第44章  それは意味のない闘い


 ザザ……ザザ……と波の音が耳に優しい。
 この音を聞くのはずいぶん久しぶりな気がする。
 いや、実際久しぶりなのだ。
 1ヶ月も眠っていたなんて、自分が情けない。
 そのおかげで、眠りにつく前の、自分の体が壊れそうな感覚はなくなっていたけれど。

 淡雪は八朔の頭に手をかざした状態で、睨みつけた。
「……気配がないので、どこに消えたのかと心配していたんですよ」
 八朔は不敵な笑みのまま、そんなことを悪びれもせずに言った。
「そうですか。それはどうも」
 淡雪も負けずに笑い返す。
 八朔がこちらを向いた。眼鏡をかけ直し、静かに目が合う。
 真剣な顔になったかと思った瞬間、堤防を蹴り、細かくジャンプしながら間合いを思い切り広げた。
「せっかく不意打ちしたのだから、今やるべきでしたね」
 そう言ってもう一度眼鏡をかけ直す八朔。

 距離が開いたことで、胸を撫で下ろし、淡雪は視線を日向へと動かした。
 日向が嬉しそうに声を上げる。
「雪ちゃん!!」
「……あれ?ひな、どうして……」
 自分の存在の記憶は消したはずなのに、当たり前のように日向が淡雪の名を呼んだことに戸惑いを隠せない。
 こんなに大々的に登場しておいてなんだけれども。
 その声で、日向にもたれかかっていた雨都もぼんやりながら目を開けた。
「そりゃもう、愛ですよ、愛!!ね?うっちー」
 ブイサインと朗らかな笑顔。
 淡雪はその言葉に苦笑した。
 雨都はぼけーっとしたまま、コクリと頷く。
 意味がわかっているのかいないのかわからないが、雨都も淡雪のほうに目を向けてきた。

「おせぇんだよ、雪。何してたんだよ……」
 堤防まで走ってきて、安曇が堤防の縁に飛び移り、体を腕だけで引き上げてきた。
 タスッと堤防に足を落とすと、淡雪の横に並んで、呆れたような表情で尋ねてきた。
 正直に答えていいものかどうか迷ったが、別にいいかとそのまま答える。
「すまん。夕日の誓いも何もかも、台無しなんだが、寝てた」
「はぁ?!おま……寝てたって……な……!なんだ、それ、お前、おい、ふざけてるのか?」
「いや……ふざけてはいない……」
 思いっきり動揺している安曇に対して、淡雪は至って真面目な顔で答える。

 体の調子がおかしかったのだ。見逃してくれと、心のなかで呟く。

 安曇はまだ目を白黒させている。
「あはは、あっくん、ものすっごい心配してたんだよ、雪ちゃんのこと〜」
「うるせぇ、チビクロ。お前はボロボロ泣いてやがったクセに……」
「あ……駄目駄目、それ言っちゃ駄目だよぉ!」
「雪ちゃん、死んじゃったらどうしよ〜……なんてな」
「あ、あたし、そんな風に泣いてない……!!」
 安曇が泣きまねと日向の口調でからかうように言うと、日向は慌ててブンブン腕を振って否定した。
 雨都が日向の腕をかわすように、少しだけ体を離す。

「泣いたの?ひな……?」
 淡雪はすぐに近づいてしゃがみこみ、日向の頭を撫でた。
 色素の薄い大きな目を覗き込む。
 一生懸命、日向はブンブンと首を左右に振った。
「泣いてないよ、泣いてない」
 あまりに一生懸命なものだから、淡雪は表情を和らげる。
「そっか……心配かけてごめんな?」
 優しい声に、日向が嬉しそうに笑った。

 雨都もそれを横目で見てそっと目を細めて笑う。
「淡雪くん、大丈夫。あなたが無事なら、私たちの涙なんていくらでも」
「……いや、でも、ただ、眠ってただけなのに、みんなを泣かせちゃったって思うと」
「そうだ。おれたちの涙を返せ」
 困った表情の淡雪に対して、安曇が茶々を入れるように言ってくる。
「お前も泣いたのか?」
 間髪いれずに淡雪。
 安曇は当然のように言った。
「愛する雪のために、おれは脱水症状になるほど泣いた」
「…………そうか、ありがと」
 自慢げに言ってくる安曇がおかしくて、淡雪はこみ上げてくる笑いを抑えながら答える。
「信じてねぇな?」
 安曇がひきつり笑いで尋ねてくるので、淡雪も笑顔で頷いた。
 ちっと舌打ちをする。
 日向がざまぁみろ〜と下で言ったのを雨都が慌てて止める。

 淡雪はそのやり取りを見て思った。
 戻ってきた……と。
 1ヶ月も会っていなかったせいなのだろう。
 なんだか、やたらと懐かしい気分だった。

「さて……と」
 淡雪は姿勢を元に戻すと、
「ここでジッとしてるんだよ?安曇、2人を頼む」
 と付け加えて、すぐに八朔への距離を縮める。

 猛然とダッシュ。
 体が軽い。
 1ヶ月も眠っていたのが嘘のようだと思った。

「先生。アカツキを出してもらえますか?」
 拳を振り上げてそう声をかける。
 八朔は軽やかにかわし、後ろへ更に跳躍した。
 パンチが空を切って、淡雪は体重を乗せていた分、1歩2歩と前に無駄足を踏む。
「お出かけ中です」
 ニコリと笑って、訳の分からないことを言う八朔。

 淡雪は右手に力を集約させた。
 緑色の火花のような光が淡雪の右手を覆う。
 こんな風に具現化できるものだなんて知らなかった。
 それをある程度の大きさにしてから八朔に放つ。
 同じように八朔も左手を振るった。
 特に八朔の手には何の変化も見られなかったが、2人のちょうど中間あたりの位置で、何かが弾けた。
 バチバチ……と音がする。

「あなたに用はないんだ」
「そうでしょうね。でも、ぼくは君に用がある」
「ただ……利用されているだけでしょう?!」
 淡雪はそう叫ぶと、距離を縮め、八朔のスーツの襟を思い切り掴んだ。
「第三者を介入させる問題じゃない。はじめから、僕を狙ってくればよかったんだ!」
「……よく言う。逃げ出したくせに……」
「?!」
 次の瞬間、思わず淡雪は八朔の顔を殴ってしまった。
 眼鏡が飛んで、砂浜のどこかに落ちる。
 風が八朔に味方するように、淡雪に対して吹きつけてきた。

「元より、1000年前に、君が逃げなければこんなことにはならなかった。ぼくだって、こんなくだらないことに巻き込まれなかった。自然の理に反する体……それを倒すために持たされた、欲しくもない力。君が元凶だと言うのなら、ぼくはアカツキに譲らずとも君と闘う理由がある」
 八朔は淡雪を睨みつけて、朗々と言った。
 まるで、数学の授業の時のようにハキハキと。

「この騒動の本当の元凶は、君でしょう。君が諸家の娘さんを殺さなければ。殺した後に素直に捕らえられていれば。こんなところでのうのうと暮らしていなければ。それを全て見過ごして、アカツキを消すのですか?自分には不都合だから」
「違う……話があるんだ、アカツキに……」
「聞く耳持ちませんよ、彼は狂気の中にいます。そんな状態で1000年ですよ? もう、正気など残ってはいない」
「それでもいい。霧との約束だ。僕が、決着をつける」
 全く取り合わない八朔を淡雪は睨みつける。

 八朔の体を引き寄せると、またもや口を開いた。
「君のために、ぼくの先祖はみな苦しんだ。突然、力に目覚め、あんな悪意の塊が頭の中に住み着き、人の記憶を喰っていなければ、自分を保つこともできない」
「だから……それを終わらせる……!」
「自分が消えようとは思わない?」
「思わない。幸せを願ってくれる人がいるのを知ったから。共に歩こうと言ってくれる人がいるから。僕は、もう2度と、自分から投げ出したりしない!」

 淡雪の意志は揺るがない。
 なんと罵られようと、蔑まれようと、これから先に広がる未来のために闘うと決めた。
 ただ、ぬるま湯に浸かって、都合が悪くなったら逃げ出してしまえばいいと。
 言い方は良くないけれど、核をついて言ってしまえば、そんな状態で過ごしてきた淡雪の譲れないもの。
 それは自分の居場所。自分の想い。自分の大好きな人たち。
 きっと、自分など、消えてもどうってことはない存在なんだと思っていた。
 意味のないまま、フラフラと生きて、時が流れるのを見送って、いつか死ぬ。
 死ぬために、生きた……生きてきた、この約1000年という時。
 長かった。
 ただ、歩き回り、使いようもない知識を吸収することに熱中したこともあった。
 将軍に仕えて、戦場を駆けずり回ったこともあった。
 眠り続けたことも、働き続けたことも……。
 そうして、見つけた。
 ようやく見つけたのだ。
 自分が、優しくなれる場所を。
 日向の先程の笑顔を思い出して、淡雪は自分の心を奮い立たせる。
 安曇の相変わらずの減らず口を。雨都の優しい眼差しを。
 それを護るのは自分。
 それが、淡雪の原動力。

「そうか……そんなにまで、固い信念を持っている……」
 八朔はなぜか嬉しそうに笑った。
 淡雪はその笑顔が不気味すぎて、パッと手を離し、素早く後退した。
「水無瀬くん。アカツキに用があるのなら、ぼくを倒すことだ」
「なっ?!」
 八朔はネクタイを外して、ポイと投げ捨てる。
 焼け焦げた上着も脱ぎ捨てて、コキコキと首を鳴らした。
「本気で来なさい。ぼくは一族の使命に従い、君を倒すために全力を出そう」
「設楽家の……宿命……」
 淡雪は悲しくて目を細める。
 すると、呼応するように八朔が答える。
「……君の、抹殺」

 次の瞬間、八朔が高々と飛び上がり、紫色の光を左手に集約させた。
 淡雪は不意を突かれて、ギリギリでかわすのがやっとだった。
 頬を八朔の手がにわかに掠める。
 光が熱を発して、淡雪の脳が痺れた。
 八朔はすぐさま後退して、淡雪との間に距離を作る。
「ぼくの力も……脳に働きかけるものだ。ぼくの場合、記憶ではなく、幻覚・錯覚を起こさせる力だけれどね。君を殺すためだけに作られた、君専用の能力さ」
 淡雪は奥歯を噛み締めて堪えて、倒れこみそうになるのを踏みとどまった。

「……クソ……」
 淡雪は唇を噛んだ。
 こんなつもりではなかった。
 アカツキとは最悪の場合、闘わなくてはならないと思っていた……けれど、こんな事態は把握していなかった。
 決心が揺らぐ。

「優しい子ですね……駄目ですよ?消える気はないのでしょう?」
「雪ちゃん!」
 躊躇っている間に、八朔が眼前に詰め寄っていた。
 確かに、淡雪の目には遠くに立っているように映っていたのに。

 日向の声で我に返った淡雪は、決死の思いで右手を八朔の頭に当てようと振るった。
 どちらの力も、脳に作用させる力。
 そして、確実に仕留めるのは頭を狙うしかない。
 八朔も同じことを考えている。
 だからこそ、先程の攻撃も頬を掠めるほどの位置だった。

 淡雪の頭が掴まれた。
 なんとか、強引に頭を振って、にわかにずれた腕を弾く。
 右手の光を八朔に向かって放つ……が、当たりはしなかった。
 体勢を崩した八朔が砂浜に転がり落ちる。
 しかし、すぐに起き上がって、淡雪を見上げてきた。

「今のが……幻覚……」
「一瞬だけの目くらましでしたが、惜しかったなぁ」
 八朔はおかしそうに呟き、シャツのボタンが窮屈なのか、2つほどプチプチと外した。

 躊躇っている場合ではない。
 ここで、自分がやられるわけにはいかないのだ。
 このままではアカツキに、霧の言葉を伝えられない。淡雪の想いを伝えられない。

 淡雪は堤防の縁を蹴って、右手を高々と掲げた。
 バチバチ……と緑色の光が閃く。
 八朔もすぐに抱え込むように両手で円を作り出して、淡雪に向かって突っ込んできた。

「たぶん……これが最後でしょうね……」
 そんな呟きと共に、2人の拳がぶつかり合った。

 光が爆ぜる。
 その爆発にも似た勢いに、2人の腕が跳ねた。
 目の前では、緑と紫の光が相容れないようにぶつかり合っている。
 きっと消えるまでそのままだ。

 淡雪は唇を血が出るほど強く噛み締めた。
 右手が痺れている。
 けれど、おそらく、この光の向こうに八朔がいる。
 間髪を入れずに、右手に力を集中した。
 濃い緑色の光がパチバチッと音を立てて現れる。
 腕が思うとおりに動かない……けれど、構わずに肩から八朔のいるであろう位置に突っ込んだ。

 緑と紫の光が淡雪の感覚を鈍らせる。
 けれど、必死に意識を繋ぎとめた。
 死角を狙った攻撃でなければ、当たらない。

 光を貫き、淡雪は八朔の姿を捉えた。
 懸命に振り下ろされる右手。
 八朔も同じことを考えていたのか、左手を向けて待っていた。
 八朔よりも先に頭を掴む。
「……よし……!」
 思わず、そんな声を漏らした……が、次の瞬間、淡雪も同じように八朔に頭を掴まれて、脳へビリビリ……と電撃のようなものが流れ込んでくるのを感じた。
 自分の体が腐る夢を見ると、必ずと言っていいほど付き纏っていた、激しい高熱が脳の中を駆け巡る。
 淡雪は顔をしかめた。
 脳が溶けてしまいそうだった。
 自分の体なのに自分の体ではないような感覚。
 体から魂を引き剥がされるような……そんな感覚だった。
 今までのことが走馬灯のように駆け巡る。

 本当の両親。兄弟。当主。霧。アカツキ。山奥の小屋。
 逃げ出した先で親切にしてくれた人。たくさんの書物に囲まれた部屋。
 死線を共に潜り抜けた戦友。淡雪の異常な体に気がついて離れていった人々。
 海岸。日向との出会い。安曇とのやり取り。
 雨都の悲しげな瞳。挑戦的な雫。母親の屈託のない笑顔。

「……っああぁぁぁぁぁぁ!」

 淡雪の断末魔のような悲鳴が、浜辺に轟く。
 暗くなり始めた辺りの景色が、更に淡雪の目には暗く映った。

 八朔にもたれかかるような形で、砂浜へとぐしゃりと音を立てて、2人は倒れこむ。

 遠くで、淡雪の名を呼ぶみんなの声がしたけれど、淡雪の思考が、プツリと……途絶えた。



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