第36章  作りすぎたご飯の虚しさ


 雨都は早足で昇降口を抜け出した。
 先ほど、聞き取った安曇の心の声を思い返す。

『雪が、死んだかもしれないなんて、言えない』

 思い返しただけで、動悸が激しくなった。

 あの日、自分が淡雪の心の声を聞き逃さなければ……。
 あの日、自分が淡雪を止めていたら……。
 あの日、自分が、あの男の言葉に負けていなければ……。

 こんなことにはならなかったかもしれない。

 雨都が聞いた、淡雪の最後の言葉は『気にしちゃ駄目だよ?』だった。
 まだ、頭を撫でられた時の感触を思い出せる。
 まだ、あの時の彼の優しい眼差しを思い出せる。
 それなのに……。

「嘘って、言って……誰か……」
 雨都はフラフラと歩きながら、公園への道を選んだ。

 海を見下ろせるこの公園は、今年の春休みに雨都が初めて淡雪を間近で見た場所だ。
 すれ違うのではない。
 近くで見つめられるだけの間があった。
 淡雪が雨都に何かを話しかけようとしてきたけれど、雨都は言葉を交わすのが怖くて、すぐに逃げ出した。
 思えば、あれが始まりだったのかもしれない。
 日向が声を掛けてくれて、いつの間にか仲良くなって、いつの間にか彼の隣が当たり前になった。

 罪の意識を、友情に変えられたのも、恋心に変えられたのも、彼の何気ない優しさのおかげだ。

 助けなければならないのは雨都のほうなのに、助けられたのはいつも雨都だった。

「ねぇ、淡雪くん、私、まだなんにも返してないよ」
 はらりと、雨都の頬を涙が伝った。
 ドクンドクンと、脳が脈打つ。
 吐き気がこみ上げてきた。
 雨都は必死に首を振って、それを振り払う。
「駄目だ。これじゃ、淡雪くんが死んだみたいじゃない……」
 冷静にそう呟く。
 公園を通り抜け、階段を早足で下りてゆく。
 さすがに始業式の日の放課後は、生徒も歩いてはいない。

 普段の雨都を思い出さなくてはならない。
 確証がないものを鵜呑みにすることは、一番やってはいけないことだ。
 淡雪の遺品が届いたわけでも、死体を発見されたわけでもない。
 それに、安曇の心の呟きを微かに聞き取っただけのことだ。
 それを信じて取り乱していてはいけない。
 こんなでは雫に笑われるのがオチだ。
 雫は昨日、雨都を心配しながらも最終の電車に乗って帰って行った。
 「しばらく、雨都ねぇの飯が食えないね」などと、朗らかに笑って、最後にそっと、愛用していた野球帽を頭に乗せてくれた。

 わかっているのだ。
 思いつめるのが悪い癖なのは……。
 けれど、うまくバランスが取れない。
 どんなに振り払っても、後から後から、出てきてしまう。

 淡雪が死んだ?
 雨都が淡雪を止められていたら、こうはならなかったはず。
 自分が嫉妬心になど負けてしまわなければ、淡雪はこの町を去ろうとなど考えなかったかもしれない。
 繰り返し繰り返し……それはどうしようもないジレンマ。
 もう、過ぎてしまったこと。

 雨都は階段を下り終え、わずかに残る熱気と海から吹き上げてくる冷気を感じながら、白い塀の角を曲がった。
 バッグを持ち直して肩に掛け、重いにも関わらず、なんともないように良い姿勢で歩いていたら、水無瀬の家の前で雪乃に会った。
 雪乃は相変わらずの活気ある笑顔で雨都に話しかけてきた。
「あ、ちょうどよかったぁ。えっと……十二神さん……だったかな?ひなちゃんのお友達の」
「はい。どうかしたんですか?」
「ん?あのね、あなた、確か一人暮らしだったろう?」
「はい、そうですけど……」
 雨都は首を傾げて、雪乃を見上げる。
 性格は全然淡雪に似ていないけれど、スラリと背が高いところと面差しの柔らかさは似ているような気さえした。
 血など繋がっていないのに、なぜかそう雨都は思った。

「いやさ、ご飯作りすぎちゃってねぇ……。旦那と私と、ひなちゃんで3人分なんだけどさ……。私、分量計算だけは自信があるのに、最近、やたらと多く作っちゃうんだよね」
「はぁ……」
「なんだかねぇ、誰かのために用意してる気もするんだけど、そんな人いないし」
 雪乃はほんの一瞬、寂しそうに目を細めると、雨都の肩をポンポンと叩いて続けた。
「それで、よかったら、食べていかないかなぁと思ってね。勿論、無理にとは言わないけど、ひなちゃんもあなたなら喜ぶだろうし。あっちゃんを呼んだ時、すごく怒られちゃってね。見てるほうは楽しかったんだけど、ひなちゃんがグテッとなっちゃって」
「ああ、そうですね。……じゃあ、お言葉に甘えていいですか?」
「ああ、こっちが誘ったんだしねぇ」
 雨都の言葉に嬉しそうに雪乃が笑う。
 雨都も目を細めて笑い返した。

 なんとなく、感じ取った。
 記憶は消えても、体が覚えた感覚は彼女の中で消えてないのだと。
 雨都自身、昨日の夕飯は作りすぎたからわかる。
 よく食べる雫に合わせて作ったご飯。
 喜んでくれるように味を工夫した料理。
 向かい側には雫がいて、おいしいと笑いかけてくれる。
 けれど、それはすぐに幻だとわかって、屋敷の中には静寂が流れる。

 毎度のように4人分の料理を作って、その料理の味は、きっと淡雪の味覚が好むものだったはず。
 彼がいた頃とは違う賑わいの食卓。
 1人で夫の帰りを待つ、静かな時間。
 それに……違和感を感じないはずがない。

 雨都は通された台所で黙りこくって、そんなことを考えていた。
 勧められるままに座った席は、たぶん、淡雪がいつも座っていた席。
 忙しなく、雪乃は洗濯物を取り込んでたたみ始めた。
 雨都はぼんやりとその様子を見ていた。
 鼻唄混じりで、テキパキテキパキとこなしてゆく雪乃。
 これが、日向が憧れる淡雪の母親。

「どうかした?十二……あ、ね、雨都ちゃんでいいかい?どうも、堅苦しいのは苦手なんだよ」
「あ、はい。お好きなように」
 ひたすら、雨都のことを『書記長』と呼び続けた淡雪の母親とは思えなくて、 雨都の塞ぎこんでいた気持ちを、少しだけ明るくした。
「雨都ちゃんはさ、1人暮らしってことだけど、大変じゃない?」
「え?」
「私はね、結婚して、少しの間はシェフ続けてたんだけど、色々と大変になってきちゃって、結局辞めちゃってね」
「……おばさまはシェフを……?」
「あ、そうそう。これでも、元シェフ。だから、作りすぎるとか……ちょっとショックだったりね。鈍ったのかと心配になって」
「その心配はないです」
 雨都は慌てて返した。

 4人分、作り続けて欲しかった。
 そうしていれば、また淡雪が戻ってくるような気がして。
 雨都は目線を雪乃から外して、また考え始めた。

 思いつめるのが自分の悪い癖で、核心を突かれると黙り込んでしまう。
 だからこそ、こうして考え込んでしまう時は笑うようにしようと思った。
 それは朗らかな日向の存在も大きいが、今、雪乃を見てそう感じたのだ。
 笑うことで本題が解決するわけではない。それでも、まだある可能性に目を向けることは出来ると思うのだ。
 それが、これまで結果を先読みして、物事から逃げてきた雨都が出来る唯一のこと。

 楽観視はできない。淡雪はいないから。
 あの日、雨都の目の前から、笑顔を振りまいて消えたまま、戻ってこない。
 けれど、悲観視もしない。
 冷静に物事を見つめること。
 それが、十二神雨都としての仕事。
 常に、第三者としての立場にいなくては。
 淡雪の家族を見て、考え直す。立ち止まって、暗くなっている場合ではないのだ。
 事実を知っている人間が弱っていては、何も前に進まない。

 自分の感情をなんとかなだめすかす。
 淡雪は言った。気にするなと。
 気にしないで日向を守ってあげてほしいと、きっとそう言いたかったのだ。
 妬みの対象が日向であることを感じ取りながらも、雨都であるならと。
それは信頼の証。それを裏切ることは出来ない。

「優しいけど、残酷な人ね……」
 雨都は困ったように目を閉じて、そっと笑う。
 誰にも聞えないほどの小声だった。
 誰に言うでもない言葉。

 憶測に過ぎない。
 けれど、彼はあの状況を察しながらも、自分に対して答えをくれなかった。
 何も言わずにあの笑顔で……去っていった。
 人は卑怯者と呼ぶかもしれない。
 それでも、雨都にはそれが正しい答えのような気がした。

「ゆっきのさぁぁぁぁん!ご飯戴きに来ましたぁ!」
 日向の元気いっぱいな声が聞えて、雨都は我に返る。
 バタバタと足音をさせて、台所へ駆け込んできた。
 息を切らせ、日向は先程会った時と同じように、髪を下ろしたままの姿で笑っている。
「あれ?うっちーだ。どうしたの?」
 雨都の姿を見て、日向は不思議そうに首を傾げた。
 雨都が答える前に雪乃が返す。
「今日も作りすぎちゃったから、夕飯誘ったんだよ」
 その言葉を聞いて、日向の表情がぱぁぁっと更に明るくなった。
「え?じゃ、今日はあっくんじゃないの?!」
「うん。ひなちゃんがあんまり嫌がるからね」
 嬉しそうな日向を見て、雪乃が苦笑した。
 日向はそんなのには気が付かずに飛び上がって喜ぶ。
「やったぁぁぁ!だってさ、食事どころじゃないんだもん。きんぴらは取られるし、フルーツポンチは取られるし。一昨日なんて、プリン取られたんだから!」
 ツラツラと、戦歴を挙げ連ねると、タタタッと雨都に駆け寄ってきて、手をブンブンと振る。

「その点、うっちーはそんなことしないもんねぇ」
 その言葉に雨都は目を細めて笑みを返す。
 サラリと、日向の長い髪に触れる。
「むぅ?どうしたの?」
 日向がくすぐったそうに首を縮める。
 雨都は日向の髪を一束取り、
「結ってあげようか?ご飯食べる時、邪魔でしょう?」
 と日向の目を覗き込んで言った。
 日向はキョトンと目を見開いて、見つめ返してくる。
「……あれ……?」
 雨都は思わず声を上げた。

 心の声が聞えない。聞き取れない。

「どうかした?うっちー」
「え、あ、なんでも……」
 雨都は取り乱す心を抑えて、フルフルと首を横に振った。

 子供の頃は、聞きたくなくても心の声が頭に流れ込んできた。
 淡雪に出会ってから、その力がどんどん弱って、集中しないと使えなくなった。
 そして、今、集中しても、誰の心の声も聞えない。
 安曇の、あの呟きのような心の声が、最後に聴き取った言葉。
 ずっと悩まされてきた力だったが、必要な時に……消えた……?
 今、失うわけにはいかない力だと、雨都は表情を固くする。

「うっちー?」
 日向の声で、雨都は再び我に返った。
 動揺していないと言えば嘘になるが、ここは普通に振舞わなければいけない。
 日向は雨都の力のことなど知らない。
「あ、結ってあげるよ?ね、櫛とゴム貸して?」
 雨都は笑いかけて、右手を差し出した。
 無邪気な笑顔をたたえながらも、日向はブンブンと首を横に振る。
「いいよぉ。今日はもう結う気ないんだ」
 軽い足取りで雨都の席の向かい側に座ると、日向は足をバタバタさせて、
「お腹空いた……お腹空いたぁ、雪乃さん!」
 と駄々をこねるように雪乃に声を掛ける。
 おかしそうに雪乃が後ろで笑っている。
 雨都は日向のことを見つめた。やはり、聞えない。
 淡雪の存在を忘れて、無邪気に笑っている日向。
 日向の笑顔は不思議な力を持っていると思う。
 けれど、一日日向の様子を見ていて、やたらと元気だったのに違和感を感じてもいた。

 その確認のつもりだったのに、力が、使えない。
 旦那さんを待たずして食べた夕飯は、美味しかったはずなのに、あまり味を覚えてはいなかった。



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