……霧も、永遠にここにいる。

 だから、忘れない。
 忘れてはいけない。
 それでも、前に進みたい自分がいて……前に進むということは忘れることなのじゃないかと、考えてしまう。

 霧よりも好きな人を見つけたことを、申し訳ないと考えてしまう。

 きっと、霧は責めなどしない。
 あの朗らかな笑顔で、幸せを願ってくれるだろう。
 信じている。わかっている。誰よりも大事だったから。
 今は亡き人に想いを馳せることだけでは生きられない。進めない。
 そんな闇の中にいた人間を救ってくれた、あの少女を、幸せにすることを……霧なら薦めてくれると思いたいのだ。

 それが……必死に、必死に淡雪が考えて辿り着いた結論だった。
 ご都合主義だと、アカツキは言うだろう。それでも、伝えなければ……

『タケル。誰も傷つけたくなければ、これ以上、ここにいないことだな』
「え?」
 言葉を、決意を……伝えようとした、ほんの一瞬先に、アカツキがそう言った。

 淡雪は動揺を隠せずに、目を白黒させた。

『お前を……許していない。そう言っただろう。お前を、幸せになどするものか』
 アカツキの声が、寂しさと厳しさを含んだ音で空気を震わせた。
「アカツキ……」
 淡雪は目を細めて立ち上がった。

 ギシギシッとベッドを軋ませ、アカツキに近づく。
 寂しそうな声が気になったからだ。
 彼は霧といても、そう笑う少年ではなかったが、芯のしっかりした声を発する少年だった。

 そんな彼が、こんな声を発することが信じられなかったのだ。
 けれど、淡雪がもう少しでアカツキに触れられると思った瞬間、彼は目の前から消えてしまった。

『いいか?あの少女から離れろ。じゃないと、後悔するのはお前だ』
 そんな言葉を残して……。
 淡雪は、その意味を察しないまま、ただ、首を傾げるばかりだった。



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