第41章  穢された心


 堤防に腰掛けて、日向は足をブラブラさせつつ、隣で海を見つめている雨都に笑いかけた。
 だが、雨都はぼんやりと海を見つめたまま、日向の笑顔には気がつきもしない。
 なので、日向も同じように海を見つめた。

 初秋に入って、日が暮れるのも徐々に早くなり、海面はほのかなオレンジ色に染まっている。
 ユラユラと光を反射して、遠くに見える島々の間を漁船が行き来している。

 日向は思ったまま呟いた。
「そろそろ、秋刀魚の季節だなぁ……♪」
 けれど、雨都は全く反応してくれない。
 挫けずに日向は続ける。
「近所の漁師さんが、この時期になると秋刀魚をおすそ分けしてくれるんだよぉ。うっちー、今度秋刀魚パーティーしようかぁ?」
 朗らかに笑い、またもや雨都の横顔に目をやる。
 けれど、やっぱり雨都は聞えないように物静かにしている。

 海に行こうと誘ってくれたのは雨都だったのに。

 日向は戸惑いを隠せずに目を泳がせる。
 昨日、安曇も加えて3人でカレーを食べた時は、とても屈託がなかったのに、今日の雨都の様子はおかしかった。
 まるで、1年の時のよう……いや、それ以上に酷い気がする。
「そういえば、どうしたんだろうねぇ?ハッサクくん」
 日向は話題を変えて、雨都にまたも話しかけてみた。

 今日、八朔は口元と目元に、明らかに殴られた傷跡のようなものを残したまま、教壇に立っていた。
 生徒が尋ねても、転んだんですよと苦笑いをしているだけだった。
 暴力的な彼女がいて、その女と喧嘩でもしたのではないかとからかわれてもいた。
 ……が、本当はどうなのかは全くわからないまま、彼の笑顔に有耶無耶にされた。

「ハッサクくんは誤魔化すの上手いよねぇ。抜けているように見えるけど、やっぱり教師になっただけあるよ。底が見えない」
 雨都の反応がないだけに、思いっきりひとり言である。
 海から強い風が吹きつけてきて、日向と雨都の髪を勢いよく吹き抜けていった。
 日向は前髪をつまんで、目をより目にさせる。
 不意を突かれて、だいぶ髪が乱れてしまった。
 やっぱり、カニ頭にしているほうが乱れにくい。その分、手間はかかるけれど。
 部活がないのを理由に今日は髪を結っていなかったから余計にそう感じた。

「ひなたちゃんは……」
「ぅん?」
 ようやく口を開いた雨都に視線を移して、日向は小首を傾げる。
 雨都は乱れた髪を整えながら、微かに笑みを浮かべていた。
 整え終えて、そっと日向の髪へと手を差し伸べてくる。
 サラリと耳元で音がした。人に髪を触られるのは嫌いではないが、日向は首を縮めた。
「こちょぐったい……」
 そう呟く。

 雨都はポンポンと最後に日向の頭を撫でると、無表情で言った。
「淡雪くんがいないと、すごいズボラね」
「え?」
 いきなりそう言われた日向は、何が起こったのかわからずに雨都を見上げるしかなかった。
 まるで、コントでたらいが落ちてくるような、そんな衝撃。
 別に笑いを取ろうというわけではなく、本当に衝撃として、そんな感じだった。
 雨都がそういう風なことを言うなんて、勝手に親友ランクに入れていた日向には到底想像もしていないことだった。

 カニ頭は日向のトレードマーク。
 あまり仲良くなっていない頃だと、特徴のある子がすぐに覚えられる。
 淡雪が褒めてくれたという理由と別に、そんな理由でも、日向はカニ頭を気に入っていた。
 ただ、もうクラス内に日向の存在は浸透したに等しいし、淡雪のためにしていた髪形だったから、
 彼がいない状態でカニ頭に結っているのは自分がしんどくなるという理由で、日向は最近カニ頭をやめていた。

 日向はなんとか笑って誤魔化す。
 仲が良いからこそ言ってくれているのかもしれない。
 それに手抜きだと取られても仕方ないから、こんなことで怒るのもおかしい。
「あはは……そうかもしんない。あたし、雪ちゃんいないと、本当に……」
「そういう笑顔が、すごく不快」
「?!」
 雨都の冷たい言葉に、日向は言いかけていた言葉をやめた。

 取り繕っていた笑顔も顔から消える。

 日向は目を細めて雨都の様子を探るように尋ねた。
「うっちー、どうしたの?今日、虫さんの居所悪い?それとも……あたし、何か気に障るようなことしちゃったかな?」
 雨都の目は冷ややかなままだ。
 2人の間を波の音だけが通り抜けてゆく。
 日向はごくりとツバを飲み込んだ。

 今までの雨都じゃないと肌で感じた。
 1年の時も、クラスには確かに馴染んでいなかったけれど、こういう風な目で人を見ることは1度もなかった。
 雨都は日向の憧れ。
 目で追っていたからわかる。

 雨都は静かに目を閉じ、次に目を開けた時には冷ややかどころか、日向を見下すような目をしていた。
 背中に寒気が走った。
 怖い。そう感じた。
「うっち……」

「私ね、淡雪くんのことが好きだったの」
 しれっと、雨都は言った。

 そんな簡単に口にしそうにもないのに、サラリと言ってのけた。
 仮にも、淡雪と恋人関係になっている日向に対して。

「自覚したのは……みんなでご飯を食べたあの日だったけど。たぶん、ずっと……ずっと好きだった」

 日向はどう返していいのか分からない。
 そんなことを口にされて、日向がどう返せばいいというのだろう。
 雨都は日向に一体どんな言葉を求めていると……?
 もしも、まだ、淡雪と想いが通い合っていなかったら、日向は必死に取り繕った笑顔で、頑張ってねと雨都の背中を押したと思う。
 自分の気持ちはしまいこんで、応援したと思う。
 だけど、日向の想いは叶ってしまった。
 かける言葉などわからない。
 1つだけ、思い当たる言葉があるが、それを言っていいのか迷った。

「どうしたの?言えばいいのに」
 雨都は見透かしたように笑った。
 目を細めて、続ける。
「淡雪くんは言ったみたいよ、志筑くんに。譲る気はないって。言えばいいじゃない。私なんかに振り向くわけないと」

「そんなことない……!」

「うっちーは優しくて、教えるのが上手くて、本当はとってもキュートだから、ちゃんと見てくれる人が見つかれば、すごく大事にされるよ?……そう、言うの? 悪いけれど、私、彼じゃなきゃ意味が無いの。他の誰に、見てもらえと言うの?」


 雨都じゃない。
 いつもの雨都じゃないのではなく、雨都じゃない。
 確かに雨都は消極的だけれど、こんな風に閉鎖的な言葉を口にしたりはしない。
 少しずつでも前に進もうとする人だ。


「淡雪くん、無事なんだって。どこにいるかまではわからないけれど、生きているって。あとは……戻ってくるだけ。……でも、戻ってきたら、彼はあなたの隣に行ってしまう。そうしたら、またあなたは私に彼の自慢話をするんでしょう?幸せな顔で、人の気持ちに気がつきもしないで。無邪気で可愛らしいけれど、なんて残酷な子」

 日向は堤防についていた手をぎゅっと握り締めた。
 逃げたかった。
 でも、逃げるわけにはいかなかった。
 逃げても何も解決しない。
 何か、……何か言わなければ……。


 考えあぐねていると、雨都が今まで見せたこともないほどのスピードで立ち上がり、日向の体を押し倒してきた。
 抵抗も出来ずに、仰向けに倒される。
「ッケホ……」
 胸を圧迫された状態で倒れたせいで、激しく咳き込む。

 すごい力だった。
 日向も必死に抵抗しようと、腕で雨都の体を押しのけようとしたけれど、全然びくともしない。
 必死に足をばたつかせるが、雨都はそんなことには構わないように邪悪な笑みを浮かべた。

「あなたが邪魔なのよ。あなたが死ねば解決する。そうすれば、いつかは淡雪くんも私のことを見てくれるかもしれない」
 そう言って、おもむろに日向の細い首を両手で掴み、締め上げてきた。

 日向は表情を歪める。
 必死に息を吸おうとしても、酸素が入っていってくれない。
 雨都の両手を掴んで、なんとか除けようと試みる。
 このままでは死んでしまう。
 こんなところで死ぬ訳にはいかない。

 淡雪の帰りを待っていると約束したのだ。

 帰ってきたら、5人で写真を撮ろうと、雨都とも昨日約束した。
 雨都だって笑って頷いてくれた。

 まだ、やりたいことはたくさんある。

 淡雪に料理を褒めてもらって、名古屋に遊びに行って、この町から出て色々社会勉強をして、そして、淡雪にお嫁さんにもらってもらうのだ。

 安曇に今までの分の仕返しをして、ちゃんと彼の告白に対しても答えを告げる。
もうわかりきっていることだろうが、きちんと真摯な態度で答えを告げると決めていた。

 雨都とだって、もっともっとお泊まり会をしたり、お出かけをしたりして、高校生らしく遊びまわりたい。
知らないことを教えて欲しい。

 修学旅行は、絶対にこのメンバーで行くのだと決めているのだ。

「うっち……しっ……かり、し、て」
 残っている息で必死に声を紡ぎ出した。

 その声で、にわかに力が緩む。
 けれど、離してまではくれない。
 緩んだ隙をついて、少しだけ肺に酸素を送り込んだ。

 そして、日向は雨都の顔を見上げた。鬼のような形相だった。

 あんなに綺麗な顔の女の子が、こんなに怖い顔になってしまうなんて……と日向は悔しくて仕方がなかった。
 けれど、次の瞬間、雨都の目から涙が零れ落ちてきた。

 日向の頬をポツポツ……と涙が跳ねる。

「うっちー……?」
 日向は本当に小さな声で呼びかける。

 雨都は眉をひそめて、必死に何かに抵抗するような表情をし始めた。

 力が先程よりも緩む。

「ひなたちゃん……逃げ……て」
 雨都の優しい声だった。

 日向は唇を噛み締める。

 振れないけれど、首を左右に動かして、雨都の両手を優しく包み込む。

「うっちー……辛かったね?きっと、あなたのことだから、ずっと……言わ、ないつもりだった、んでしょ?あたし、気がついてあげ、られなくって、ご、めん」
 日向は声を絞り出した。

 雨都がフルフルと首を振る。

「私、なんてこと……」
 雨都がそう言うと、また力が緩んだ。
 けれど、圧迫しようとする力は止まない。

 きっと、雨都は必死に闘ってくれているのだ。

「違うよ、今のはうっちーじゃないもん」
 吸える限りの息を吸って、日向は強く言い切る。

「言わないつもりでいた言葉……大切にしてた想い……。それなのに、こんな形で言わせるなんて……!許せない!」
 日向は普段は見せないような鋭い眼差しで雨都を睨みつけた。

 雨都の目を見据えて、その奥にいる、本当の悪人に叫ぶ。
「うっちー……雨都の中から、出てって!!こんな可愛い子に、こんなことさせるなんて、覚悟は出来てるんでしょうね!?」
 緩んできた力を逆手に取って、日向は思い切り雨都を押しのけた。

 勿論、堤防から落ちないように配慮はした。
 スポーツ測定判定Aは伊達じゃない。
 完璧に切れた。
 中身は子供っぽいし、顔も童顔だから、勘違いをされている部分が多分にあるが、日向は体育会系の人間だ。
 弱いものを守るという精神の元に動ける。
 今の行為、絶対に許さない。

「早く出て行きなさい!あたしだって、傷つけなくても締め上げることくらい出来るんだから!!」
 雨都の体だから、加減はしなくてはいけない。
 けれど、もし出て行かなかったら死んでしまうのは雨都だ。
 叫びながらも悩んでいるのは日向のほうだった。

「できるものなら、やってみろ」
 雨都の顔で、邪悪に笑って言葉を紡ぎだした瞬間、どこからかバッグが飛んできた。
 それが雨都の体にバフッと当たって跳ね返り、堤防から転がり落ちる。
 日向は何が起こったのかわからずに、怒っていた形相をぽかんとさせた。

「よっこらせっと……」
 そんな声がしたかと思うと、堤防に手を掛けて、雫が腕だけで縁から上がってきた。
 日向でも知っている、県内屈指の名門私立の制服姿で、雫はニコリと笑った。
「どういう状況かわかんないんだけど、オレのご主人様を締め上げられたら困るんさぁ」
 今までの緊迫した空気が嘘のように、雫の口調は普段どおりのんびり和やかだった。

 日向は呆気に取られたまま、停止している。

 雫は状況把握が出来ないため、困ったように頬をぽりぽり掻く。

 そうしている間に、雨都が立ち上がって、2人から距離を取った。
「あ……シズ様、うっちーの中に変なやつが入ってるの!!」
 慌てて日向はそう叫ぶ。

 雫はそれを聞いて納得したように頷いた。
「道理で……気配が違うと思ったんさぁ。良い度胸してるじゃん、雨都の中に入るなんて」
 状況を把握しても、余裕綽々な顔をして、雫が笑う。

 雨都の中に入っている人物が意地悪そうに笑ったのか、雨都の顔も歪んだ。
「この女の中にどれだけの汚いものがあるとも知らずに」

 日向はそう言われて、むっとした。
 全部、お前のせいだと叫ぼうとしたが、いつの間にか雨都との間合いを詰めていた雫の言葉に遮られる。

「だから、どうした?人間生きてりゃ、吐きもするし、クソもする。こんなにいっくらでも溜め込んじまう雨都ねぇの中が綺麗なほうがおかしいんだ。それでもな、溜め込んで辛いのに、口にしない雨都はすっごい綺麗なんだよな?わかる?わかんねぇよなぁ?わかんねぇだろうからさ、さっさと出て行ってもらえないかね?雨都の顔で、汚く笑うんじゃない。この人を穢すことは、オレが許さねぇ……!!」

 雫は左手を握り締めて、右手で雨都の首の裏をトンと叩いた。
 カクリと、雨都の体が傾ぐ。
 素早く体を受け止めて、優しく雨都の頭を撫でる雫。
「キサマも……おつるいの加護を受けし……者か」
 その言葉を口にして、雨都の体から、何か煙のようなものが霧散して消えた。

 それを見て、日向はようやく胸を撫で下ろした。
 急いで、雨都の元に駆け寄る。
 青い顔で、気を失っているのか目を開けてはくれなかった。

 雫はそぉっと堤防に腰掛けて、雨都を横たわらせた。
 雨都の頭を膝に乗せ、愛しそうに顔を覗き込んでいる。
 日向はそれを見て、ついつい笑みがこぼれてしまった。

「あんさ……」
 雫がその笑顔に気がついて照れたように目を逸らすが、すぐに日向を真っ直ぐな目で見つめて言った。

「雨都ねぇ、何言ったかわかんないけど、半分以上は……アイツのせいだから。う、雨都は!あんたらのこと、見守ろうとしてたんだ。淡雪くんの体だって元に戻そうとして必死だったし!だから、だから……嫌わないでやってよ。頑張ってたのに、報われないの、可哀想だ……」

 自分のことのように苦しそうに顔を歪める雫に、日向は穏やかに笑い返す。

「わかってるよぉ。うっちーは良い子だもん。……あたしが、無神経過ぎただけだから。嫌いにならないでって……あたしの台詞だよ……」

 日向は雫に言うのではなく、雨都を見つめてそう言った。
 優しく、雨都の髪を撫でる。
 青い顔のままだけれど、雨都がその感触がくすぐったいのか、顔の向きをにわかに変えた。



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