第34章  失くさない。それが約束だから


 日向は海岸沿いの防波堤の上をバランスを取りながら歩いていた。
 波の音が耳を揺さぶり、風が日向の髪を揺らす。
 髪留め用のゴムを外して眠りこけ、その後、面倒だったから結わずに帰ってきた。

 なんとなく、海へ足を向けてしまったのは……彼の夢を見たからだ。

 雨都に揺り起こされて、日向は目を覚ましたけれど、一緒に帰ろうか?という雨都の誘いを、珍しく断った。
 そういう気分には、なれなかったのだ。

「……疲れたなぁ……」
 日向はポツリと呟く。
 海からの風にスカートがフヨフヨとなびいた。
 日向は右手に持っていたトートバッグを下ろして、ペタンと腰を下ろす。
 防波堤の上から見る海は、ちょっとだけ角度が違くて、景色も違って見える。
 普段の自分の目線の高さ×2である。
 そりゃ、景色も違う。

 スカートのポケットからゴムとヘアピンを取り出す。
 赤と黄色。
 この色は……淡雪が選んでくれたものだ。
 「ひなに似合うよ」と、照れながらも彼は笑ってそう言った。
「…………」
 日向はぼんやりと手の中にあるそれを見つめる。
「雪……ちゃん……」
 ぽつりと、呟いた。

 涙が零れ落ちる。
 大きな目からポタポタと零れた雫が、手の平を叩いた。
 嗚咽を漏らして、肩を震わし、大きくしゃくりあげる。

 残暑は厳しくとも、夏休みの過ぎ去った海岸は静かだった。

 空だけが、日向の傍にある。

 波の音が、日向の声を掻き消してくれた。

 風が日向の髪をサラサラと撫で、日向の頬を通り過ぎていく。

 まるで、なぐさめてくれているようだった。

「雪ちゃん、雪ちゃんがいなきゃ、あたし、この髪型にしてる意味ないよぉ……!」
 情けない声で、日向はそう叫んだ。

 この髪型を教えてくれたのは安曇だった。
 けれど、似合うよと笑いかけてくれたのは淡雪だった。
 だから、その淡雪がいなくては、意味などない。
 意味なんて、ない。
 日向にとって、淡雪が全て。それは自明の理だ。

「どうして……?どぅして…………こんなのって、ないよ」
 涙声で呟き、ヘアピンとゴムを叩きつけた。
 軽い音を立てて、ヘアピンが弾んで転がっていく。
 一転、二転、三転……。日向は自分で投げたにも関わらず、慌てて追いかけた。
 ヘッドスライディングでもするかのような体勢で、ヘアピンを掴む。
 ゴムは胸の下で変形していた。すぐに拾い上げる。

 制服についた砂を払いながら、体勢を元に戻して、スカートのポケットに入れ直す。

 やっと、届いたのに。
 やっと、好きだよと言ってもらったのに。
 やっと、彼とキスできたのに。
 やっと……やっと……やっと…………。

『ひなは……いつも、一生懸命だから。いつも、お前の笑顔に勇気づけられるんだよ。ああ、あとちょっとだけ頑張ろうって。僕は……ここに居てもいいんだなって……』

 ある、晴れた日を思い出した。

 彼は言ったのだ。寂しげに瞳を震わせて、そう言った。
 だから、日向は返したのだ。
『どうして?居ていいに決まってるじゃない。ここは、雪ちゃんの居場所だもん』

 そう。
 ここは、彼の居場所なのだ。
 日向の隣。安曇の隣。雨都の隣。水無瀬の家。高校。この町。
 全部、彼の居場所だ。
 彼がいつも笑って、いつでもみんなを気に掛け、彼が築いてきたものだ。
 力とか、体とか、そんなのどうでもいい。
 それは本当のことで、嘘なんかじゃない。
 自分で築いた幸せを、人に壊されることが……あっていいものか。

 ささやかでいい。

『雪ちゃんは、ただ穏やかに笑って、そこに居てくれればいいんだよ?あたし、それだけで安心できるんだから』

 ……ささやかでいいのだ。

 日向の幸せは、人に言わせれば、その程度かと言われるようなものだろう。
 でも、それでいい。
 彼が、笑ってさえいてくれれば、それだけでいい。

「それだけでいいのに……。どうして、笑顔でサヨナラなんて言うの?」
 日向はバッグからハードカヴァーの本を取り出した。

 淡雪の机に残っていたものだ。
 3年前、名古屋の街まで出た時に、彼が買った唯一のもの。
 相当、欲しかったらしく、見つけた時の彼の目の輝きは今でも忘れられない。

 日向は本を抱き締めると、目を閉じ、静かに、彼がいなくなった日へと遡る。



 いつの間にか眠ってしまった日向の頭を、誰かが優しく撫でてくれたのを感じて、日向の意識は急速に覚醒へと向かった。
 誰なのかを考えるまでもなかった。
 その、不器用なほどにぎこちなく、それでもワレモノに触れるように優しい、手の持ち主は1人しかいないから。
 日向は淡雪が意識を取り戻したのだと思うと、嬉しくて飛び起きてやろうかと思ったけれど、彼があまりに優しく撫で続けるから、起きるに起きられなかった。
 突っ伏したまま、考えた。今、彼はどんな表情で自分の頭を撫でてくれているのかを。きっと優しい目をして、自分を見てくれているに違いない。
 淡雪が目を細めているところを想像して、気が付かれないようにほくそえんだ。

「……ひな……」

 いきなり、名を呼ばれてドキリとした。
 まさか、自分が目を覚ましていることに気が付いていたのだろうか?
 けれど、淡雪はそんな様子を見せることなく、ポツリポツリと呟く。

「ごめんな。……また、こんなことしなくちゃいけなくて……」

 苦しそうな声だった。
 笑って撫でてくれていると思ったのに、その声は涙声だった。
 日向は訳がわからず、突っ伏したままで目を開けた。
 けれど、頭に暖かいものが広がって、せっかく目を覚ましかけていた日向をまたもや眠りに誘う。
 必死にまどろみを振り払う日向。
 抵抗虚しく、体の力が抜け、気が付くと夢の中だった。


 淡雪と手を繋いで歩く夢だ。
 淡雪が楽しそうに笑っている。
 だから、日向も自然と笑顔になった。
「ねね、雪ちゃん、雪ちゃん!」
「なんだい?ひな」
「また、名古屋まで出よっか?今度はあたしの買い物ばっかりじゃなくって、雪ちゃんの見たいところももっと回ってさぁ」
「そうだね。でも……」
「でも?」
 不思議そうに首を傾げる日向に対して、淡雪は穏やかに目を細めて優しい声で言った。
「ひなの買い物を見ているの、楽しいからいいんだよ、僕は」
「むぅ……また、そゆこと言う……。ダァメ!楽しいわけないじゃん、そんなの!」
 日向は淡雪の言葉を首を横に振って否定した。

 淡雪が困ったように笑う。

「本当に楽しいのに」
「……他人の買い物なんて、楽しくないよぉ」
 唇をとんがらせる日向の顔を見て、淡雪はクックッと笑った。

「……百面相」
「え?」
「買おうか買うまいか、あ、でも、お金が足りないなぁ……。これも欲しいけど、あたしはこっちの色、合わないんだよなぁ。ため息、ため息」
 突然、1人芝居を始めた淡雪を見て、日向はきょとんとして、淡雪を見つめた。
 淡雪はおかしそうに笑う。
「こういうこと、考えてるんだろうなって、想像できるくらい、顔が変化するんだよ。……だから、楽しい。それに、僕の見たいところじゃ、ひなは退屈だろう?」
「う……で、でも、雪ちゃんが見たいなら、あたしはいくらでも……」
 しどろもどろで言葉を搾り出す日向の頭に淡雪が手を乗せた。

 優しく撫でてくる。
 顔が近くて、日向は顔を赤らめた。けれど、淡雪の目を見つめようと見上げる。
 そこで、淡雪がどこか遠くを見ていることに気が付いた。
 日向も視線の先を追って、振り向いた。
 特に、何もない。
 建ち並ぶ家々の間から海が見えるだけだ。
「どうしたの?」
 首を傾げたまま、体を元に戻す。

 淡雪はまだ海を見つめている。
 眼差しが、どこか翳りを帯びているような気がして、日向は不安になる。
 日向が表情を曇らせたのに気が付いて、淡雪は取り繕うように笑った。

 そして、覚悟を決めたように真剣な表情で話し始めた。
「ひな。僕とは、前にも会っているんだけど、覚えている?」
「え?何言ってるの?雪ちゃん。いつも、会ってるじゃない」
 日向は状況が飲み込めなくて、首を傾げる。
「ううん。現実じゃなくて、ここで、君は僕と会ったことがある。……景色を、変えれば分かるかい?」
 淡雪がそう言った瞬間、周囲の景観がグニョリと歪んで、あっという間に夜闇の中の竹林に変わった。

 日向はあまりの暗さに怖くなって、淡雪の袖を握った。
 きょろきょろと見回す。
 見覚えは……あった。
 以前に溺れて意識を失った時に見た夢で、この景色を見た。
 変な男が出てきて、獣に噛みつかれそうになったところを、淡雪が助けてくれた。

『僕は……君の中の僕。だから、淡雪であって、淡雪ではないんだよ』
 あの時に聞いた最後の言葉を思い出した。
 日向は淡雪を見上げる。
 この前、日向が熱を出した時も出てきた。
 日向の好きという気持ちがなくなったら、自分はここにいられないんだよと、口にした。
 彼は、淡雪であって、淡雪でない……日向が作り出した、淡雪。

「思い……出した?」
 淡雪の言葉に日向はコクリと頷く。
 淡雪は安心したように笑うと続けた。
「それなら、話が早い。唐突だけど、現実の僕が、君の中から僕を消そうとしている」
「え?」
「記憶を全て消して、どこかに行こうとしている」
「嘘……?」
「残念ながら、嘘じゃない。そこでね、君に選んで欲しいんだ」
「選ぶ?」

「うん。あのね、僕は、消えないことも出来る。君が記憶を失くしても、君を護るためにここにいることが出来る。だけど、君は、これから先、現実の僕に会わない限り、淡雪という人間がいることを認識せずに過ごすことになる」

 そこで少しの間、淡雪は日向を見つめた。そして、また話し始める。

「もう1つの選択肢はね……僕は君の中から完全に消えるけど、しばらくしたら、君は淡雪のことを思い出す。記憶を一切失わない。だけど、君に何かあった時に、もう僕は護ってあげられない」

「…………」

「僕はこのまま黙って消されるのは嫌だし、君自身、記憶を消されるなんて不本意だと思うんだ」

 日向は黙り込んだまま、淡雪のことを見上げるだけ。

 淡雪はそこで笑った。
「僕は、君が作り出したものだから、君の意志を尊重する。これから先の危険のために、僕を残すか……それとも、僕を犠牲にして、記憶を保つか。まぁ、ご主人様の選択なんて、もうわかってはいるのだけど、一応質問させてもらったよ」
「……1つ訊いていい?」
「どうぞ」
「雪ちゃんは、どうして、いなくなろうとしているの?」
 その問いを聞いて、淡雪の表情がまた真剣なものに戻る。
「淡雪の幸せを、望まない者がいるようだね。君も知っているだろう?最近、この町でやたらと急患が多いこと」
「……うん」
 日向は母親が以前言っていた、中高生の急患患者の話を思い出して頷いた。

「あれは、以前、僕が闘ったあの男の仕業だよ。君は……自覚していないけど、結構な頻度で狙われていた。君は、淡雪の……幸せの象徴みたいなものだからね」
「…………あのさ…………」
「ん?」
「雪ちゃんは、あたしのせいで出て行くの?」
「……君のせいとは言い難い。それは本当だから、君が気に病まないで欲しい。これは、淡雪の性格の問題だよ」
「戻って……来るのかな?雪ちゃんは」
 日向は唇を噛み締めてそう尋ねた。

 淡雪は困ったように頭を掻く。
「君が作り出した僕なら、戻るだろうね。ここは、淡雪の居場所だ」
 日向は拳を握り締めて、顔を上げた。
「信じていい?その言葉!」
「信じるのは……君の心だよ」
「え?」

「僕を作り出した、君。君の心が、どれだけ淡雪の本質を見ていたか。僕は淡雪とイコールなところもあるけど、イコールでないところもある。信じるしか……ない。断言できなくて、すまないけれど」
 淡雪は目を閉じて、胸に手を当て、頭を下げてきた。

 日向はその姿を見て、迷った。
 選ぶのは自分。
 先ほど、淡雪が言った選択を選び取らなくては、どちらも残らない。

「さぁ、選択の言葉を」
 淡雪が目を開いて優しい声で言った。
 日向はキュッと唇を噛んだ。

 淡雪の姿が薄くなり始めた。迷っている余裕はないのがわかった。

「……って……」
 微かに出た声は言葉を紡ぎはしなかった。
「ん?」
 淡雪が確認するように日向の顔を覗き込んでくる。

「……あたし……の記憶、護って……」
 小さな声で必死に発した言葉。
 淡雪が目を細めて笑った。
「うん、仰せのままに」
「ごめんなさい」
「いいんだよ。君はそう言うと思っていたから。君はきっと辛いと思うけど、どうか、挫けないで。応援、しているよ。また、名古屋に行こう」
 淡雪の姿がどんどん薄くなっていく。

 日向は何度も何度も頷いて、消えてゆく淡雪を見つめた。
 淡雪がそっと日向の頬を撫でた。
 いつの間にか伝っていた涙を拭ってくれたのだと自覚するまで、結構な時間が必要だった。



 日向は夢から舞い戻った。
 まだ、微かに淡雪の記憶が残っていた。
 背中に、そっと何か布団のようなものを乗せられたのを感じたけれど、眠気に勝てず、目を開けることは出来なかった。

「さよなら」

 淡雪の声が耳元でした。

 その声の感じから、淡雪がいつも通り、穏やかな笑みを浮かべていると、長い付き合いの日向は感じた。
 涙が溢れてくるのを感じたけれど、日向は淡雪を止めるために体を動かすことが出来なかった。



 5時を報せる鐘の音で、日向はふっと我に返った。
 夏服で長い時間潮風に当たっていたせいか、肌がすっかり冷えてしまっている。
 日向はバッグに本をしまい立ち上がった。
 足に痺れを覚えたけれど、そんなのには構わずに防波堤から飛び降りる。
 スカートが思いっきり翻ったけど、人影などどこにもないから構わなかった。
 見事な着地を決めて、
「挫けないって約束だもんね」
 と決意をしたように呟き、笑う。
 涙の跡をゴシゴシとこすり、すぐに水無瀬家を目指して駆け出した。



第33章 ← → 第35章
トップページへ戻る


inserted by FC2 system