第38章  日向特製カレー(味付けは雨都)


 雨都と久しぶりに帰ることになって、日向はルンルン気分だった。
 グイグイと雨都を引っ張り、明るい声で言う。
「料理の先生してちょーだい☆あたし、雪ちゃんが帰って来るまでに一食何か作れるようになりたいんだ♪」
 雨都の足が1歩2歩と進んで歩き出す。

 今まで忘れたフリをしていたが、もう必要ないと勝手に日向は決めた。
 どのみち、今日、安曇にもばれた。
 ……というよりも、安曇が淡雪のことを忘れていないのには驚いた。
 全然、そんな素振りが見られなかったからだ。
 日向は安曇の気持ちにも気がついてやれなかったのだから、そんな些細な素振りを読み解くことなんて不可能と、今更ながら思う。

 雨都がその言葉を聞いて、ほんのり笑顔になった。
「よかった……忘れてないんだ……」
「ごめんね、心配かけた?」
「ううん、そんなこと……」
「雪ちゃん、あたしの記憶消していこうとしたから、忘れたフリしてたほうがいいのかなぁって思ってたんだ。でも、疲れるしぃ……うっちーはなんでか忘れてないしぃ……」
 唇を尖がらせて、いじけたように雨都を横目で見る。

 授業中、悲しげに淡雪の席を見つめる雨都を見ていた日向は、雨都が忘れていないことを察していた。

 慌てたように雨都はブンブンと手を振る。
 肩に掛けていたバッグがズルリと落ちたので、素早く掛け直し、視線をすぐに日向に戻してきた。
「わ、私は、彼の力が効かない体質で……」
「えぇぇ……何、それぇ……。そんな体質あるの?」
「わ、わからないけど、効かないの」
 雨都は必死に誤魔化すように笑いながらそう言う。
 きっと聞いても教えてくれないから、日向は仕方なく引き下がる。
 跳ねるようにして雨都の手を引っ張り、到着した家の前でゴソゴソと財布から鍵を取り出す。

 鍵穴に鍵を差し込んで、ガチャンと回す。
 扉を開けて、雨都をはじめに玄関へ通した。
「汚いけど、見逃してくださいな」
「ううん、綺麗だよ」
 日向の声に、雨都はキョロキョロと廊下を見回して言った。
 雨都の家の半分もない家だが、よく整頓されていて、まったく汚いという印象はない。
「料理は出来ないけど、掃除は得意なんだぁ。こんな女欲しい人いるかなぁ……」

 日向はおかしそうに笑いながら、扉をカチャンと後ろ手で閉じて、すぐに靴を脱ぎ、雨都より先にフロアに上がった。
 それに続くように、雨都は丁寧に靴を脱ぐ。

「でも、料理できても掃除できないのも痛いよ?私みたいに……」
「あはは。だいじょぶだいじょぶ!シズ様に任せちゃえ!」
「そ、そこで、なんで、しずくが……」
 日向は何気なく言ったのだが、雨都はなぜか動揺したように言葉を濁した。
 階段を上り、雨都に手招きをして、カチャッと部屋の扉を押し開けた。
「雪ちゃんにもらってもらおうとしてるあたしも、結構図々しいよねぇ。お母さんが元シェフで、グルメなのにさ」

 バッグをベッドにポンと投げつけ、階段を上がってきた雨都にも適当にバッグを置いておくように仕種で伝える。
 雨都はその言葉を聞いて更に慌てたように、何もないところでつまずいて、バッグの中身をぶちまける。
 分厚い本が2冊、ゴツンゴツンと音を立てて、フローリングに落ちた。

「……うっちー?」
「ご、ごめん。床に傷ついたかも……」
「いや、それはいいけど、だいじょぶ?」
「え、あ、うん、平気平気。転ぶのは慣れてるから」
「そういう問題じゃ……」
 日向はポリポリと頬を掻いて、本を拾い上げている雨都の背中を見つめる。

 雨都はバッグに本を入れ直して、ベッドに立てかけるように置くと、棚の上に置いてあった写真立てを見つけて手に取った。
 日向は雨都に近づいて、後ろから覗き込む。
「よく撮れてるでしょ?雪ちゃんとあっくん……」
 悔しそうに日向は奥歯を噛み締めて、『あっくん』を口にした。

 写真の中には、校門の前に立つ淡雪と安曇が写っていて、微かに日向の手が安曇を押しのけようとしているのが見える。
 日向が持っている中で淡雪が写る唯一の写真であり、安曇の嫌がらせにより阻まれた、本当は2ショット写真になるはずだったものだ。

「ふはは……志筑くんは前からこうなのね」
 雨都がおかしそうに笑うので、日向も悔しいながらも笑顔を返す。
「そう。嫌がらせ嫌がらせの繰り返し」
「そっか……」
 日向がいじけたように言うと、雨都は目を細めて、優しい声で頷いた。
 静かに淡雪の姿を指でなぞってから、タンと軽い音を立てて、写真立てを元の位置に置く。
「雪ちゃん戻ってきたら、みんなで撮ろうね。4人……あ、シズ様も呼んで」
「…………。うん、そうね」
 雨都は言葉に迷ったように少し沈黙したが、なんとかかんとか笑い返してくれた。

 たぶん、2人とも口にしないようにしている言葉。
 淡雪は戻ってくると思うか。
 何度も何度も、心の中で考えて打ち消して、考えて打ち消して……それを繰り返している。
 日向も、雨都も……もちろん、安曇もそうに違いない。

 キッチンへと移動して、棚に置いてあるエプロンを2枚手に取る。
 黄色いエプロンは日向のもの。赤のチェックのエプロンは母のものだ。
 雨都に母のエプロンを手渡し、日向はさっさとエプロンを装備する。
 雨都も手馴れた様子でエプロンを着ると、スカートのポケットから赤いゴムを取り出して、肩まである黒髪を2つに分けて結った。
 日向はそれをマジマジと見つめる。
「な、なに?」
 見つめられて恥ずかしいように雨都がエプロン姿を隠すように斜めを向いたが、あまり意味はない。

 日向はガックリと肩を落として言った。
「いいなぁ……エプロン似合うぅ……。大人っぽいっていいよね。可愛いっていいよね」
「私は可愛くない……可愛いのはひなたちゃんみたいな人のことを言うの」
「うぅ……うっちーは優しいなぁ」
 日向は大げさに目元を拭い、冷蔵庫と野菜を入れてあるトレイのある場所へと向かった。

 ゴソゴソと漁り、じゃがいも・にんじん・たまねぎ・マッシュルームの缶詰・豚のひき肉を取り出す。

 雨都が後ろから覗き込んで尋ねてきた。
「何を作るの?」
「カレーライス」
 じゃがいもをぐっと握り締め、日向は強く言い切った。
 雨都は余裕綽々といった様子で笑う。
「カレーか。カレーなら、簡単だね」
 その言葉を聞いて、日向は黙り込んだ。それに対して雨都は首を傾げる。

 日向は料理の才能0。
 作っても作っても、美味しいものができないなんて状況を、料理の得意な雨都には想像もつかないことだろう。

「カレーもピンキリがあるけど、突き詰めなければ、余裕でできるよ」
 雨都はにんじんを日向の肩越しに取って、さっさと棚に乗っていたザルに入れる。
「大丈夫。シンプルに作ろう」
 ザルに残りの野菜を入れるようにと日向に促し、差し出してくる。

 日向はそこでようやく笑顔を浮かべて、じゃがいもをザルに入れた。
 全部入れ終えて、ザルをシンクの上に置くと、棚の上にあったカレールーを雨都が取り出してくる。
 ざっと見た感じで、ほとんどキッチンの状況を把握したようでテキパキと動いている。
 日向はその様子を呆気に取られて見ていた。
「うっちー、雪乃さんみたいだ」
「え?そう?」
「なんか、サッカーで言う司令塔みたい……」
 日向の感心した声に雨都は苦笑しながら、必要なものをさっさと用意して、手を洗い、野菜もその流れで洗ってしまった。
「よし、オッケー」
 満足そうに笑う雨都。

 日向は包丁を取り出して、緊張した面持ちでじゃがいもを持った。
「ひ、ひなたちゃん、皮を剥くのはピーラーのほうが手軽だし、楽よ?」
 あまりに緊張した表情をしているのを見て、雨都が困ったように首を傾げてピーラーを差出してくる。
「え?え?でも……」
「はじめから上手くやろうとしても駄目。こういうのは楽できるところは楽して、手を抜けるところは抜く。要は料理が出来ればいいんだから。背伸びは一番やっちゃ駄目」
「はぁい……」
 雨都の優しい声に日向は子供のようにピーラーを高々と掲げて答える。

 真剣な面持ちで、しゃっしゃかしゃっしゃかとピーラーで皮を剥いている間に、雨都がたまねぎの皮を剥いて切り始めた。
 そのスピードが鮮やかで、日向は皮を剥く手を、少しだけ早める。
「慌てなくっていいから」
「う、うん」
「大丈夫。たまねぎしか切らないから」
 少々涙を浮かべながらも、雨都は優しく微笑むと、切り終えたたまねぎをバットに入れた。
 ふぅと息をついて、手を洗い、涙をエプロンで拭う。
 なんだか、その姿もとても様になっていて、日向は横目で見て羨ましくなった。

「うっちー、お嫁さんに欲しいなぁ……」
 ポソリと呟く。
「え?」
 驚いたように目を見開く雨都。
「料理上手で羨ましい……」
「これは慣れ」
「うぅ……でも、料理はセンスが大事だって聞いたことある」
「確かに、要るかもね。研究家とかシェフとか、味を追求する側になれば」
 日向がたまねぎを切ったわけでもないのに涙目になりながら言うと、雨都も頷いて返す。

「でもね、それはほんの一握りで、多くの人は究極を目指しはしないでしょう?色々な味があるの。雪乃おばさまの料理にも、ひなたちゃんのお母さんの料理にも、私の料理にも……そして、ひなたちゃんの料理にも。それを家庭の味と呼ぶのだし、洗練されていないからこそ良い味っていうのもある。料理は積み重ね。基本の集合体。切る・炒める・焼く・煮る・味付ける・盛り付ける。慌てないでコツコツと。ソフトボールもそうでしょう?」

「あ……うん、そうだね。キャッチボール・ステップ・素振り・筋トレ・走りこみ・シャドーピッチング」
 雨都の言葉に、日向は嬉しそうに笑って返す。

 ソフトボールと同じと考えた途端、気が楽になった。

 雨都は優しいし、教えるのが上手い。

 じゃがいもとにんじんを剥き終え、感心して雨都を見つめた。
「うっちーは、先生が向いてると思うなぁ」
「え?」
「うん、絶対向いてる」
 日向は勝手に自己完結して、じゃがいもを切り始めた。

 ダンダンと音が響く。
 力任せに切る日向を見て、雨都が驚いたように覗き込んでいる。
 けれど、特に何も言ってはこなかった。
 にんじんを切る。
 一応指を切らないように猫手。これは家庭の時間に習ったからわかる。
 大きめのゴロゴロ野菜の出来上がり。
 フライパンに火を通し、油を垂らす。
 もう1つ空いているコンロに水を入れた鍋を置き、じゃがいもとにんじんを入れて火を点けた。
 豚ひき肉を炒めて、塩コショウを少々。その後にたまねぎを炒める。
「大丈夫そうじゃない」
 横で見ていた雨都が、何をそんなに心配しているのかと尋ねたいような顔で感心して笑っている。
 日向は真剣そのものだ。

 沸騰してきたお湯に黄色くなったたまねぎを入れ、少しかき回す。

 醤油を取り出した。
 雪乃さんが隠し味に使っている。というより、使う人は多いはずだ。

 日向はキャップを開け、
「一球入魂!!」
 と叫んだ。

 ドバドバと注ぎ込まれる醤油。

 雨都が慌てて、日向から醤油をむしり取る。

「入れすぎ!入れすぎ!!これは隠し味だから。ちょっとでいいの!!」
「あ……そうなんだ」
 日向は頬を掻いて苦笑いを浮かべる。
「計量しろとは言わないけど、少しずつ入れてね?たくさん入れちゃうと、ほら、調整が利かなくなっちゃうから」
「そっかぁ……料理は気合で作るものだと思ってた……」
「男の子みたいなこと言わないで……」

 雨都も苦笑い。

 日向も苦笑い。

 黒く染まった鍋の中身を見つめる。

「…………」
 日向は鍋を手に取って、流しへと向かう。

 それを雨都が慌てて止めた。
「だ、大丈夫。まだ大丈夫だから。というか、私がなんとかするから。そんな匠みたいなことしないで」
「お、お願いします……」
 日向はその言葉に頭を下げて、コンロへと鍋を戻す。

 雨都はテキパキと調味料を出して見比べ、色々と考えながら味を調節していく。
 水を継ぎ足し、調節。それを繰り返し、なんとかひき肉を入れるところまで行き着いた。
「あとはルーを入れて、マッシュルームを入れて、何か牛乳とかリンゴとか入れるなら入れて完成だね」
 一心地ついた雨都が笑顔で言う。
 日向はパキパキとルーを割って、鍋の中に放り込んだ。

「すごかったなぁ」
 ルーが溶けるのを見つめつつ、日向は呟く。
「なにが?」
 雨都の不思議そうな声。
「だってさ、ルー入れてないのに、美味しそうなにおいがしてたんだもん」
 お玉を持ってきて、クルクルとかき混ぜ、クンクンとにおいを嗅ぐ日向。
 雨都はそのことかと言うと、エプロンを外して、椅子に掛けた。
「お味噌汁で言うところの出汁だよ。味に深みが出るの。ひなたちゃんがやったように、醤油だけでも十分なんだけど、さすがに……」
 雨都は先程の黒い液体を思い出したのか、苦笑した。
 日向はかき混ぜるだけかき混ぜたら、雨都と同じようにエプロンを外した。

 時計を見たら、もう8時になるところだった。
「うわぁ……結構かかっちゃったね……」
 慌てて雨都を見る。
 いくら1人暮らしでも、帰る時間が遅くなったら危ない。
 雨都は笑顔で首を横に振る。
「カレー食べたら帰ります。ひなたちゃんのカレー」
 味付けはほとんど雨都なのに、微笑んでそんなことを言う。
「うぅ……今度こそは本当に自分1人で作って日向デリシャスカレーを振舞うよ!4人……あ、シズ様も呼んでさ」
 4人と言いかけて、雫を付け足す日向を雨都がおかしそうに見つめた。

 日向は首を傾げたが、雨都は特に何も言わずに鍋を指差す。
「あ、そろそろ、マッシュルーム入れて仕上げにしよう」
 言われるままに日向も缶詰から出して水を切っておいたマッシュルームを入れ、かき混ぜる。
「よぉし、完成だぁ」
「何も入れないの?」
「出汁が利いてるんでしょう?今日はそれを味わいますよ」
 日向は雨都にバチンとウィンクをして、食器棚へと向かった。

 カレー皿を取り出し、雨都に手渡す。
 雨都がご飯を盛っていると、呼び鈴が鳴った。
「誰だろ?こんな時間に……」
 盛るのを雨都に任せて、日向はタッタッタッとキッチンを出て、
「どちらさまですかぁ?」
 と尋ねながら、玄関に降りた。
「カレーのにおい」
 低い声が扉の向こうでした。
 日向は相手も見てないのに身構えて返す。
「勧誘はお断りです〜」
「こら、チビクロ。飯食わせろ」
 案の定、安曇だったので日向は苦笑する。
「なんで、あたしが」
 鍵も開けずにそう返す。

 安曇はしばらく何も言ってこなかった。

 帰ったのかなと日向は鍵を開けて、扉を押す……が開かなかった。
「あれ?」
 日向はガチャガチャとノブを回す。
 簡単に回る。ノブのせいじゃない。……ということは、扉を向かい側から押さえているのだろうか。
「ねぇ、あっくん、なんの冗談?」
「うるせぇ」
「ちょっと、どいてくんないと開かない」
「…………食わせる気なかったんだろ?」
「……もう!」
 悪びれる安曇に腹を立てて、強引に日向は扉を押し開けた。
 ゴツンという激しい音が下でしたので、日向は下を見る。
 扉の前に座り込んでいる安曇の姿があった。
 外灯で浮かび上がる、安曇の苦しそうな表情。
「え?ちょっと、あっくん?!」
「頼みたくないが頼む。ちょっと休ませろ」

 全然頼んでいない口調でそう言うと、安曇はのっそりと立ち上がって、日向の許可も待たずに家の中へと入ってきた。

 ドスンと玄関の縁に腰を下ろす。
 夏服が見てわかるほど汚れていた。
「どうしたの?」
 さすがの日向も心配になって声をかける。
 安曇は頭を押さえてひとり言のように呟く。
「しくじっちまった……」
 その言葉の意味がわからず、日向は眉をひそめる。
 背中をいやな汗が伝うのを感じた。



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