第32章  割れた心と消えた背中


 一部焦げた服を着ていたせいか、水無瀬家までの道程でチラチラと雨都は町民たちに見られたが、そんなことは構っていられなかった。

「雨都ねぇ……走ろうと思えば、こんなに速く……」
ようやく追いついた雫が肩で息をしながら、ショールを肩から掛けてくれた。
 そのおかげで、だいぶ目立たなくなったようだったが、その頃にはもう水無瀬家の前に着いてしまっていたので、あまり意味はなかったかもしれない。
 雫の気配りは嬉しかったが……。

 日向の泣きそうな顔に迎えられて、雨都と雫は水無瀬家の敷居を跨いだ。
 すぐに階段を上がって、淡雪の部屋に入る。
 2日前とほぼ同じままの部屋の中、1つだけ違うのはその部屋の主が笑いかけてくれないこと。
 ベッドに寝かされた状態で、淡雪は眠っているかのように静かに目を瞑っていた。

 雨都は雫にショールを預けるとベッドに近づいた。
 雨都は冷静な声で、淡雪の体を軽く叩く。
「淡雪くん?委員長?聞える?」
 その声にピクリとも反応しない淡雪。
 布団をどかし、胸に触れた状態で、ピタリと雨都は動きを止めた。
 確かに、呼吸が浅い。
 けれど、それよりも胸に触れた瞬間感じたのは、体温が異常に低い状態にあることだった。
「ひなたちゃん、体温計……どこにあるかわかる?」
「え?あ、探すより、あたしのところから持ってくる!」
 日向は雨都の視線に答えるとバタバタと階段を駆け下りていった。
 雨都はすかさず脈を診て、ふぅ……と息をついた。
 脈が弱い。
 ゆっくり……というのもあるが、弱すぎる。
 雨都は床に立て膝を突いて、淡雪の顔を見つめた。

 1000年の時を重ねてきたとは思えないほどの、若々しい肌に骨ばってはいるもののあどけない寝顔。

 雨都は優しく彼の額を撫ぜた。
 彼の心は静かだった。
 水面に波紋が広がるように静かで、気味が悪いくらいだ。
「雨都ねぇ、どう?」
「……省エネしてるみたい」
 視線を淡雪から逸らすことなく、雨都はぽつりと言った。
「は?」
「無駄にエネルギーを使わないように、仮死に近い状態を保っているように感じる」
「なんで、わざわざ……」
「わからないけど、そうせざるを得ないのかも」
 雨都は考え込むように首を傾げると、もう一度淡雪の額を撫でて立ち上がった。
 バタン、バタバタ……という音とともに、日向が部屋へと駆け込んできた。
 手には電子体温計。
「持ってきたけど……使う?」
 日向は息を切らしながら、雨都にそれを手渡し、淡雪の顔を覗き込んだ。
 脈を診るために布団から出した左腕を日向が丁寧に元に戻してやっている。
 雨都はしばらく考え込むように窓の外を見つめて黙り込んでいた。
 後ろで二言三言、雫と日向が言葉を交わしているのが聞えたが、内容を聞き取る余裕はなかった。

「ひなたちゃん」
「なに?」
「淡雪くん、ここ最近、体の不調を訴えたことはあった?」
 意を決して、雨都はそう日向に尋ねて振り返る。
 日向が淡雪の手をぎゅっと握りながら、雨都を見上げていた。
「……雪ちゃんは、自分では言わない人だから……」
 悲しそうに淡雪の手をさすって、日向は答える。
 雨都はしまったと心の中で思った。
 そうだ。彼がそんなに分かりやすい人なら苦労はしないのだ。
「でも……一昨日から、耳鳴りがひどいみたいだった」
「耳鳴り?」
「うん。何回も首振ったり、耳を閉じたりしてたし、倒れる前もそうだった」
「耳鳴りか……」
 雨都はそっと耳を澄ますように目を閉じた。
 別にそれで耳鳴りが聞えるとも思えなかったけれど、雨都は淡雪の心を探りながら、音を探す。

 ピー……という音を捉えた。
 微かに届いた音がどんどん大きくなっていく。
 これは……耳鳴りじゃない。
 雨都は心の中で呟いて、音の元を手繰った。
 どんどん音が大きくなっていく。
 具合が悪くなるような邪気を含んだ音が、雨都の脳を揺らす。
『……おつるいの小娘か……』
 男の声だった。

 空腹の獣が発するような殺気と、見えない鋭い眼に睨まれた気がして、雨都は急激に後ずさる。

 見つけた音も、手放してしまいそうになったが、それだけは必死に我慢した。
 目を開けると、そこには淡雪の部屋ではない、真っ暗な世界が広がっていた。

『あなたは……誰?』
 邪気を含む音が糸のように具現化している。
 その糸の先にいるであろう声の主に向かって、雨都は尋ねた。
『近しい者だよ』
『え?』
『お前たちが淡雪と呼ぶ、あの少年とも……おつるいの血を引くお前たちとも、近しい位置にある者だ。最も近いのは、お前のいとこだがな』
 嘲るように笑いながら、男の声は続ける。
『邪魔なヤツだ。つくづく、ヤツは邪魔だ。おれはあの娘を狙っていたというのに』
『ひなたちゃんのこと?』
『ヤツはおれの攻撃を全て受けやがった。無意識の内にだろうがな』

 この声の言わんとしていることを理解し、今の状況をまとめようとするとこうなる。
 男は、日向を狙い、淡雪に恨みを抱いている。
 けれど、日向へと送っていた分の邪気は全て淡雪に防がれた。
 淡雪は無意識の内に日向への邪気を自分自身に取り込み続け、その結果倒れ、 自ら仮死状態に陥ることで、無駄なエネルギーを省き、まだ戦っている。
 そして、その邪気を発しているのは十二神家に深い関わりのある人間だということ。

『どうして、2人を狙っているの?』
『…………』
 雨都の問いに男は答える意志を見せない。
 ただ、ひとり言のように言ってクックッと笑う。
『ヤツが死ぬなり、ここを去るなりするのであれば、おれは満足だ』
『そんなこと、させないわ!』
『黙れ、小娘!ヤツの罪を見落とし、ヤツを救おうとするキサマなどに、何が出来る?!』
 ビリビリという振動が雨都の脳を震わす。
 怖くないといったら嘘になる。けれど、ここで手放すわけにも、逃げるわけにもいかない。
『淡雪くんは十分、苦しんだ!これ以上、どうしろというの?!』
『ヤツはまだ生きている。ヤツはまだ笑っている!まだ足りない!!』
『生きることが幸せではないわ!笑っていれば幸せなわけではない!苦しさの中で生きること、笑うことはすごく辛くて悲しいことよ!だけど……それは尊いことでしょう?彼を放っておいてあげて! 見守って……ゴホッケホッ……』
 雨都は生きてきた中で初めてと言えるほど、思い切り叫んでいた。
 けれど、叫びかけた言葉は声にならずに咳へと変わった。
 喉が少しヒリヒリするが、咳が収まったので雨都は邪気の糸を手繰るように近づく。
 けれど、突然流れ込んできた映像で近づけなくなった。

 淡雪と日向が楽しそうに笑いあって、手を繋いで歩いている。
 雨都はその2人の背中を切なそうに目を細めて見送っていた。

『お前にだって、人に見られたくない感情の1つや2つあるだろう』
『やめて……』

 仕方ないのだと自身で納得して、雫に笑いかける自分。
 嫉妬を形にすることほど、嫌なことはないから。
 雫のように感情的になれない雨都は、人への妬みを一番嫌う。
 妬みを憧れという形にして、ただ、見つめ続けることを選んでいた。
 雫や日向みたいに、清清しくはいられない。
 自分が嫉妬を始めたら、どんなに禍々しい言葉を口にしてしまうかわからない。

『臭いものに蓋をして、できうる限り傍にいられれば満足か?それでは、お前には何も返ってこないぞ』
『やめて……!』

 雨都は必死に声を張り上げる。
 どこから出てくるのかもわからない、嫉妬する雨都の表情。
 それを振り払うように雨都は首をイヤイヤとでも言うように激しく横に振る。

『お前には何の利点もない。ヤツを元の体に戻せたとて、ヤツはあの娘と安穏として暮らすだけだ』
『それを私は望んでる……!』
『……本当にそうか?ヤツと同じ時を生きられることになっても、そう思っていられるか?今、お前が自分を保っていられるのは、ヤツを置き去りにして、あの娘が年老い、いつかは果てなくてはならない苦悩をいずれ抱えることに気が付いているからだ。もしも、その問題が解決しても、お前はそう言えるのか?』
『…………それは…………』

 雨都は、躊躇った自分に驚いた。
 なぜ、違うと言えない?2人の幸せを望んでいると言えない?
 雨都の目から涙が零れ落ちる。
 向き合いたくなかった言葉を、男がいとも簡単に口にした。
 本当は……雨都だって、どうしようもないくらい、淡雪に惹かれている。
 何か、大胆なことを言われるわけでも、情熱を発揮されるわけでもない。
 それでも、淡雪の言葉の1つ1つが、雨都の心に触れ、震わす。
 あの雨の日に手にした、温かく輝く雪の欠片のように、雨都を包んでくれる。
 それをもっともっと欲しいと、言いたくても言えない自分。

『ごめん……なさい……』
 雨都は誰に言うでもなく、そうこぼした。
『お前に、おれの邪魔をする資格はない』
 冷たい男の声が、雨都の心にヒビを入れた。
 胸を押さえて、苦しそうに雨都は顔を歪める。

 その時だった。
 以前、見た光景が……目の前に広がった。
 光り輝く雪が、しんしんと降り積もる。
『……タケルか……あと一歩で、取り込めたというのに。仕方ない。引くか……』
 雨都が手にしていた邪気の糸が、どんどん細くなって、うっすらと見えなくなって消える。
 雨都は雪を見上げ続ける。
 その雪は、まるで自分を慰めてくれているようだった。


 そこで、雨都は淡雪の部屋へと意識を戻した。
 一体どのくらい固まってしまっていたのだろう?
 窓の外を見ると、日は傾き、山へと帰ろうとしているところだった。
 雫も日向もベッドに顔を突っ伏して眠ってしまっていた。
 雨都は淡雪の様子を見ようと、ベッドに目をやったが、そこには淡雪の姿がなかった。
 そういえば、雫にも日向にも、薄手のブランケットが掛けてある。
 そんな気配りを見せるのは、たった1人しかいない。
 雨都はキョロキョロと、部屋を見回した。
「……?淡雪くん?」
 雨都の声だけが、虚しく部屋の中に響いた。

 不安になって、雨都は部屋から一歩踏み出す。
「書記長」
 階段を上がってきた淡雪が、穏やかに笑みを浮かべた。

 その笑顔を見てほっとしたが、雨都は言葉が出てこない。

 ギリギリのところで淡雪がシャットアウトしてくれただけで、打ちひしがれている状態には違いないのだ。

「ひなが起きたら、これを飲ませてあげてほしいんだ。まだ、風邪、治ってないみたいだから。葛湯なんだけど……」
 湯気を立てている湯のみの乗ったお盆を雨都に手渡してくる。

 雨都は首を傾げた。
「自分で、渡せば?」
 やっとのところで、言葉を口にする。
 淡雪は穏やかに目を細めると、
「ちょっと、母さんに買出し頼まれちゃったから」
 と答えを返してきた。

 雨都は納得したように「わかった」と答える。

 淡雪は優しく雨都の頭を撫でると、
「気にしちゃ駄目だよ?」
 と言い、タンタン……と階段を下り、外へと出て行った。
 雨都はドアが閉まるのを見届けてから、部屋へと戻る。

 その後、日向が起きるのを待つために、雨都は部屋にあった文庫本に勝手に手を伸ばした。

 第1章を読み終わる頃に玄関のドアが開く音がして、
「ただいま〜」
 という雪乃の声が聞えてきた。
 雨都はそこで首を傾げる。
 淡雪が買出しを頼まれたと言っていたから、1階にいるものだと思っていたのだ。

 雪乃の声で、日向と雫が目を覚ます。
「うぅん……よく寝たぁ……」
 日向が気の抜けた声で伸びをする。
 雨都はすぐに少しぬるくなった葛湯を日向に差し出す。
「ひなたちゃん、飲まない?」
「え?いいの?」
 日向がきょとんとして、首を傾げる。
「うん、淡雪くんに頼まれたものだから」
 雨都は精一杯の笑みを浮かべてそう返したが、日向は更に首を傾げる角度を大きくした。
 雨都はその様子を見て、訳がわからず唇を噛んだ。

 葛湯をすすりながら、日向が呟く。
「淡雪くん……って、誰だっけ?」
 と。

 雨都と雫は驚いたように顔を見合わせる。
 それからいくら待っても、淡雪は水無瀬の家には戻ってこなかった。
 そうして、1週間過ぎ、2週間過ぎ……2学期が、始まろうとしていた。



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