第47章  全てを繋ぐ絆


 突然入り込んできた、日向ではない意識に日向は戸惑いを隠せなかった。
 遠くで淡雪が悲しそうに顔を歪めている。
 そして、自分の喉から発される、自分ではない者の言葉。

「やめて……」
 日向はすぐ傍にいた、黒づくめの男の袖をギュッと握って訴えた。

 男の肩には、いつか夢で見た、黒い獣の姿がある。
 けれど、襲いかかってくる気配は見られない。
 まるで、淡雪に声を掛けるのに集中しているように、時折、日向が発する声にピクリと動くだけだ。
 男も同様だった。

 日向は男に近づいて、両腕をガシリと掴む。

「お願い……雪ちゃんをあたしから取らないで!雪ちゃんがあなたに何をしたのか知らないけど……あたしには、雪ちゃんが必要なの!!」

 そう叫んで、男の体を揺さぶるが、大した反応を見せない。

 日向は泣きそうになった。
 男が目を開けて、日向を見下ろしてくる。
 目が合った瞬間、日向の意識に誰かの記憶が流れ込んできた。




 実際は見たこともない、寝殿造のお屋敷の門を、体の小さな少年がたった1人、毅然とした表情で叩いている。
「こんにちは!暁と申します!!父の紹介で来ました。霧お嬢様に、お目通り願えないでしょうか?」
 その声に、門がゆっくりと開き、ヒゲを生やした少々野暮ったい顔つきの男がアカツキを見下ろす。
「なんだ……まだ、ガキじゃねぇか。……ん?いや、ガキじゃなければ出来ぬか。お嬢様の世話など」
 からかうような笑みを浮かべて、門番らしき男はおかしそうに笑っている。

 諸家は、学者の家系として有名なおつるい家の分家ではあるが、実力を認められて、貴族としてそれなりの地位についている家だった。
 女性は容易に出歩けるものではなく、屋敷で通ってくる貴族の男を待つのが通例。
 男はよっぽどのことがなければ、目通りなど許されない。
 けれど……この家のお嬢様はよく外出をするのだそうだ。
 そして、その外出の時のために、どうしても1人はお供が必要なのだ。
 お嬢様自体は要らないと言っているのだそうだが、家としてはそういう訳にもいかないようで、子供の年齢でそれなりに護衛が勤まる者を探していた。
 それで今回声がかかったのが、アカツキだった。

「タヒト、通すのであれば、早くその子を通しなさい。そうやって、すぐに訪問される方をからかおうとするのはよくない」
 と、男装をした女性が呆れたように男に声を掛けてきた。
 タヒトと呼ばれた男が慌てて振り返る。
「こ、これはお嬢様……またもや、お出掛けですか?」
「いいえ。ちょうどそこを通りかかったら、声がしたので」
「恐れながら申し上げますが、出かけるのはそろそろ控えられては……。お父上も叔父上も、もうあちらの山荘には行く必要はないと仰られております。あなたとて、大事な姫君。貴族の方々から便りが来ないわけでもないでしょう」
 タヒトは神妙な面持ちでそう言ったが、お嬢様はとても不機嫌な顔をして言葉を返す。
「……顔も見たことのない男の手紙など、読む気はしません。気分を害しました……。えぇと、アカツキでいいのかしら?」
「はい。暁です。よろしくお願いします」
 視線がこちらに向いたので、アカツキは無愛想ながらも、一応の礼儀で答えた。

 とても美しい顔立ちの女性だった。
 貴族のような上品さがあるわけではなかったが、内から湧き上がる溌剌とした力のようなものを感じるほど、表情が生き生きとしている。

「そう。わたしがあなたのお世話になる霧です。さぁ、いらっしゃい」
 朗らかに笑うと、アカツキの手を取って、軽やかな足取りでずんずん歩いてゆく。
 霧と頭1個分ほど差があるアカツキは、その速度についてゆくのがやっとだ。
 握られた手が熱かった。

 アカツキは無表情のまま、霧を見上げる。
「いくつ?」

 目が合って、すぐに霧が首を傾げて尋ねてきた。
 目線を逸らしてすぐに返す。

「もうすぐ10になります」
「そう……。羨ましいなぁ。あなた、東堂様のところのご子息なんですってね。有名な武人だわ。一度は会ってみたい方のお1人」
「は……。俺も父を尊敬しています」
 父の話題が出て、アカツキは少しだけ表情を緩めてそう返した。

 それを見て霧がにわかに笑い声をあげたので、アカツキはまた霧を見上げる。
「ようやく、子供らしい顔をしてくれたと思って」
 何気なくそう言って、優しい眼差しで笑うと、霧は立ち止まってそっとアカツキを抱き締めてきた。

 アカツキは慌てて、体を反らせるが、そんなのは大した抵抗にはならない。
 優しい手で、ポンポンとアカツキの背中を叩くと、耳元で霧の声がした。

「小さいのに偉いね。1人でこんなところまで来るのは、心許なかったのではない?」

 幼子をあやすような声だった。

「……そんなことを言っていては、父のような武人になれません」
 アカツキは霧の体温を気持ち良いと感じながらも、ドンと体を押して、慌てて離れる。

「そう?寂しい時は寂しいと言える素直さを持った人のほうが、わたしは強いと思うのだけど」
 霧は苦笑してそう言うが、アカツキは今度は顔を上げなかった。

 霧が困ったようにため息をついて、1人ごちる。
「大体、こうやれば、今までの子とは仲良しだったのだけれど」

 そりゃ、あなたのように綺麗な方に抱き締められたら、幼くても心を揺さぶられるでしょうから……という言葉を口にはせずに飲み込む。

「わたしだって、こうされて、仲良くなったのよ、タケルと……」

 タケルというのが誰だか分からずに、アカツキはひとり言のような霧の言葉に心の中で首を傾げる。

「霧お嬢様は……」
「霧でいい」
「霧様は……」
「霧でいい」
「…………霧様は、少し自分のことを自覚なさったほうがいい」
 呼び捨てで構わないという霧に対して、アカツキは譲らずに返す。

 霧はその言葉の意味よりも、霧と呼び捨てにしてくれないことに不満なようで、それなりにいい年だろうに、唇を尖らせた。
 けれど、そこから何も言おうとしないアカツキに業を煮やしたのか、仕方なさそうに髪をかきあげて立ち上がる。

「ま、いいか。部屋に案内します。いらっしゃい」

 アカツキはその言葉に頷きだけ返して、霧の後に続いた。

 今度は手を握ることはなく……。

 ただ、アカツキは先程まで握られていた右手に、微かな寂しさがこみ上げるのも感じていた。




 日向はそこで我に返った。
 男を見上げると、男はまたもや目を閉じる。

 遠くで顔を血まみれにした淡雪が笑っている。
 優しい目で、日向の手をさすりながら、心配するように目を覗き込んでくる。
 日向はその姿があまりに痛々しくて、目を逸らして叫ぶ。
「お願いだから、やめて!」

 雨都はこの男の支配に抗えたのに、日向はどうすることもできない。
 見えた記憶に同調してしまったのがよくなかったのかもしれない。

『……お前の心は澄んでいる……』
 今まで特に反応を見せなかった黒い獣が突然そんなことを口にした。
「え……? しゃべ……?!」
 日向は驚きを隠せずに目を見開く。

 獣はおかしそうに笑った。
『澄んでいるというよりも……無垢すぎる……。だから、簡単に入り込まれてしまうんだ』

 白い紙が塗りつぶされてゆくが如く、容易に色を変えられる。
 表情がクルクル動くのも、場合によって色々な側面を見せるのも、日向が純粋で柔軟な心を持っているからこそ。

『お前は……媒体として、十分すぎる。これからは気をつけることだな』

 『これから』という言葉が気になって、日向は眉をひそめて首を傾げる。
 獣はククッと笑い声を立てると、続ける。

『コイツの意志が止まる。すれば、俺もじき消える。最後にお前を選んだのは、アカツキにとって、幸運だったのか不運だったのか……。どうであれ、俺はお前に感謝する』

 低い声は優しかった。
 以前見た夢で襲い掛かってきた時のような殺気は微塵もない。

「どういうこと?」

『アカツキが止まらないのは、ヤツの中で暴走した狂気のせいだ。狂気が薄まれば、俺はそのまま消えるだけ……。お前の純粋さが、タケルと話をするだけの心の余裕をアカツキに与えた。アカツキの感情は、はじめから悪意に根ざしていたわけではない。聞く耳さえ持てば、説得も出来る……』

 白い絵の具は修正の色。
 原色を薄め、時に上から塗りつぶす。
 決してそのものを白には出来ないけれど、柔らかい色を作り出す天才だ。
 染まりやすいが、反発もない包み込む力を持ったもの。

「あたし……」
『お前の心は、霧と似ている。強く、暖かく、溌剌としている。タケルが惹かれたのも……アカツキがお前を媒体に選んだのも、頷ける』

 日向は獣とアカツキを交互に見上げた。
 アカツキも目を開けて日向をもう一度見つめてくる。

 神聖な光が周囲を包み込んだ。
 日向はその眩さに目を閉じる。

 徐々に光が柔らかくなり、目が慣れてきた日向もそぉっと目を開けた。
『アカツキ』
 大人びた女性の澄んだ声が聞える。
 アカツキが驚いたように周囲を見回した。
 日向の目には先程、垣間見た記憶の中の女性が目に入った。
 表情がとても朗らかだ。

『ようやく……わたしの声が届いたのね。ありがとう、ひなた……。他の人たちにも、よろしくと伝えてね。さぁ、アカツキ……行きましょう?』

 アカツキに手を差し伸べると、ようやくアカツキが女性の姿に気がついて、情けない表情で手を取った。

「……この手を、ずっと……捜していたのかもしれません……」
 布に覆われてくぐもった声が、寂しげに揺れる。

 女性はニコリと笑って、光を放った。
 またもや、眩しさに目を閉じる。
 余韻が消えて、目を開くと、そこにはもう誰もいなくなっていた。



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