第46章 言伝
淡雪は腕の中で不気味に笑う日向を見つめることしか出来なかった。 日向がクックックッと、気味の悪い音を立てて笑う。 『まさか、こんなに簡単にいくとは思わなかった。この女の柔軟すぎる心が、逆に俺には好都合だったようだ』 声は日向なのに、全くの別人が話している。 無遠慮で無愛想な話し方……。 淡雪の大切な人は、そんな風に笑わない。そんな風に話さない。 いつでも、無計画で、けれど、相手への思いやりを決して忘れない……そんな愛らしさがあったから、みんなに慕われているのだ。 『はじめから、こちらにしておけばよかったな……。おつるいの娘は頑なで、とろいから、動かしづらかった』 淡雪の腕の中で両の手のひらを見つめ、楽しそうに目を輝かせている。 「あか……つき……」 眉を八の字にして、その名を口にした。 日向が目を細めて見下すように淡雪を見上げてくる。 『まぁいい。おびき寄せ……とはいかないまでも、ようやくタケルを捉えた。全く、どうやったのかは知らんが、突然気配を消しやがって……。設楽も捕捉に手間取るし、役に立たん』 そう言い終えると、ため息混じりに淡雪の腕を弾き、素早く立ち上がった。 淡雪も慌てて立ち上がる。 しかし、膝に力が入らずに、がくりと地面に手をついた。 まだ、ダメージが残っているのか、まるで1ヶ月前に眠りにつく前のような状態で、体が言うことを聞いてくれない。 「待て、アカツキ」 淡雪はぐっと拳を握り締めて、日向を睨みつけた。 日向は立ち去る素振りも見せずにそこに立っている。 見下すように冷ややかな眼差し。 『……ようやくだ。ようやく、お前を殺せる。これで、俺も……』 そう言い掛けたのだが、いつの間にか立ち上がっていた安曇が日向にタックルをかけたので、言葉を切ると、日向は軽やかに横にかわした。 タタンタン……と、軽い足音が夜の浜辺に響く。 かわされてバランスを崩した安曇はちっと舌打ちをし、踏みとどまって振り返った。 「ったく、いきなりなんだってんだよ……」 状況をわかっていなくても、すぐに動いてくれるのはさすがというところだ。 右は堤防。左は幅は狭いながらも溝になっている。 前には淡雪と雨都。後ろには安曇。 退路は残ってはいない。 淡雪は雨都に支えられた状態で立ち上がる。 雨都の表情がにわかに悲しそうに揺れたのが見えた。 「大丈夫。書記長が気にしないで。すぐに済むよ」 淡雪は雨都の肩を借りた手でポンポンとなだめるように叩いた。 穏やかな声に雨都がこちらを見る。 そして、困ったように答えた。 「こんな時まで、私の心配している場合じゃないでしょう」 そう言いながら、雨都は淡雪の腕を肩に掛け直し、日向を見据える。 淡雪は穏やかな声で日向に話しかける。 「アカツキ、話をしよう。その子の体で闘おうなんて思わないでくれ。そんなことをされたら、僕は何をするかわからない」 ふらついている体で淡雪は力を込めて言い放つ。 霧からメッセージを預かっている。 どうしても、話をしなくてはいけない。 その話し合いがこじれたら、日向の身はどうなるだろう……? 不安を振り払いながら、淡雪は1歩、また1歩と雨都とともに歩み寄る。 『そんな体でどうしようというんだ?』 日向の顔で不敵に笑う。 隙が全くなかった。 安曇も様子を窺ってはいるものの、飛び出すタイミングを逸しているようで、あまり日向と距離を詰めない。 アカツキは元々剣術の得意な少年だった。 だから、囲まれた時の闘い方も、スタンスの置き方も心得ているのだ。 また、更に付け加えると……。 堤防の上から、後ろにいたと思っていた雫が日向へと飛び掛った。 絶妙の不意打ち。 完璧に捉えたと雫も確信したように、日向のブラウスを掴む。 しかし、次の瞬間、日向の腕が雫の生成のベストに伸びた。 空いたほうの手で、雫のわき腹に拳を叩きつけ、空中で体勢を崩したのを見逃さずに懐に入り込むと、小さな背中に雫を乗せて、安曇に向かって放り投げた。 「げっ……!」 雫の差し迫った声。 その後に、ドフッと鈍い音がして、安曇と雫がもんどりうって地面に腰を落とした。 『まるで、俺の体のようだな。とても機敏な体だ』 嬉しそうに日向の顔で、アカツキは体を確かめるように右手を握ったり開いたりしている。 そう。日向は、スポーツ測定でAをもらうほど、身体能力が優れている。 下手をしたら、この場にいる全員がのされてもおかしくない。 安曇が雫を除けて、大慌てで立ち上がり、日向が逃げられないようにギロリと睨みつける。 しかし、圧倒的な力を見せながらも、日向は囲みを脱しようという素振りは見せなかった。 この状況を不利とは判断していないようだ。 しかも、先程、雫を投げ飛ばしたことで、それが確信へと変わったのは間違いない。 特に、淡雪の状態がフラフラなのだから、このチャンスをアカツキが逃す訳もないのだ。 『お前の体も怪我が治らなくなったようだし、もう設楽の力がなくとも、この娘の身体能力だけで十分仕留められるな。クックックッ……こんなに愉快なことはない……』 日向はおかしそうに笑いながら、淡雪のほうへ、1歩2歩と歩み寄ってきた。 ゆっくりと、悠然と。 表情には余裕さえ窺える。 『愛する女に殺されるなら、お前も満足だろう?』 淡雪は雨都の体にもたれかかるのをやめて、なんとか足に力を込める。 雨都を後ろに下がらせて、同じように1歩2歩と前へ出た。 ヨロヨロとしているのが、どうにも情けないが、仕方がない。 「アカツキ、僕の話を聞け。霧から、言伝を頼まれているんだ」 『何を馬鹿な……』 「本当だ。霧が、僕に頼んだ。お前を止めてくれと」 『……霧様は亡くなったのだ。そんな訳はない!』 日向が吼えた。 淡雪の言葉に、悔しそうに顔を歪めて、叫ぶ。 夜の浜辺に、少女の高い声がこだまする。 『仮に、霧様の言葉をお前が聞いたとして、なぜ、俺の前には現れてくれないのだ?!』 「お前が……気がつかないんだ」 『なんだと?』 「僕も……今まで気がつかなかったけれど、霧は傍にいる。いつでも、僕とお前の傍に……。ずっと、身を案じてくれていたんだ。頭を冷やして、耳を澄ませろ。お前なら、聞えるはずだ」 淡雪は訴えかけるように声をかける。 手を伸ばせば届く距離に日向の顔がある。 だが、次の瞬間、日向の顔が怒りに狂うように歪んだ。 淡雪は伸ばそうとした手を止めた。 『うるさい!うるさいうるさいうるさいうるさい……!!』 まるで、ヒステリーのような叫びだった。 日向がこんな風に叫んだところなど見たこともない。 次の瞬間、日向が淡雪の眼前に飛び込んできた。 淡雪はたまらずのけぞる……が、その隙をついて、見事に組み伏せられてしまう。 万全な状態ならこんなことにはならないだろう。 一応、淡雪もスポーツ測定判定はBだ。 けれど、相手が日向の体という躊躇いと、先程の戦闘のダメージでどうすることもできなかった。 淡雪は日向の顔を見上げて表情を歪めた。 日向が淡雪の顔を殴りつける。 左手で淡雪の体を押さえつけて、右手で何度も何度も淡雪の頬を殴った。 口の中に血の味が広がる。 殴られ、その殴られた衝撃でコンクリートに後頭部をぶつける。その繰り返しだった。 痛みで頭がおかしくなりそうだった。 けれど、決して日向から目を逸らしはしなかった。 「やめて!ひなたちゃん!!」 雨都が駆け寄ってきて日向の腕を押さえようとしたが、振り払われて堤防に体をぶつける。 雫がそれを見て、慌てて雨都に駆け寄る。 安曇も日向を羽交い絞めにしようと、後ろから手を伸ばしてきたが、淡雪がそれを制止した。 「あつも、手を出すな!」 「雪、何言ってんだよ?!」 「……これは、僕とアカツキの問題だ……。手を出すな」 「ひなたにこんなことさせられるか!」 「手を出すなと言ってるんだ!!」 言うことを聞こうとしない安曇に淡雪は激を飛ばした。 普段は出さないような鋭い声が、周囲に響き渡る。 安曇が顔をしかめた状態で引き下がる。 こういう時の淡雪は誰も止められないことを、安曇はよくわかっていた。 淡雪は唇をなめた。 気持ち悪くなるような鉄の味が鼻まで広がった。 まだ殴ろうとしてくる日向の右手を押さえて、溜まりはじめた口の中の血を吐き捨てる。 日向の右手が血で赤く染まっていた。 何度も殴ったせいか、皮も剥け始めていた。 「痛いよな、ひな……。可哀想に……。もう少し我慢してくれよ?すぐ元に戻してあげるから」 淡雪は優しく笑いかける。 笑うだけで、ズキリと痛みが走ったが、そんなことは構わない。 「アカツキ……」 淡雪は朦朧とする意識を繋ぎとめながら、日向を睨みつけて呼びかけた。 『霧様の仇を討つのだ。おつるいの奴らは、霧様の能力を高く買っておきながら、お前と逃げ出したことを知ってすぐに切り捨てた。それを知ったのは、霧様のご遺体を本家までお連れした時だ。亡骸さえ、弔いをする気はないと。全て、お前のせいだ。そして……止められなかった俺のせいだ……』 悔やんでも悔やみきれないように、日向の顔で、アカツキは眉間にシワを寄せて今にも泣きそうな顔をしている。 『霧様は、あんな悲しい死に方をするべき人じゃなかった!聡明で朗らかで、暖かな陽だまりのような人だった!!この娘のように、もっと、多くの者に愛されるべき人だったのだ!!お前にわかるか……人里離れた山の中に、あの方の遺体を埋めなければならなかった俺の悲しみが……!』 淡雪は日向の顔で、思いの丈をぶつけてくるアカツキを見上げて、すぐに目を閉じた。 苦しすぎる。 そんなことがあったことなど淡雪は知らなかった。 ただ、自分を責め、死を求めてここまで来た。 アカツキの悲しみなど知ることもなく……。 押さえつけていた右手を押し上げて、淡雪は最後の力を振り絞った。 馬乗りになっている日向の体を器用にひっくり返して、淡雪が今度は馬乗りになった。 けれど、押さえつけることはせずに、日向の体を起こし、そっと抱き寄せた。 アカツキを抱き締めずにはいられなかった。 ふらつきながらも、しっかりと腕に力を込める。 日向が驚いたように腕をばたつかせた。 それでも、淡雪は力を緩めない。 『な、何をする……?!』 「死ぬ訳にはいかない。霧とも、ひなとも約束したから。ごめんな……本当にごめん。死ぬ訳にはいかないんだ。殺してくれなんて言えない。でも、辛かったよな……」 霧にしたように、日向にするように、優しい声と優しい手で、淡雪はそっとアカツキに触れる。 殺そうと思えば殺せるのに、アカツキは何もしてこなかった。 驚いているのか、躊躇っているのかはわからないが……。 「復讐なんて、無意味なことは要らない。自分を責めるのも、僕を責めるのも、もうやめにしてくれ。霧は、僕との生活が楽しかったし、反対しながらも協力してくれるお前が大好きだった」 『…………』 「そう……言っていた……」 『なぜだ……』 苦しそうな日向の声。 悲しさと悔しさの入り混じった声だった。 淡雪は日向の顔が見える位置まで体を離す。 「え?」 『なぜ……憎い相手でいてくれない……』 日向の目からポロリと涙が零れ落ちた。 淡雪はその涙に驚いて、言葉を失った。 波の音が鮮明に聞える。 『馬鹿みたいじゃないか……。俺が、馬鹿みたいだ……。同情なんか要らない。どうして、どうして……仇でいてくれない?!憎むことでしか……俺は俺を保てないのに……』 「…………」 淡雪は言葉に詰まる代わりに、日向の涙を人差し指で優しく拭った。 たとえ、今話しているのがアカツキでも、日向の涙は見たくなかった。 けれど、拭っても拭っても、涙が零れてくる。 『いつもそうだ……』 「………………」 『俺は、お前が嫌いなのに……お前はいつも困った顔で、俺に笑いかける』 そこで一息つくように、ふぅ……と日向が大きく息を吐いた。 しゃっくりに似た嗚咽を必死に抑えようとしている。 『ガキの俺が……どんなに想っても、霧様は主でしかなくて……。いつでも……お前のことを優先して考えて……。そうして、どんどん立場を危うくされてゆくのを見てきたから……。だから……俺はお前を憎まないでいられなかったんだ……』 淡雪は目を細めて、日向の頭をそっと撫でる。 『それなのに……』 続いた言葉で、淡雪はふと手を止めた。 『どうして、お前は笑うんだ……。どうして……霧様みたいに、俺のことを抱き締める……?!俺を嫌えばいい。憎めばいい。そうすれば……そうすれば……』 アカツキは躊躇うように言葉を濁す。 「アカツキ……霧が、待ってるんだ」 淡雪はようやくそう口にした。 しっかりと抱き寄せて、耳元で囁く。 目は星空を捉えていた。 霧がそこで微笑んでいる。 「霧は……お前を待ってるって言ってたんだよ。生きている時に、お前のことを忘れてしまって……でも、ずっと、お前を待ってたんだって。もう……いいよ……。アカツキ、疲れたろう?僕が死んだらいくらでも殴っていいから、だから、もう……お帰り?」 霧がふわふわと風に揺られるようにしながら、2人の傍に降り立った。 夢の中のように子供の姿じゃない……大人の姿で笑っている。 霧は屈みこんで日向の頭をそっと撫でると、『アカツキ』と唇を動かした。 日向が驚いたように周囲を見回す。 けれど、霧の姿が見えないようで眉をひそめる。 淡雪はそっと日向の体を離して、霧のいるほうへ向けさせた。 今度はしゃがみこんで、霧が笑いかける。 日向の肩に触れて、優しい顔で何かを言った。 日向の目がとろけるように細まる。 『霧……様……』 愛しそうな声。 そして、淡雪は見た。 霧がアカツキの手をしっかりと握り、日向の体から引き抜くのを。 霧が淡雪に手を振り、また星空へと帰ってゆく。 「またね、霧……アカツキ……」 2人を見送り、淡雪はポツリと呟いた。 安心したせいか、出血がひどいせいか、突然視界が揺らいだ。 目の前で日向の体もカクリと傾ぐ。 淡雪は朦朧とする意識の中、必死に日向を庇って倒れこんだ。 ザザ……ザザ……と、遠くで波の音が聞える。 淡雪は笑みを浮かべて、最後に思った。 これで……ずっと、君といられる……と。 |
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