第28章  伝えて悲しむ想いはないはず……


 雨都が買出しに行くと言うから、今日は雫もついていくことにした。
 というのも、昨日、雨都がたった一人で20キロの米を台車に乗せて帰ってきたのを見て反省したからである。
 さすがに頼まれたとは言え、居候の身の上で、家の主にばかりおさんどんやらなんやらをやらせているというのも問題があるだろう。
 ただ、掃除ばかりは雫がやってあげているから、おあいことも言えるのかもしれないが。
 あの広い屋敷の掃除ともなると、一日では終わらないから、1週間単位で部屋を変えて掃除をするようにしていた。

「しずく、家でくつろいでてよかったのに……」
 雨都が苦笑交じりでそう言った。
 この夏休みの間で、だいぶ雨都は雫に対してお姉さんのような言動を発するようになった。
 雫は目を細めていじけたように答える。
「バァカ……何のために来たかわからなくなるさ」
「え?」
「オレは、お前の面倒見るために残ったんさ。ただ、居座るだけだったら、1週間で帰るわ」
「面倒……?」
 雨都はおかしそうにふふ……と笑い声を漏らす。
 その笑い方がカチンときたのか、雫はピクリと眉を動かした。
 しかし、それには気がつかないように雨都はまだ笑っている。

「ったく……掃除も出来ない半人前のクセに」
 ため息混じりにそう言うと、雨都が困ったように笑うのを止めた。

 目を泳がせて、静かになる。

 その様子を見て、雫はクフッと笑う。
「ま、あれだよな。雨都ねぇは掃除が出来ないんじゃなくて、やらないんだよな」
「……。やる余裕がないと言ってよ……」
「あいあい」
「本当は、もっと時間が欲しいくらいなのだし」
「……無理すんなよな。寝てねぇんだろ?」
「え?」
「オレが買出し行ってくるから、休んでろよ」
「ううん、それは……。それに、ちょっと、淡雪くんに用もあるし」
 雫は雨都の頭をボフッと叩くように撫でて、優しい声でそう言ったが、雨都はその手を優しく除けながらかぶりを振った。

 『淡雪』という単語が出てすぐに雫は眉をひそめる。
 そして、肩にかけてたバッグからゴソゴソと古ぼけたノートを取り出して読み始めた。
 そのノートは、以前淡雪が屋敷に来た時に読まれそうになったものだ。

「少年を見つけた。静かな笑顔の少年だ。彼のことは2年前から気がついていたが、今日すれ違って確信した。彼は年を取っていない。彼が、あの文献の少年だったのだ。私は彼に謝らなくてはならない。それ以上に何が出来るかもわからない。けれど、どんなことをしてでも、私は彼に償いをするのだ。一族の罪を、彼の悲しみを……私は全て拭い去りたい」

 雫はそこまで読むと、バラバラ……とページを飛ばして、あるページで手を止めた。

「脳について、異色の論文として、表に出ることのなかったものを見つけてきた。それを参考にしたうえで、私が考えるのは、彼のあの体も能力も、一種の暗示によるものではないかということだ。確証のない推論だが、その線で考えるのが今は一番近い気がする。また、機会があれば、彼はどのようにして、あの力を手に入れるに至ったのかの行程も尋ねてみる必要があるかもしれない。彼の呪いを解くために、必要なことだ。もしも、尋ねたら……彼は私を嫌いになるだろうか……?」

 雫は然して抑揚もつけずに読み切る。
 雨都が慌ててノートをむしり取って丸めた。
 恥ずかしそうに顔を赤らめて、怪訝な顔で雫を睨む。
「どうして、これを……」
「だって、雨都に聞いても答えてくんないんだもん。それなりに自分で調べるっきゃないかなぁって思ってね。でも、マメだよね。掃除はしないけど、日誌はつけてる」
 悪びれもせずに雫はのらくらと言葉を返す。
 雨都の睨みに怯まないのは日向と安曇くらいなものだったのだが。
「調べたことを忘れないように書いてるだけで……」
「掃除をマメにするようになったほうが、好かれるんじゃないの?」
 意地悪っぽく笑って雫はそう言い放った。
 雨都はツリ気味の大きな目を悲しげに細める。
 そして、ポツリと呟いた。
「いいのよ。……私が好かれることなんて、ないもの。いいえ。違う。彼の優しさは……私の欲しいものじゃないのね」
 ノートをギュッと握り締めて、まるで自分自身に確認するように静かに俯く雨都。

 雫はそれを見て、しまったと思った。
 いくらなんでもからかいすぎた。
 雨都には冗談がほとんど通じない。
 自分は何をムキになって、こんなことをしているのか……。
 唇を噛み締めて、雫は野球帽を目深にかぶった。
 今、何かを言っても、無駄な気がして、言葉が出ない。

 雫は立ち止まった。

 雨都も、それに気がついて、すぐに足を止める。
 振り返って不思議そうにこちらを見てくる。
「しずく、どうしたの?」
「ねぇ、雨都ねぇは……言わないの?」
「え?」
「アイツに言わないの?あんなに頑張ってるのに……」
 雫は毎晩朝が白む頃まで本を読んで、何か書き留めている雨都の背中を思い出しながらそう言った。
 それを掃除するのは雫で、正直嫌気がさしてもいたけど、それでも、頑張っているのがわかったから、減らず口は漏らしても、本気で文句を言ったことはなかった。

 頑張りは認めてもらってこそ、意味がある。
 はじめから認めてもらおうとして頑張る人なんていないけど、でも、やっぱり認めてもらわなきゃ意味がないと思うのだ。

「……私が無理してることを知ったら、彼は悲しむの」

 雨都はどうしてか笑顔でそう言った。

 ざわざわ……と山の木が風に吹かれて、音を奏でる。
 今日は、昨日に比べて涼しいせいか、蝉の声もなかった。

「知らなくていいことって、きっとたくさんあるよ。私は、彼に誉めて欲しいわけでも、悲しんで欲しいわけでもない」

 雫は困った。
 伝えるべきことは伝えたほうがいいと思う。
 伝えないで後悔するのは、とても悲しいことなのだ。
 それを雫は知っている。
 人が頑張っているのを知って、悲しむなんて……淡雪の気持ちがわからない。
 自分だったら、頭の一つや二つ、撫でてやるのに。

「幸せな、笑顔が見たいの。そのための頑張りなの。こんな気持ちになるのは、初めてだから。伝えることなんて、なんの意味も持たない……」

 雨都はそう言ってから、何かを思い返すように空を見上げた。
 雫もつられて空を見上げた。
 雲が西から東へ、すごいスピードで流れてゆく。

「失敗したなぁ……」
「ん?」
「ううん。とにかく、私はこのままがいい」

 首を傾げる雫を尻目に、雨都は前を歩いていく。
 慌てて、雨都に続く雫。
 雨都は悲しそうに、それでも笑って雫の手を握ってきた。
 その仕種で、子ども扱いされている気がして、雫は奥歯を噛み締める。

 前方から激しくサイレンを鳴らして、救急車が走ってきた。
 別荘のような家が多く建ち並んでいる地域に、救急車が来ることは稀なので、雨都が驚いたように目を見開いたのが見えた。
 道が広いとは言えないので、雫が雨都の手を引っ張って、道の端に寄る。
 救急車は二人の前を抜けて、すぐそこの赤い屋根の家の前で停まった。
 二人はしばし、その様子を見つめていた。
 担架を持って、救急隊員が家に入っていき、すぐに高校生くらいの少女を乗せて出てきた。
 心配そうに老人が付き添って車に乗り込んでいく。
 そして、救急車が器用に折り返して戻ってきて、二人の前を走っていった。

「……どうしたんだろうな?」
「さぁ……?」
 そっけなく言葉を口にしたのに、なぜか雨都は不安そうに雫の手をキュッと握り締めてきた。
 だから、雫はそれに答えるように、握り返してやった。

 雲の流れが早く、上空にはいつの間にか、濁った色の雲が出始めていた。
 雨都も雫も、先を急ごうと、少しだけ駆け足で、救急車のタイヤの跡の残る道を走り始めた。



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