第35章  信じたいけど、答えがない
信じたくないけど、証がない



 安曇は階段を駆け下りると、昇降口の下駄箱からスニーカーを取り出した。
 悔しくて仕方がなかった。
 自分がこんなに情けないなんて、思っていなかった。
 淡雪に、記憶を消したと言われ、日向の寝顔を見た瞬間、危うく自制心を失うところだった。
 もしも、日向が淡雪の名を口にしなかったら、自分は一体何をしていただろう。

 窓から日が射す教室で、1人机に伏して眠る少女。
 ただ想う人の夢を見て、声には悲しみが溢れていた。
 淡雪の名を口にされた瞬間、自分の心に湧き出てきたのは、想像もしていなかった嫉妬心だった。

「雪の……バカヤロ……」
 安曇は自分の頭を掌底で叩き、スニーカーを乱雑に地面に落とした。
 右と左が、全然違う位置へと弾んで止まる。
「ああ、メンドクセェ」
 自分でやったにも関わらず、イライラを隠せずに安曇は下駄箱を蹴った。
「おやおや、誰ですか、下駄箱を揺らすのは……」
 下駄箱の向こう側から気の抜けた声がして、安曇は舌打ちを軽くした。
 さっさとトンズラしようとして、右左構わずに靴を履く。

 面倒ごとは嫌いだ。
 さっさと逃げるに限る。
 けれど、昇降口を飛び出す寸前で、腕を掴まれた。
 不機嫌な顔で振り返ると、そこには優顔で細面の副担任が立っていた。
「志筑君ですかぁ?今の……」
「イヨカン……だっけ?」
   八朔の言葉を切って、安曇はどうしても思い出せないという顔で、彼の名前であろう言葉を発した。
 八朔が目を眼鏡の向こうの涼やかな目をパチクリさせる。
 そして、おかしそうに笑って、
「惜しい!」
 と叫んだ。
 何が惜しいのかはわからないが、こんなとろそうな教師に自分が捕まったのかと思うと、虚しさがこみ上げてきた。
「いやぁ、非常に惜しいですよ。ぼくはハッサク……あ、正式にはホズミというんですけどね。でも、まぁ、愛称というのは嬉しいのでね、いいんですよ、柑橘系で」
 別に安曇は興味もないことなのに、親しげな口調でポンポンと肩を叩いてくる。

 正直、安曇が一番嫌う系統の人間だ。

 安曇は触られた肩をパンパンと払い、
「下駄箱蹴ってすいませんでした。次からはしないので見逃してください」
 と棒読みで言ってやった。

 こんなヤツに付き合っている場合じゃない。

「あ、別にね、下駄箱なんてどうでもいいんですよ。あんなぼろっちぃ下駄箱はさっさと新調するに限ります。気が向いたら、また蹴ってやってください。ただね……」
 教師らしくないことをポンポンといいテンポで抜かした後で、ずれてきた眼鏡を直す八朔。
「向かい側に人がいたら危ないので、それだけは気をつけてくださいね。ぼくも、今日が命日かと思ってハラハラしましたから」

 安曇はその言葉にキョトンとした。
 眼鏡をかけ直しながら、真剣な顔で言ったのがそれですかと、突っ込みたくなる状況だった。
 けれど、安曇は適当に頷いて、腕を振り払おうとした。
 人に突っ込む余裕は、現在残念ながら持ち合わせていなかったのだ。

「すいません、センセイ。手、離してもらえません?」
 棒読みで言う安曇。

「まぁ、そう邪険にしないで下さいよ。こっちだって、水無瀬くんがいなくなった分、大変なんですから」
 その言葉で、安曇は振り払おうと上げていた手を止めた。

 自分より低い位置にある八朔の目を睨む。
 なぜ、この教師が覚えているのかと思ったのだ。
 先程の日向の件もあって、淡雪の記憶変換能力がヘッポコなのではないかとさえ考える。

 八朔はなんでもないように話し続ける。
「全く、記憶を消すにしても、彼は委員長だったんですから、責任持って欲しいですよね。副委員長だった希(ねがう)さんが委員長で、書記だった志筑くんを副委員長ということで、無理やりまとめさせてもらいましたけど、この年になって、まさか、教室の張物を自分が書くことになるとは思いませんでしたよ」
「……テメェ……」
 安曇は八朔の襟首を締め上げて、壁にたたきつけた。
 身長差が10センチほどあるうえに、相手は細身だ。
 それはとても容易なことだった。

 勘のいい安曇はすぐに感じ取った。
 この男が、淡雪が消えなくてはならなくなった原因を作った人間。

 こんな天然ボケみたいな顔をした男が、淡雪を追い詰めたのかと思うと、腹が立って仕方がない。

「ケホッ……苦しいですよ、何するんです?」
 八朔は安曇の腕から逃れるように身をよじらせている。
 安曇は力を弱めずに、更に締め上げる。
「ずいぶんと高みの見物を決め込んでたもんだな。こんなに身近にいて、よくとぼけてたもんだ」
「はて、何のことでしょう?」
「いいか、はじめに言っておくぞ。おれは人を殺そうと思えばいつでも殺せるし、犯罪者になるとかそういうことに何の躊躇いもない。そのうち、背中から誰かに刺されて死ぬんじゃないかとも思ってる。そのとぼけた口調やめねぇと、本当に殺すぞ」
 しらばっくれるように話す八朔に、安曇は凄んでみせた。

 安曇の言った言葉は全く嘘がない。
 社交性0。面倒ごとが嫌い。淡雪がいなかったら、こんなまともな高校生活を送ってなんていなかった。

「お前、どういうつもりで……」
「やれるもんなら、やってごらんなさい」
 八朔はニッコリ笑ってそう言った。
 そして、目を細めて悪意のこもった目で続けた。
「わからないんですか?ぼくがまだここにいるってことは、水無瀬くんは無事じゃないってことですよ」
「なっ!」
 安曇は八朔を壁から離して思いっきり殴りつけた。

 八朔の体は簡単に吹っ飛び、眼鏡が宙を舞う。
 カンカンカン……と軽い音を立てて、地面を跳ね続ける眼鏡。
「最近の眼鏡は便利ですねぇ。ヒビさえ入らない」
 八朔は口元から垂れてきた血を拭いながら、眼鏡を拾い上げた。
 安曇はその悠長な立ち居振る舞いに腹が立って、八朔の腹を蹴り上げようとしたが、それよりも早く、安曇の体が倒された。
 何が起こったのかわからず、天井を見上げる安曇。

「こんなところで騒ぐものじゃありませんよ。ぼくも教師だから、生徒を殴るわけにもいかないのだし」
 眼鏡を掛けると、安曇の顔を覗き込むようにしゃがみこんできた。
 安曇は奥歯を噛み締めて八朔を睨みつけた。
 どういう了見かわからないが、体が動かなかった。

「水無瀬くんね、ぼくが出て行ったら、相当動揺されてましたよ。優しい良い子ですね。消すには勿体無かったかもしれません」
「この……!」
「せっかく、彼が護ろうとしたものなんでしょう?ことは荒立てないに限るんじゃないですか?ぼくは、きみさえ何もしてこなければ、これから先は手を出しませんよ、『あの子たち』には」
 せせら笑うように八朔は安曇を見下して、そう言うと立ち上がった。

 安曇は見上げて吼える。
「だったら、なんでおれにそんなこと言いやがった……!」
 すると、八朔は不敵な笑みを浮かべて返してくる。
「わからないかなぁ。追ってくるものがいなくてはつまらないじゃないですか。どんなに弱い者でも、自分に背徳感を与えてくれる存在が、必要なのでね。出来るものなら、狙ってみてください、ぼくの命。ぼくの仕事は、もう終わってしまったのでね。鬼ごっこ、しましょう。ただし、人質ありの、ぼく優位のゲームですけどね」
 クックッと笑い声を最後に、八朔は階段を上がっていく。
 安曇は追いかけようとしたが、体が動かず、どうすることも出来なかった。

 それから数分して、雨都が階段を下りてきた。
 まだ、動けずにいた安曇を見て、雨都が驚いたように目を見開いて、駆け寄ってきた。
 助け起こすようにそっと背を押してくれる雨都。
 不思議なことに、彼女に触れられた途端に、体の自由が利くようになった。
 すぐに立ち上がると、雨都が上目遣いで見上げて心配そうに尋ねてきた。
「こんなところでどうしたの?志筑くん」
「あ?いや、ちょっと、……この床は冷たくて気持ち良いなと思ってな」
 とりあえず、安曇は取り繕う。
 言えるはずはなかった。
 今、聞き知った情報を、淡雪に惚れていた雨都に告げるのは酷なこと過ぎて、何も言えなかった。
 それ以上に、打ちひしがれている自分がいる。

 淡雪が……死んだ?
 もう、戻ってこない?

 そんなはずはないと必死に言い聞かせながらも、安曇は心の底から湧き出してくる不安を消すことが出来ずに、床へと視線を落とした。

 その時、雨都の腕からするりとバッグが抜け落ちた。
 ドサッと重たそうな音を立てて、バッグの中から、厚手の本と小さなペンケースが飛び出してくる。
「おいおい、何やってるんだよ……」
 安曇は呆れたように呟くと、屈みこんで、飛び散ったものをひょいひょいと拾い上げていく。
 けれど、落とした本人は一向に拾おうとする気配を見せない。
 安曇は不思議に思って、雨都を見上げた。
 雨都の表情は凍りついていた。
「おい、お嬢さん、どうした?」
 安曇は驚きを隠せずに体勢を元に戻して、雨都の顔を覗き込む。
 雨都は泣きそうな顔で呟いた。
「う……そ……でしょ?」
「は?」
「冗談……よね?」
「だから、何が?」
 雨都の言いたいことがわからずに、表情をしかめる。
 雨都は安曇の胸のあたりを見つめて、唇を噛み締めた。

 沈黙が流れる。
 下駄箱の近くの壁にかかっている時計の音がカチコチと響く。
 気持ちが悪くなるような間だった。

「淡雪くんが死んだなんて、嘘、でしょ?」

 声は大きくなかった。
 けれど、それを言われた瞬間、安曇は何かに殴られたような衝撃を感じた。
 どうして、雨都がそのことを知っているのか。
 ただ、目を見開く。それしかできなかった。

「嘘……だよね?」

 雨都はそう呟くと、逃げるように昇降口から出て行ってしまった。
 安曇は頭をグシャグシャと掻く。
「それは、こっちが訊きたいんだ、クソ!!」
 安曇は下駄箱を再び蹴飛ばす。
 何かに当たらないとどうしようもないくらいのストレスが、心の中にあった。

 悲しいんだか、悔しいんだか、腹が立っているんだか、それが全然わからずに、ただ目の前に突きつけられた現実を、もう一度考え直す。
 そして、ポツリと1人ごちた。
「信じねぇ……信じねぇからな、雪」
 拳を強く握り締めて、淡雪が最後に見せた笑顔を思い返した。



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