第31章  バランスに逆らう体


「今日くらい調べ物休めばいいのに……」
 起きてすぐに調べ物を始めた雨都を見て、ブツクサと雫が後ろで何か言っている。
 その程度で流して、雨都はバラバラ……と本を3冊ほど机の上に開いて、ノートに書き写し始めた。
 今の時代、メモもないかもしれないが、ノートは持ち運ぶのにも取り出すのにも便利で、PCに頼ろうという気分にはなれなかった。

 カッカッカッカッとシャーペンの芯の音が室内に響く。

 はぁぁ……とため息をつく雫。

「ねぇ、雨都?」
「なに?」
「もっと、楽できないんか?」
「楽?そんなこと言ってる暇はない」
「なんで?死期が近い人間じゃないんだよ?ほっとけば、ずっと死なない人間なんだろ?淡雪くんは。もっとゆっくりやったってさ……」
 雫の言葉に雨都はペンを止めた。

 椅子をクルリと回して、雫を見る。
 雫はヘッドフォンを持って、コンポを再生させる準備を始めていたが、すぐにその手を止めた。
 雨都は出会った時のように厳しい表情で言った。

「永遠なんて、本当にあると思う?不老不死なんて……本当にあると?」
「え?だって、現にあの人は……」
「それは今までがそうであっただけで、これからもそうである保証はない」

 悲しそうに雨都は顔をしかめる。
 雫が緊張したように息を飲む。

「……雨都ねぇ?」
「世界はバランスを保とうとするものなの。闇があれば光がある。悪があれば善がある。だから、生があるなら……死がある。それが……この世界の必然であり、当然の理。わかるでしょう?しずく。淡雪くんは、あの体であるだけで、既に危険な状態なの!だから、急がなくちゃいけない。どんな反動があるかもわからないのだから」
 雨都は強い口調で言い切り、椅子を元に戻す。
「文字を介さずに……記憶、暗誦……。稗田阿礼を元にしてのことか……。でも、まさか、本当に上手くいくなんて……」

 稗田阿礼。
 人並み外れた記憶力で、『旧辞』と『帝記』を暗誦し、『古事記』と『日本書紀』に形を成すまでの数十年間、全てを記憶していたと言われる人物。
 表向きな文献には残っていないが、稗田阿礼は記憶力の他にも、不思議な力を持っていたという記述の残る文献を十二神家の先祖が発見した。
 『多くのことを暗記することによって、神通力を手に入れることが可能になる』という仮定に基づき、数多くの子供たちにその実験を施し、その結果、得られたのが水無瀬淡雪の能力と異常な体。

「文字……文字?ちょっと待って、淡雪くんは……」
 雨都は頭に少しのひっかかりを覚えて、考え込む。
 雫が再生ボタンを押したのか、この前出たばかりの新曲のバラードが流れ出した。
「しずく、聴くならヘッドフォンで聴いて……集中できな……」
 振り返った瞬間、雨都は頭を撫でられて言葉を切った。

 振り返ると雫の胸に顔がぶつかるくらいの距離に、いつのまにか雫が迫ってきていた。
「なんで?アイツ、誉めてくれるわけじゃないじゃん。なんにもしてくんないじゃん……。なのに……なんで、雨都が頑張るんだよ。訳……わかんねぇよ。一昨日聞いてもわかんなかったよ……」
「しずく?どうしたの?」

 搾り出すような声で、空いている手をギリギリと握り締める雫を見上げて、心配そうに雨都が首を傾げる。

「オレは、雨都に無理してほしくないのに。なんで、……なんで、アイツの言うことしか聞いてくんないんだよ」
「別に、淡雪くんの言うことだけ聞いてるわけじゃ……。これをやっているのは私の意志だし」
 雨都は雫の手にそっと触れて、自分の頭の上から下ろした。
「これが、私にできることだから。罪を償うことは、必要なことでしょう?」

 雨都は優しく笑いかけて雫の肩をポンポンと叩く。
 聞き分けてちょうだい?とでも言うように。
 子供をなだめるように柔らかかった。
 立ち上がれば目線がほとんど同じくらいのこの従弟を、弟以外の見方で見るということが、雨都には考えられないのだから仕方がない。

「…………。オレも、雨都ねぇも、苦しいのに……。何が罪だよ……代償は、こんな力を持っちまった体だけで十分じゃないか!」
 雨都は雫の目の色が一瞬青く変わるのを見て、触れていた手を離した。

 雫の体から焔がほとばしる。
 あまりに不意を突かれて、雨都は何にも言えない。
 ただ、今調べ物をするために使っている部屋は、雨樹の部屋で、もしも必要な本に燃え移ってしまったら、研究に支障が出るだけではなく、兄も悲しむものがたくさんある。

「しずく、やめて!」
 雨都は叫んで立ち上がり、抱き締めた。
 雫が放つ焔自体は熱くもなんともない。
 雨都が雫の心の声を聞けないのと同様で、雫の焔は決して雨都を燃やすことがない。
 けれど、燃え移った後の炎は別だ。

 雨都の服が燃える。

「……っつ……しずく、お願いだから!」
 我を忘れている雫に必死に声を掛ける。
 けれど、止まってはくれない。

 焔が机に置いてあった、手作りの写真立てを煽った。
 写真立ては焔の勢いに負けて倒れ、床に落ちて割れた。
 ドスンという鈍い音と、カッシャン……という軽い音がした。
 その音で、雫から放たれていた焔が徐々に弱まって消える。

 なんとか……家に燃え移ることは免れることが出来た。
 雨都はホッと胸を撫で下ろす。

 強烈過ぎる力だ。
 雨都の力は、表立つことはないけれど、雫は相当苦しんだのかもしれない。

 雨都は腕を軽く火傷してしまったが、構わずに雫の頭を撫でる。
「しずく、ごめんね」
 雨都はうっすら涙を浮かべてそう囁きかけた。
「声を聴いてあげられなくって、ごめんね」

 初めて……そんなことを言った。
 心の声を聴くことが出来ないのが歯痒いなんて思うことがあるなんて、思いもしなかった。

「…………。聴かないでくれていい……。雨都ねぇの負担になりたくないんだ。それなのに、オレ……」

 そっと、雨都から体を離して、火傷を負った雨都の右腕を優しく触る。

「ごめん。コントロールできなくって……時々、おかしくなるんだ……。雨都ねぇが子ども扱いばっかするから、時々、……どうしようもないくらい……」
 雫は悲しそうに寂しそうに、震える手を抑えて、唇を噛み締める。

 雨都はほんの少しだけ高い雫の目を見上げる。
 雫は雨都の右腕をしばらく見つめていたが、急に思いついたように大慌てで部屋を出て行った。

 雨都は火傷を見つめる。
 ジンジンする……けれど、大したものじゃない。
 このくらいで済んだのは奇跡だ。赤く腫れ上がって、水ぶくれになるくらいで済むだろう。

 雨都はさっき机から落ちた写真立ての破片を拾おうと、回れ右をして屈みこんだ。
 小学生の時、雨樹にプレゼントしたものだった。
 本当は父の日のプレゼントだった。
 学校の図工の時間に作るようで、雨都は一生懸命に作ったけれど、父に手渡したら、表情は笑顔だったけれど、心の声が嬉しくなさそうだったから、奪い取るようにして返してもらったのだ。
 よく出来てるねと誉めてくれたのは、雨樹だった。
 だから、雨都は笑顔でこれをプレゼントしたのだ。
 写真立てには、大学院に行く前に2人で撮った写真が入れられていた。
 けれど、先ほどの焔で変色してしまって、写真としての意味を為していなかった。
 雨都は破片を除けて、その写真を拾う。
 その時、二重になって入れられていた写真に気が付いた。
 無事だった写真。
 それは幼い頃の雨都と雨樹の写真だった。
「まだ……持ってたんだ……」
 雨都はそっと写真を胸に抱いて笑う。

 階段をドタバタと上ってくる音が聞えて、雫が部屋に駆け込んできた。
 雨都は首だけ振り返った。
 すぐに雫は近づいてきて、雨都の右腕に冷たいものを押し当ててくる。
 氷と水をビニール袋で二重三重に巻いたものだった。

「どう?冷たすぎない?」
「しずく、こういう時はアイスノンをタオルで巻いてくるといいのよ?」
 お手製の氷袋を優しい目で見つめながら、雨都はおかしそうに笑う。

 特に雫は何も言わない。
 丹念に雨都の腕に氷袋を押し当てていく。
「たいしたことないから」
 雨都が雫の手を止めようとしたら、雫は真剣な目でこう言った。
「駄目だよ、嫁入り前なのに」
 雨都は中学生の言う言葉じゃないと思って、つい吹き出してしまった。

 雫が面白くなさそうに顔をしかめる。
「な、なんだよ、どうせ、オレはガキだよ。火傷の処理のイロハもわかってなくって悪かったな」
 雫は雨都の顔も見ずにそう言うと、また丁寧に火傷に触れていく。
 雨都は優しく笑って、柔らかな声で伝える。
「子ども扱いしてるんじゃない。気を……許してるの。わかってね?」
「…………」
「今は、無理してでもやらないといけないことがあるし。心配してくれるのはすごく嬉しい。私が無理できるのは、あなたがいるから。だから、あまり怒らないで?」
「怒ってない……」
「淡雪くんを助けられなかったら、私、意味がないから……。もう少しだけ……ね?」
 雫はそれを聞いてため息をつく。
「確認すんな。どうせ、オレが何言ったって聞かないクセにさ」
「ふふ……そう……ね」
 すねたように唇を尖らせる雫を見て、雨都はつい笑みを浮かべる。
 弟のように可愛がってしまうのは仕方がないと思うのだ。
 こんなに色々な表情を見せてくれるのだから。

 一応、酷くなる前に応急処置が間に合ったこともあって、事なきを得た。
 一息つくために雨都はキッチンへとハーブティーを淹れに部屋を出る。
 階段をゆっくりと下りているところに、電話が鳴った。
 この家の電話はほとんど雨樹専用になっている。
 かかってくることなど稀で、雨都は少し驚いたが、階段を駆け下りてリビングに入り、電話を取った。

「はい、十二神で……」
「うっちー!」
 名乗りきる前に日向の鬼気迫ったような声が聞えてきた。
 電話口の向こうで、何度もどうしようを連呼している。
 パニックに陥っているのかもしれない。

「ひなたちゃん?どうしたの?落ち着いて」
「雪ちゃんが……雪ちゃんが……!」
「淡雪くんがどうしたの?」
 日向の声があまりに慌てているから、雨都も一緒に取り乱しそうになるけれど、それを堪えて冷静に次を促す。

「いきなり倒れたの!何回呼んでも目を開けてくれないの。呼吸も浅いみたいだし、脈もすごくゆっくりで……。雪乃さんもいないし、あっくんも出掛けてて……でも、雪ちゃんの体って特殊だって聞いたから、病院に運んでいいのかがわかんなくって……」
 早口でまくし立てる日向。

 雨都は受話器を落としそうになるのを必死に堪えた。
「今から、そっちに行くから。淡雪くんの家にいるの?」
「う、うん……そう。なんで、なんで、こんなことに……」
「いい?今から言うことをよぉく聞いて?」
 雨都は冷静に物事を整理する。

 とりあえず、取り乱している日向を冷静にしなくてはいけない。

「ひなたちゃんが取り乱しても、何にもならないから。まず、深呼吸して。それで、淡雪くんをちゃんとベッドに寝かしておいて。ひなたちゃん、体小さいけど、出来る?」
「で、できると思う……頑張る」
「それじゃ、すぐに行くから」
 雨都は励ましながら、丁寧に受話器を置いた。
 1つ深呼吸する。
「落ち着け、雨都……」
 自分自身に言い聞かせて、すぐにリビングを出る。

 自分が恐れていた事態が、こんなに早くに起こるなんて……。
 正直戸惑っていないと言えば嘘になる。
 けれど、予測の1つにあったことだった。
 雨都が行って何が出来るかはわからない。
 でも、今は行くしかない。彼は医者にはかかれない身なのだ。

「雨都ねぇ、どうしたんさ?」
 慌しく、バタバタと動き始めたのを聞きつけて、雫が2階から顔を出した。
「しずく、あなたも来て。淡雪くんが倒れた」
「え?!」
 それを聞いて、雫が慌てて階段を下りてくる。
 雨都はサンダルをつっかけて、雫が玄関まで来るのを待たずに家を出た。
 ザワザワ……と、気味が悪いくらいの音を山の木々が発していた。



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