第39章  闇に包まれた心


 雨都は暗闇の中にいた。
 どんなに見回しても、あたり一面真っ暗で、自分の姿も見えない。
 確か、先程帰宅して、制服から着替えてすぐに眠気に誘われるままにベッドに倒れこんだはず。

 それでは、これは夢なのだろうか。

 本当はやらなくてはいけないことがあって、机の上には淡雪用の資料が山のように積み重なっていたのに。

 雨都はなんとか目を覚まそうと、ぐいと腿の肉をつねった。
 細いけれど、運動を全くしない雨都の足の肉は簡単につまめた。

 痛い。少し加減をすべきだった。
 自分でやっておいて、涙が浮かんだ。
 けれど、起きられる気配が見られない。

「夢……だと思ったのに……」

 雨都はポツリと呟いて、見えもしない周囲の状況を確認した。
 特に何もない。
 暗すぎて何も見えないから、一歩を踏み出すことさえ躊躇う。

 雨都は呆然と立ち尽くしたまま、一体どれくらいの時間、そうしていたか分からないが、突然ピー……という聞き覚えのある音がして、目を細めた。

「また……この音……」
 必死に振り払うように首をブンブン振るが、音は消えるどころか大きくなっていく。

 雨都はその場でしゃがみこむ。
 大きくなってくる音に怯えるように、雨都は目を閉じた。
 音が鼓膜を破るギリギリまで高まり、そこでプツリと途絶えた。
 そして、途絶えた瞬間、強風が雨都の髪をさらっていった。

 雨都は目を開けて、風が吹いてきた方向を怖々見る。
 うっすらと光を放って、男が立っていた。
 黒ずくめで、光を放っていなかったらこの空間では気がつきもしないだろう姿だった。
 雨都は肌を刺されるような殺気とも、邪気とも言える気配に気圧される。

 この感覚は知っている。
 夏休みの、淡雪がいなくなったあの日に、雨都が手繰り寄せた邪気の糸と同じだ。

 男が口元を覆っていた布をどけて笑った。
『よぉ、おつるいの末子』
 低く愛想のない声で、雨都を見下ろしている。

 雨都は必死に男の目を見つめた。
 一重で鋭い目つき。まるで鷹の目のようだった。

「……な、何の用?淡雪くんはこの町を去ったのだから、私に用はないはず……」

 言葉を搾り出して話す雨都の様子をおかしそうに見て、男は目を閉じ、再びゆっくりと開けた。
『お前は、力を失ったのか?』
 雨都の問いには答える様子も見せずに、核心に触れた。
 雨都はそれを言われて、奥歯を噛み締め、目を逸らす。
 男はクックッと笑った。
『そうか。あれはおつるいの加護の力だったのにな』
「え?」
『俺の力に干渉されないためのものだったが……そうか。この前、俺の邪気に当たったのがまずかったのかもな』

 雨都は耳を疑った。心の声を聞く力は、呪いだとさえ感じていた。
 淡雪を生み出してしまった一族に対しての罰。
 そう思っていたのに、本当は違ったというのか。

 男が突然、雨都の頬に触れてきた。
 触られた瞬間、ビリビリと雷に打たれたような衝撃を受けて、雨都は膝から崩れ落ちる。
「……っぁ……」
『清らかな体だ。心はそれほどまでに堕ちていながら』
「……うるさい……」
 雨都は肩で苦しそうに息をしながら、必死に男を見上げて睨んだ。

 立ち上がれない。この男の邪気が強すぎる。
 雨都は唇を噛み締めて、悪びれたように笑った。
「あなたに言われる前に言いましょうか?」
『んぅ?』

「私はひなたちゃんに嫉妬している。私の気持ちに気がつきもせずに朗らかに笑って、幸せそうに淡雪くんの話をするあの子が嫌いよ。けれど、彼が帰って来ることを一心に信じて、一生懸命元気でいるあの子が大好き。確かに私の中には、以前にあなたが言い当てた、妬みも嫉みもあるけれど、それでも、今なら言えるわ。断言できる。幸せになって欲しい。淡雪くんにも、ひなたちゃんにも……。彼らは、幸せになるべき人たちよ。そのためなら、どんなことだってする。今度こそ、あなたには負けないわ」
 雨都は決意の眼差しで、地についた拳を握り、きっぱりと言い切った。

 男は目を細めて、雨都を見下ろしている。ただ冷ややかに、ただ静かに。

 そうして、沈黙が流れ、男がクックックッと笑い出すまで、雨都は男を睨み続けていた。

 男は笑いながら言った。
『お前はわかっていないな。お前にはもう加護がない。決意など何の意味も持たない。俺の邪気に当たれば、そんな決意も想いも、関係なくなる。残念だな。……あの少年が、設楽に手を出してこなければ、お前には関わらないつもりだったが、正直、宿主の身が危うくなってきたので、俺は焦っている。ヤツは……俺の思うままに動かない』
「少年?設楽……?」
 雨都はそこで予想もしていなかった名が出てきたことに驚きを隠せなかった。

 男は口元に布を戻して、くぐもった声で話し始めた。
『俺の宿主は設楽家の長男。知らないだろう?設楽家も、おつるいの末席に置かれていることを。所詮、1000年前に少し関わっただけの繋がりだが、血の繋がりはある。本当に薄いものだがな』

 そこで、雨都はあの時にこの男が口にした、『お前のいとこと深い関わりがある』という言葉を思い出して、納得した。
 さすがに家系図も、1000年前までは遡ることが難しい。
 しかも、派生している分家の数が多すぎて、主だった『諸』家以外は把握していないのが現状だ。
 派生しすぎた分家の、しかも1000年も前の関わりしかない家の者まで、いとこと呼べるのか疑わしいところではあるが。

『俺の父は名のある剣の使い手だった。俺にもその才があり、ある時、諸家のお嬢様の付き人を任されてから、おつるい家と関わるようになった』
 男は思い出すように目を細めながら、朗々と語る。

 先程の愛想のない声が嘘のようだ。

『お嬢様は舞が上手で、少しおっちょこちょいだが賢くてな。朗らかで優しくて……そこにいるだけで、花が咲いたように可憐な方だった』
 見える表情は目だけだが、その目の表情でなんとなくわかった。

 その『お嬢様』の話をしている時の男の目は、愛しいものを語るように優しかったから。

 雨都はごくりとツバを飲み込む。

『そのお嬢様と幼馴染のように長い付き合いをしていたのが……タケル……。お前たちが淡雪と呼んでいる男だ』

 そこで奥歯を噛み締めたのか、男の声が更にくぐもる。

 憎々しげに吐き捨てられた言葉。

「あなたは……」
 雨都は気持ちを察するように目を細めて、男の眼差しを窺う。

 男は雨都から目を逸らすと、くるりと背中を向けてきた。
『お前に、俺を止める権利がないと言ったのは……お前が、俺に似ていたからだ』
 男の声が初めて寂しそうに揺れた。

 雨都は懸命に膝に力を入れて立ち上がる。
 ヨロヨロするが、先程に比べれば、痺れはないに等しい。

『タケルが力を制御できなかったために、常に傍にいた霧様は命を落とした。それはどんな理由があろうと、ヤツの罪だ。俺はタケルを許しはしない』
「…………けれど…………」
 男の言葉に、雨都は物憂げに口を挟もうとしたが、すぐに男は口を開く。

『これほど時が経っている。もう許せとお前は言うのだろうな?だが……罪はどんなに償っても罪でしかない。2人の関係を認めてしまったのが、俺の罪。力を制御できなかったのは……ヤツの罪だ。だから、死しても尚、俺はこの世を離れられない。死ねば罪が消えるか?いや、そうじゃない……だが、殺さなくては気が晴れない』

 男の口調は淡々としていた。
 容易に口にできる内容ではないはずの言葉を、簡単に吐き出す。

 雨都は男の前に回りこんで、顔を見上げた。
 真剣な目で、今の言葉を聞いて気になったことを問う。
「淡雪くん、まだ、無事なのね?!」

『…………』

 男は雨都から視線を逸らすと、ボソリと言った。

『俺の宿主とアイツの力は互角だ……迂闊に手は出せない』

 その言葉を聞いて、雨都はぱっと頬をほころばせた。


 淡雪は無事。


 その言葉を聞くことが出来れば、何も構いはしない。

 そう思って、雨都は胸を撫で下ろした……が、いきなり、男に腕を掴まれて、男の放つ光に取り込まれてしまった。

『おびき寄せるためには……どうしても必要なんだ、お前が』
 雨都はせっかく取り払った痺れにまた包まれる。

 ようやく乗り越えた嫉妬の心が、大きくなっていく。
 雨都は表情を歪ませて抵抗するが、男の言う加護の力がないせいか、全然抵抗できなかった。
「……あわ……ゆき……く……」
 雨都はあまりの痺れに涙を零れさせた。

 感覚がなくなっていく。
 自分が無くなるように、思考まで麻痺してゆく。
 消え去りそうになる自我が、最後に映し出す。
 雨都はその人の笑顔を思い出して、奥歯を噛み締めた。

「し……ず……く……たす……けて……!」

 たどたどしい声が、闇の中に響く。
 けれど、その叫びは虚しく、雨都の心は静止した。



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