第37章  イマハ、ムリ……ワカッテル……シンジテルカラ


 残暑はまだ厳しいながらも、9月も中旬を迎えようとしていた。
 新チームに切り替わって、初の大きな大会・新人戦を目の前にして、日向の属するソフトボール部も気合の入った練習が続いている。
「さぁ、行くよ〜!新人戦は目の前だぁ!はい、チャキチャキするする〜」
 日向の元気いっぱいな声がグラウンド中に響き渡る。

 髪を1つに結って、サンバイザーを装備し、1つ息を吐く。
 体は小さいながらも、一応新チームのエースなのだ。
 こういう時にガンガン引っ張っていかないと、またもや後輩になめられる。
「ひな、気合入ってるね」
 キャプテン兼日向の相棒がそう言って笑った。
 彼女はキャッチャーだが、日向に負けず劣らず背が低い。
 ただ、常に落ち着いていて、ゲーム展開を容易に計算する頭脳を持っている。
 その点は日向とは真逆の人間だ。

「ぐっちょん、今日、あたし絶好調なので、どんなサインでも首振らないよ!」
 日向は小さい手でボールを握り締めて、気合の入った声を出す。

 滝口だから、『ぐっちょん』。
 部内で、日向のネーミングセンスの毒牙にかかったはじめの人が彼女である。
 名乗られてすぐに、「じゃ、ぐっちょんね。よろしく〜」と朗らかな笑顔を返したのだが、当の本人はそんなことはもうすっかり忘れてしまっている。

「ゲーム形式が増えてきて、いよいよって感じだもんなぁ。ひな、じゃさ、今日は配球のチェックしてくから」
「オッケー♪」
 ミットで口元を隠しながら、ぐっちょんが言うと、日向は笑顔でそう返した。

 本当に調子が良いようで、サイン通りのところにボールが行くし、球の伸びも良い。
 何より、バッテリーが考えたとおりの形でバッターを打ち取っているというのが、絶好調の証だ。
 日向は体が小さい分、球が軽い。
 絶不調の場合だと球が上ずって、簡単にホームランされてしまう。
 それを無くすための配球チェック・戦略がある。
 体が小さい同士だからこそ考えやすい面もあるのだ。

 3人打ち取って、小休止。3人打ち取って、小休止を繰り返す。
「……ピッチング練習じゃないんですよ?」
 悔しそうにバットを抱えて、いつもセンターを守っている人懐っこい1年が日向に言ってきた。
 守備側の人間がおかしそうに笑い声を漏らす。
 日向も一緒に笑った。

 遠くから救急車のサイレンの音が聞えてきた。
 然して気にすることもなく、部員は練習を続けている。
 日向も1つ息を吐き、ゆったりとしたフォームから素早く地面を蹴った。
 リリースのポイントもピッタリ。
 球は吸い込まれるようにミットに収まった。

 自分でも不思議なくらい調子がよかった。
 淡雪がいないのに、結構笑えるものだと思いもする。
 けれど、これは約束なのだ。
 本人と交わしたものではないが、日向の中の約束。
 もしも戻ってくるのなら、今のこの環境を守るのが、日向の役目。

 遠くでしていたサイレンがどんどん近づいてくる。
 救急車がグラウンドの脇を通って、校舎前で停まったのを確認すると、一気に皆の集中力が途絶えた。
「え?なに?なんで、救急車〜?」
 そんな声をかわきりにどよめくグラウンド。
 監督していた顧問の教師も、状況を確認するためにグラウンドを出て行ってしまった。
 マネージャーの1年生が素早く顧問教師の背中を追って出て行く。
「なんか、あったのかな?」
 ぐっちょんが駆け寄ってきて、日向にそう囁いた。
 日向はさぁ?とだけ返して、球の握りを確かめるように縫い目に人差し指を当てたり離したりした。

 学校でする怪我なんて限られている。
 命に支障が出るようなものではないはずだ。
 日向は珍しく、そんな冷めた考え方で、チームメイトの心配そうな顔を見返す。
 マネージャーが戻ってきて、校舎には届かないように、けれど、グラウンド内には響くように加減した声で叫んだ。
「なんか、2年の峰内っていう先輩がいきなり倒れたそうです!意識が戻らないとかで、今、救急車に乗せられてます!」

 峰内と言ったらクラスメイトの男子だ。
 あまり話したことはないが、陽気な少年で、よくはしゃぎすぎて担任に叱られている。
「峰内くん……」
 日向はポソッと呟く。
 意識が戻らないというのは、以前からある急患の件と同じものだろうか。
 けれど、狙われている淡雪はこの町を去ったのに、それがなぜ起こるのか。

 夢の中の淡雪は言った。
 この町で急患が増えたのは、あの黒い男と獣のせいだと。
 そして、狙われているのは淡雪で、淡雪は身近な人に被害が及ぶのを恐れて、この町を去るのだと。
 ことが済めば戻ってくる。
 日向が淡雪をどれだけ見てきたか、それを信じて待てと。

 だから、日向は淡雪がいなくなれば、この件も解決するものと思っていた。
 しかし、母親から聞かされる話は途絶えないし、今も現に1人クラスメイトが病院へ搬送されようとしている。

 日向はぐっちょんに球を挟んだグローブを手渡すと、グラウンドを飛び出した。
 母から聞いた状況と同じなのかどうかを、確認しようと思ったのだ。
 幸い、まだ救急車の後ろが開いている。
 日向の足で走れば確認くらいは出来るかもしれない。
「ちょっと、待って!まだ行かないで〜!」
 日向はそう声を張った。すぐに駆け出す。

 救急隊員が不思議そうに日向の到着を待っていた。
 優しそうな面差しの隊員を見上げて尋ねる。
「ど、どんな様子なんですか?返事、全然しないとか……?」
「君は?」
「え、あ、う、クラスメイトです」
「そう。たぶん、軽い脳震盪でしょう。倒れた時に頭を打ったらしいから。詳しいことは、病院で検査してみないことにはわからないしね」
「あの、春ごろからあったっていう急患の件とは違うんですか?」
 日向は尋ねてからしまったと思った。

 こんなことを尋ねて、もし自分の名前を尋ねられたら、母親が病院内の機密にしていたことを漏らしたのがばれてしまう。
 隊員は顔をしかめて、どうしてそれを……と口にしたが、それ以上は言えないとでも言うように聞かないフリをして、車へと乗り込んでしまった。
 なんとなく、峰内くんもそうなんだなと悟った。
 隊員の表情が明らかに変わったのを見逃さなかったのだ。

 バタンと扉が閉まって、救急車はけたたましいサイレンを鳴らして、走って行ってしまった。
 日向は教師数人が頭を下げて、救急車を見送っている中で、1人だけポツンと立ち尽くしていた。
 救急車が見えなくなってから、1年の主任を務めている比較的年のいった教師が、他の教師にため息をもらしつつ、話し始めたのが聞えた。
「まったく、これで何人目だ……?夏休み中にも結構な報告が来ているし」
「そうですね……まぁ、あの子もおそらくすぐに復帰するとは思いますが」
「それにしても、こう立て続けではな……」
 一応小声なのだが、日向の耳に届くには十分な大きさで、日向は心の中でやっぱりと呟く。
 教師たちはサイレンの音が遠のくと、校舎の中へと戻っていった。
 1人残った日向は空を見上げて考える。

 まだ、終わっていない。
 淡雪が去れば、被害は無くなる。
 そう思っていたのに、そんな気配は一向に見られない。
 それでは、この別れは何のためのものだったのか。
 戻ってくるかと、夢の中の淡雪に尋ねた。
 その時、彼は僕なら戻ると返してくれた。
 けれど……よくよく思い返して、悲しくなった。
 どういう条件になれば、淡雪が戻ってくるのかを、日向は尋ねなかったからだ。

「……バカだ……あたし……」
 そう呟いた瞬間、涙が頬を伝った。
 風がそよそよと、日向の後ろでくくった髪を揺らす。

 夢の中とはいえ、身も凍るような殺気を放つ人物。
 その人物が、今回の件の当事者だというのなら、被害を無くそうといなくなった淡雪が狙われたら、ひとたまりもないに決まっている。
 淡雪は1000年生きていて、記憶を操る力がある。
 でも、それだけだ。その他の能力的に、変わったものなどない。
 痛みがないとか、傷が早く直るとか……そういうものが意味があるのかもわからないし。

 彼が戻ってくる条件。
 それは、この町の被害が無くなること=あの男を倒すこと。
 そして、淡雪がこの町を去ったことで無くなるはずの被害が消えない=淡雪がこの町のどこかにいる……または……。
 それより先を考えたくなくて、日向は首を振った。

「ヤダ……そんなの……ヤダよぉ……雪ちゃん……ヤダ……」
 膝から崩れ落ちる体を、自分では止められなかった。
 信じたくもない。
 そんな事実を、信じたくなかった。受け入れたくなかった。
 まだ、他にも色々な選択肢があるかもしれないと、必死に頭をフル活用しようとするが、涙が浮かんできて、それを阻む。

 死。

 その1文字だけが、日向の頭を染める。

 地べたに座り込んで泣き伏せる日向の前に誰かが立った。
 地面にくっきりと影がついて、日向は力ない状態でその人物を見上げた。
 黒いジャージ姿。汗まみれの頭。二枚目だけど、目つきの悪い顔。
「……大丈夫だ……」
 安曇がそう呟いた。
 ゆっくりと膝をつき、安曇が心配するように日向の顔を覗き込んでくる
「繰り返せ。アイツは大丈夫だ」
「……雪ちゃんは……だいじょぶ……」
 弱々しく呟いて、首を傾げる日向の頭を撫でて、安曇は頷く。
「ああ、大丈夫だ。お前を残してどうにかなるようなヤツじゃない。だから……大丈夫だ」
「うん……うん……」
 安曇の声は、いつもと違って優しかった。
 淡雪のような柔らかさなんてない。
 けれど、確かな温かさを感じて、日向は懸命に首を縦に振った。
 拭っても拭っても溢れる涙を、必死にジャージの袖で拭う。
「だいじょぶ……ダイジョーブ……」
 何度も呟いて、必死に自分に言い聞かせる。

 突然、体を引っ張られて、日向は目を大きく見開く。
 汗臭いジャージに、いつのまにか顔が埋まっていた。
「……あっくん……?」
 日向はあまりに突然のことで驚きが隠せず、その声もだいぶ間抜けなものだった。
 頭の上で声がする。
 低い声。
「バカヤロ……なんで、忘れてないんだ……雪は、お前の記憶消したんだろ?」
 声を発するたびに、安曇の胸が微かに震える。
「だったら……忘れればよかったんだ……そしたら……こんなに辛くなかったのに……」

 日向はただ安曇の囁くような低い声を聞いているだけだった。
 なんと返せばいいのか、わからなかった。
 まだ、頭に浮かんだ不安を信じてはいない。
 大丈夫だと、言い聞かせてくれたのは安曇なのに。

「もし、忘れてたなら……おれが……おれのものにしてやったのに……」
 日向を包み込んでいた腕に更に力がこもる。
 日向は、なんとなく、安曇がしようとしていることを察した。
 安曇は体を離すと、日向の顎を強引にぐいっと上げて、目を細める。

 優しい目なのはわかった。

 いつも意地悪をするような、あのひねくれた目じゃない。

 けれど……安曇の顔が近づいてくるのが目に入って、素早く日向は右手を横に払った。

 パシンと、軽く安曇の頬を右手が掠めた。

「イヤ!ヤダ!!」

 大きな声だった。
 下校途中で、2人を見ないフリをして歩いていた生徒たちも、その声に振り返るほど大きな声。

「どうして……?!なんで?!忘れられるはずないよ!あたしが忘れたら、雪ちゃん、本当にいなくなっちゃったみたいだもん!!雪ちゃんは大丈夫なんでしょ? 今、あっくんが言ったんだよ!!それなのに、こんなの、ひどいよ。なんで、こんな時まで、手の込んだ意地悪しようとするの?!!雪ちゃんの、親友のクセに!」
 日向は安曇の顔を見上げて、まくし立てる。

 安曇はその言葉を聞いて、複雑そうに表情を歪めた。
 日向は素早く立ち上がり、立ち去ろうと安曇の横をすり抜けた。
「親友だから……我慢してたんじゃねぇか……」
 そんな言葉を、安曇は発した。
 その声で、思わず立ち止まる日向。
「おれだって……おれだって……」
「……あっくん?」

「お前みたいなチビクロサンボがなんで好きなのかわかんねぇけど!おれだって……お前のこと、好きだったんだよ!!辛そうな顔、見せられて……我慢できるかよ……。おれは……アイツほど、大人じゃないんだ……!」

 奥歯を噛み締めるようにして押し出された言葉に日向は目を見開いた。
 背中を向けたまま、安曇はこちらを見ようともしない。
 生徒たちが、面白いものでも見るような目で、こちらを見ては通り過ぎてゆく。

 日向は俯いた。
 ぐっと、拳を握り締める。
 目を細めて地面を見つめた。
 2人の間を、風が吹き抜けていく。

 日向はようやっとで声を搾り出す。

「あっくん……ごめんね……」
 一拍置いて、フゥと息を吸い直す。
「今は、ムリ……」
 ポツリ、ポツリと、それでも確かな音で伝える言葉。
 安曇が後ろでため息をついたのがわかった。
「……わかってる……」
 低い声は、そんな答えさえ確信していたように淀みない。
「おれも、まだ……信じてる……アイツは、死んでない。悪ぃ……らしくなかった……」
 反省したような声でそう言うと、日向の横を颯爽とすり抜ける。

「ったく、本当にアイツは……とろいからな、こういう時ばっか」
 日向は安曇の背中を見つめた。
 スタスタと歩いていき、2人の間に5メートルくらいの距離が出来たところで、安曇が立ち止まる。
「お前のことは任されてる。今度、何かあったら、おれに言え。今回みたいな醜態は、さらさないから……」
 ヒラヒラと手を振って、安曇は勢いよく駆けて行った。
 海からの風が吹き上げてきたが、向かい風などものともせずに、安曇の背中は陸上部用のグラウンドへと消えていった。

 日向は、そっと空を見上げた。
 青い空が広がっている。
 夏休みは終わっても、まだまだ日は長い。
「雪ちゃん、早く戻ってこぉい……」
 日向は小さく呟いた。



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