第29章 重なる想い、時よ止まれと言いたくなる
日向は的を見据えて、思いっきり地面を蹴った。 後方に砂が舞い上がり、勢いよく回された腕から白球が飛び出していく。 膝の角度はストライクゾーンど真ん中。 振り切った手首もしっかりフォロースルーが取れた。 投げる前に思い描いた通りの位置にボールは当たり、ネットが揺れる。 シュルシュル……と音を立て、回転を弱めながらボールが地面に落ち、テンテンと跳ねて、こちらへと戻ってきた。 日向はそのボールを拾いに駆けて行く。 一応、バント処理の練習も含んでいるのだ。 腰を低くして、下からガッチリとキャッチする。 腕を振りかぶり、一塁の方向に体を向けて、そこで止める。 静かなグラウンドだ。 練習がないだけで、こんなに静かだなんて。 熱が下がったのをいいことに、昨日できなかった分を取り戻しに来たのだが、吹き抜けていく風が自分を孤独にしている気がした。 日向は膝を抱えてしゃがみこむ。 練習していても気は晴れない。 淡雪は少しは冷静になれたろうか? 寂しそうな表情を時々見せることはあっても、あんなに悲しそうな声を聞いたのは初めてだった。 『帰ってくれ……』 どうして、あの時熱で弱ってなんていたんだろう……。 あんなに辛そうに声を絞り出した彼を抱き締めてあげたかったのに。 そのために、日向は淡雪の傍をいつでも確保していたというのに……。 日向はボールを地面になすりつけてコロコロ……と転がした。 行ってもいいだろうか? いや、むしろ行きたい。 「無理」 これでも日向は結構我慢をしたのだ。 たったの1日と1時間だけれど……。 「希(ねがう)さ〜ん」 誰かが自分を呼ぶ声で、日向は我に返る。 ちょうど後ろから、懸命に声を張り上げているのがわかった。 日向は立ち上がって振り返る。 膝が少しだけ震えて、目の前が軽く回る。 驚いてフルフル……と首を振り、もち直した。 顔を上げると、グラウンドの入り口で、八朔(ほずみ)が手を振っているのが見えた。 日向は小首を傾げつつ、すぐに八朔の元へと駆け寄った。 八朔は困ったように笑っている。 「練習ですか?」 「あ、はい、まぁ。ハッサクくんは今日もお仕事?」 「はい、そうです、はい。あの……ですね?」 「はい?」 「一昨日……なんですが、何か急用でもできましたか?」 「え?」 「図書室に行ったら、希さん、もういなかったのでね」 「あ……」 そういえば、あの時は八朔に用事を頼まれて、文集のある記事を探していたのだった。 それなのに、無断で、しかも片付けもせずに帰ってしまったのだから、相当の迷惑をかけてしまったかもしれない。 日向が眉を八の字にして黙り込むと、八朔は慌てたように両手を胸の前でバタバタさせた。 「あ、いや……そのですね、別に責めているわけではないんですよ?ただ、文集もそのままだったので、具合でも悪くなったのかと心配していて……」 「ごめんなさい、ハッサクくん」 「え、え、い、いいえぇ。なんでもないならいいんです。作業もなんとかなりましたしね」 穏やかな笑顔でそう言うと、さってと……と1人ごち、八朔は「それじゃ」と手を振って、校舎へと歩いていってしまった。 思えば、彼があんな用事を頼まなければ知らないままで済んだことだった。 八朔が悪いとは言いたくないけれど、あの結果を招いた元凶は彼だったと言っても過言じゃない。 日向はその背中を見送ってから、空を見上げた。 そんなことを考えてしまった自分にため息を漏らす。 黒雲が山を覆い始めている。じきに、空全体を覆うだろう。 海風が冷たいし、空気も少し湿っぽかった。 鼻で空気を吸い込み、困ったように 「雨のにおい……」 と日向はぽつりと呟く。 そう呟いてすぐに、日向のおでこに雨粒が落ちてきた。 「うわ……嘘、まだ、雲来てないのに……!」 日向は慌てて、グラウンド付随の部室に駆け込もうと45度向きを変えた。 けれど、誰かに腕を掴まれて、日向は足を一歩踏み出したところで止まる。 ポツポツ……と、ビニール素材の傘が雨を弾く音が頭の上でする。 「まったく……病み上がりなのに、駄目じゃないか」 心配そうな声が、傘で出来た小さなドーム内で響く。 耳に優しいその声が、誰のものなのかはすぐにわかった。 日向は今までの表情が嘘のように、ぱっと明るく笑って振り返った。 「雪ちゃん!」 その声で耳がキーンとしたのか、淡雪は片目を閉じて苦笑した。 「雨降りそうなのに、家にいないみたいだったから、もしかして、ここかと思って。よかったよ、間に合って……」 淡雪は、まだ気まずいのか、目を合わせてはくれなかったけど、声はいつもの通りの柔らかさを含んでいた。 この物腰の柔らかさが、日向を安心させてくれるのだ。 日向は懸命に背伸びして、クシャクシャ……と淡雪の頭を撫でた。 今まで一度もやったことがなかったのもあって、淡雪が目を見開いてキョトンとしたのがドアップで見えた。 日向はふふ……と笑いを漏らして、朗らかな声で言った。 「前からね、こうしたかったの。背、伸びたらやりたかったんだけど、やっぱり……キリンさんみたいに、気合で背は伸びなかったから。でも……今度会ったらやるんだって決めてたんだぁ」 「ど、どうして?」 「今度こそ、対等だって……自信持てたから。雪ちゃんが大切だって言ってくれたこと、嬉しかったから」 日向は自分でも驚くくらい、はっきりくっきりと言葉を繋いでいた。 淡雪への好意的な気持ちを、言葉にすることが来るなんて3日前は想像もしていなかった。 でも、伝えなくてはいけないと心のどこかが言っている。 きっと、昨日の失言を拭い去りたい自分がいるのだ。 『雪ちゃん、その記憶操作は、人の感情も操れるのかな?』 あんなことを言ってしまった自分自身が許せなかった。 安曇はそれを否定しなかった淡雪に対して怒りを顕わにしたけど、あの時の淡雪の表情を、日向はきっと一生忘れない。 必死に表情を保とうとして、口元が震えていた。 そんな風に見られていたのか……と、谷底に突き落とされるような気持ちだったかもしれない。 それを思うと、涙さえ出そうになる。 淡雪は頭の上に置かれている小さな手を取って、胸の高さまで下ろし、キュッと握り締めてきた。 傘が雨を弾く。 気が付くと、淡雪の肩は濡れているのに、日向はどこにも雨が当たっていなかった。 いつも……いつも、淡雪はこうやって、日向を護るのだ。 傷1つ、泥1つつけずに。 「お願い……してもいい?」 淡雪が迷いながらそう言ったので、日向はキョトンとして首を傾げた。 淡雪は照れたように目を逸らしながら、穏やかに言った。 「もう一度、好きって言ってほしいんだ。まだ……僕のこと、好きでいてくれるなら」 「……じゃあ、笑って?」 日向はその言葉を聞いて、淡雪の顔を無理やりこちらへ向けて微笑みかけた。 淡雪は困ったように眉を八の字にする。 「違うよぉ、笑って?あたし、雪ちゃんの笑顔が好き。優しい声が好き。ぎこちなく撫でてくれる手が好き。でも……本当は、怒った顔でも、泣いた顔でも……好き。雪ちゃんを見上げるのだって、雪ちゃんが膝を曲げて目線を合わせてくれるのだって好き。好き。大好き。大好きだから、だから、笑って?」 日向の真剣な目を、淡雪は見つめてくる。 好きを1つ増やす度に、淡雪の目から静かに涙がこぼれるのが見えた。 日向は優しく親指でその涙を拭ってあげる。 「雪ちゃん……子供みたい……」 日向はおかしくて笑い声を漏らした。 すると、淡雪も笑いながら答える。 「ひなに、言われたくないよ」 「むぅ……」 「はは……」 いじけたような日向の表情を見て、淡雪が吹き出して笑い声を上げる。 その笑顔が、いつものように大人びていなくて、少しだけ近くなったように感じるのは日向だけなのだろうか? 日向は勢いよく淡雪の首に腕を回した。 背の低い日向では背伸びでも足りない。 引き寄せるようにして体重をかける。 淡雪の顔が、その重みで少しだけ日向の顔に近づく。 その衝撃で、傘がグラリと傾き、日向にも少々雨が当たった。 慌てて淡雪は傘を立て直す。 日向は隙をついて、素早く淡雪の唇に自分のそれを重ねた。 きっと、淡雪は驚いているに違いない。 でも、いい。それでいい。 ずっと、我慢していたのだ。 もっと淡雪の背に近づけたらなんて、そんなことを考えていても、背は伸びずに止まるし、淡雪はきっと、自分からしようとはしないから。 だったら、これしかないじゃないか。 はじめは戸惑っていた淡雪の腕も、器用に傘をさしかけたままで日向を抱き締めてきた。 雨の音はどんどん激しくなるけれど、そんなことは構わなかった。 雨が降っている間は、この場所を通る人はきっといないから。 今、2人を隠してくれる、恵みの雨に感謝したい。 しばらく、そうして唇を重ねていたが、日向のほうが酸素が足りなくなって、唇を離した。 「……っはぁっはぁ……い、息が……」 膝に手をついて、大げさなほどに肺に酸素を招き入れる。 心配そうに日向の顔を覗き込みながら、淡雪が囁く。 「ひな、息はしていいんだよ?」 「うぅ……なんで、そんな慣れてるようなコメントするの?」 「え?だって、僕は……あ、なんでもない」 日向が泣きそうな目で見上げた瞬間に、淡雪は言い掛けた言葉をやめた。 なんとなく、察す。 いたんだ、ちゃんとした人……と心の中で呟く。 でも、それはすぐに振り払う。 淡雪は今日向といる。それで満足しなければ、贅沢というものだ。 淡雪は器用に傘を持ち直してしゃがみこむと、日向の顔を見上げてくる。 楽しそうに、嬉しそうに。 あんまりまじまじと見られるので、日向は照れて、体勢を元に戻そうとしたが、傘にゴツンとぶつかって、中腰のままで固まる。 「はは……」 「もう、早く、雪ちゃん立ってよぉ!」 おかしそうに笑われて恥ずかしさがこみ上げた。 淡雪の腕を引いて、立ち上がらせようとした瞬間、淡雪の顔が一気に近づいてきた。下からチュッと軽く唇を奪われる。 ほんの一瞬触れるだけの優しいキスだった。 「これなら、酸欠にならないだろ?好きだよ、ひな」 優しい目が、上目遣い気味で日向の心を捉える。 日向は顔に血液が集まってくるのを感じた。 先手を取ったつもりだったのに、負けた。 いや、負けとか勝ちとかではないのはわかっているのだけど、そう思わざるを得なかった。 あの瞬間に、好きだなんて言うなんて……それだけで卑怯だ。 「雪ちゃん、意地悪だぁ……」 「え?え?なんで?」 無自覚な元・幼馴染に日向は軽いチョップをかまして、淡雪が立ち上がってからすぐに俯いた。 困ったように淡雪はアセアセと落ち着かない。 こんなやり取りも、出来る日が来るなんて、本当に3日前は考えてもいなかった。 日向は俯いたままで笑い声をこぼす。 嬉しい。楽しい。これから先は、ずっと一緒だ。 今までだって一緒にいたけど、それとは違う。 もう、気持ちを隠さなくていいのだから。 「あっくん、なんて言うかなぁ……」 「はた迷惑なやつらだよ、お前らはって言われると思う」 「あんなに怒ってくれたんだから、謝らなくちゃね、雪ちゃんは」 「ああ。でも、謝らせてくれるかな?」 「なかったことにしそう?」 「そう。アイツ、漢だから」 「あは……確かに」 淡雪の大きな手に包まれた自分の手は温かくて、すごく幸せの中にいることを実感できた。 雨は更に激しくなったけれど、傘という小さな空間で交わす会話は楽しくて、春休みの時とは違う相合傘が嬉しかった。 突然、ピーン……と耳鳴りがした。 日向はすぐに首を振って、それを振り払う。 淡雪も耳鳴りがしたのか、顔をしかめてブンブンと首を何度も振っていた。 それでも取れないのか、日向に傘を預けて、空いた手で耳を圧迫するような動作を何度も続けた。 ようやくすっきりしたように息を漏らすと、預けていた傘を持ち直し、また日向の歩幅で歩き始めた。 水無瀬家に到着したら、濡れ鼠になった雨都と雫と安曇が家の前で待っていた。 なんとなく、気恥ずかしくて、2人は慌てて、繋いでいた手を離した。 |
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