第48章 調和と幸せ……何気ない、日々
淡雪は病室のベッドでパラパラとお気に入りの詩集に目を通していた。 絶版になっていて、ハードカヴァーでの入手を諦めていた、古びた詩集だ。 日向と名古屋に出た時に、小さな古書店で見つけた。 あの時の淡雪の喜びようといったら、日向でも目を丸くしたほどだった。 詩集から目を上げて、淡雪は窓の外を見つめた。 窓の外は少しずつ彩を変え始めた山々が広がっている。 こんなに穏やかな気持ちで、景色を見つめるのも久しぶりな気がした。 一体どれくらいの時間、苦しみの中にいたのだろう。 日向が隣にいても、解き放たれなかった不安。 それが、今の淡雪の中にはない。だから嬉しかった。 治りの遅い体にもどかしさを感じながらも、これが元の自分の体だと胸を撫で下ろす。 あの日から淡雪は5日間、意識不明が続いて、目を覚ましたのが5日前。 入院して、もう10日が経とうとしている。 雨都から聞かされた、淡雪の体が元に戻ったのは……『文字を用いた暗記を淡雪が最近好んでいたのが原因』らしい。 元々、暗誦・口伝えで身につけることを常としていた能力だったから、視覚まで用いてはいけなかったらしい。 それによって、淡雪の驚異的な記憶力が少しばかり衰え、常人と同じ体へと戻った。 体が腐る夢や変調をきたす肉体、そして、長い間眠りこけてしまっていたのはそれに伴う体の変化を、淡雪の体が必死に受け入れようとしていた結果だろうと雨都は言った。 記憶を操る能力も消え、残ったのは驚異的な記憶力と、何気ない日常。 淡雪の望んだ、ただそこにあるだけでいいものたち。 「はい、剥けた」 脇でリンゴを剥いていた雨都が笑顔で小皿に乗せたリンゴを、ベッドのテーブルに置く。 私服も秋物に替わっていて、ここでも淡雪は季節が移ったのを感じた。 個室ではないのだけれど、最近、入院者が少ないそうで、淡雪が入院している大部屋は淡雪しかいない。 淡雪はパタンと本を閉じると、ニッコリと笑いかける。 「ありがと、書記……あ、雨都ちゃん」 「無理して呼ばなくてもいいのに」 「はは……」 照れたように目を逸らす雨都を見て、淡雪もなんだか恥ずかしくなって笑った。 右腕は擦り傷だらけ。顔は左半分が打撲のうえに、目の上も切れていた。 後頭部からも出血していて、これで喧嘩じゃないと言い張るのは大変だったと安曇が愚痴っていた。 病院に駆けつけた両親の取り乱しようは言い表せないほどだったそうだ。 淡雪は左手でリンゴを摘むとひょいと口に運ぶ。 「まだ、リンゴの季節には早いと思ったけど、美味いねぇ」 モグモグ口を動かしながらそんなことを言う。 口の中が切れていたのだけは、なんとか昨日完治した。 ようやく、まともに物を口に運ぶことが出来た。 雨都がおかしそうに笑って答える。 「そりゃ、わざわざお取り寄せしたもの。早く直ってもらわないと修学旅行に一緒に行けないでしょう?」 「修学旅行か……今年も北海道かな?それなら、僕は10回目だ」 「あ、そっか。じゃ、案内は淡雪くんに任せる」 雨都が嬉しそうに笑うので、淡雪はたまらず苦笑を返した。 「班決めとかはそろそろ始まった?」 「ええ。日向ちゃんのゴリ押しで、見事に私たちは同じ班決定」 雨都もリンゴを取ると、ぱくつく。 思っていた以上に美味しかったようで、珍しく満面笑顔になった。 「じゃ、僕が退院したら、色々細かい打ち合わせか」 「ええ。頑張ってね、委員長」 「なるべく、旅行中に苦労しないように細かく決めておくよ」 そう答えて、またもやリンゴを放り込む。 突然、大部屋の扉が勢いよく開いて、日向が飛び込んできた。 ソフトボール部専用の白と青のジャージ姿。 顔には少し砂埃がついていた。 「雪ちゃん雪ちゃん雪ちゃん!!」 慌しい声で叫んで、淡雪に勢いよく抱きついてきた。 勢い余って、淡雪の頭にごつんと頭がぶつかる。 まだ直りきっていない打撲の部分がジーンとしたうえに、リンゴを喉に詰まらせた。 ちゃんと抱き返してあげながらも、ゴホッゴホッとむせる。 「やったよぉ、新人戦、県大会行けるのぉぉぉ♪昨日の試合1点差で負けちゃって、駄目かと思ったんだけど、今日、ぐっちょんのサヨナラホームランで勝ったぁぁぁ。右手が上手く使えないから、本当に今日負けたらあたしの責任だぁぁぁって思ってたからよかったよぉ……」 「そっかそっか、よかったな。県大会は見に行くよ。その頃にはひなの手も直って、万全で戦えるだろうし」 リンゴを喉に詰まらせたダメージで涙ぐみながらも優しく声をかけて、よしよしと頭を撫でる。 日向は本当に嬉しいようで、淡雪のそんな様子には目もくれない。 雨都が脇で苦笑している。 日向の右手は、淡雪の顔と一緒にコンクリートまで殴っていたせいで、手の甲の皮が擦れてしまっていた。 感覚がおかしくなるのは仕方がない。 「こ・の……チビクロ……バッグをおれに投げつけやがって……」 ゼェゼェと息を切らして、日向よりだいぶ遅れて安曇が病室へと駆け込んできた。 怒りに任せて、日向のスポーツバッグをバフッと床に投げつける。 「おぅ、代わりに応援行ってくれてサンキューな」 淡雪は日向から体を離して、安曇に手招きをする。 安曇は不機嫌そうにぷいとそっぽを向いて、窓際の椅子を選んで座った。 「?あ、あれ……どうした?」 「たまには、雪離れもいいかと思う、今日この頃だ」 「は?」 「いいのいいの、気にしないで、雪ちゃん」 「ん……ああ」 意味がわからずに首を傾げる淡雪に、日向が雨都の横の椅子に腰掛けて、取り繕うように笑った。 とりあえず、淡雪も一瞥送ってから、日向と雨都のほうに向き直る。 淡雪は試合の様子を尋ねようと、日向にどうだった? と言った。 ただ、日向は状況の説明が上手くないので、本当は安曇に尋ねたかったのだが……。 日向が『んっとね……』と口にして、考えをまとめるように天井を見上げた。 その時、また別の声が病室に入ってきて、日向の代わりにその問いに答えた。 「ひなちゃんが立ち上がりを叩かれて、1・2回に5点取られた。まぁ、その右手であれだけ投げりゃ上出来だと思うけどさ。その分、攻撃の時にバントで出塁してチャンスを広げたのもひなちゃん。5回に4点取り返して、その後、ひなちゃんがコントロールに苦しんだけど、味方のファインプレーで失点は免れ、残すところ最終回。体力的に弱っていたピッチャーの失投を見逃さずに、4番のキャプテンさんが見事に走者一掃の大ホームラン!!……ってところかな。見てて楽しかったよ。はじめはハラハラしたけど。ひなちゃんは、精神的に崩れることはないんだね。それがすごいと思ったさぁ」 雫がコスモス片手に淡雪のベッドへと歩み寄ってくる。 「道端見たら咲いてたからさ。もし嫌いじゃなかったら見舞いだよ」 ズズイと差し出してくるので、淡雪もありがとうと笑って受け取った。 雨都がすかさず、花瓶と言って立ち上がったけど、それは雫が止めた。 雨都も従うようにすぐに腰を下ろす。 「押し花にでもして、栞に使いなよ。大層なもんでもないけど」 「いや……コスモスは好きだよ。秋の、桜だものな」 淡雪はそっと大きい紙でコスモスを包むと、ベッド脇にある棚の上に置いた。 膝に置いていた本を優しく乗せる。 雨都が思い出したようにみんなに言った。 「コスモスの花言葉は……調和……。今の私たちにはぴったりな花かも」 と。 その部屋にいる誰もが目を細めて笑う。 ただ、安曇だけは背中しか見えないので窺うことはできないが。 「調和ねぇ……ま、色々あったけど、丸く収まったんだもんな。いまいち、詳しい話がわからないまんまなんだが、おれは」 ようやく安曇がそう言ってこちらを向く。 ニヤリと笑って立ち上がると、淡雪のベッドの近くにあった椅子にどっかりと腰掛けた。 「今日のひなた、へろへろだったぞ。そりゃねぇだろうってくらいに。ったく、控えのピッチャーくらい置いとかないと来年大変なんじゃねぇのか?」 「わかってはいるんだけど、なかなか育たないんだよぉ。ソフト部マネ合わせて20人だから、他の高校よりは恵まれてるんだけど、あたし以外のピッチャーの子は、他のポジションも掛け持ってるから」 安曇の指摘にぶぅ垂れて、日向は答えた。 茶化しの入った口調だったのに、珍しく日向がまともな反応を返す。 いつものように口喧嘩にならなかった。 「なんか、変な感じだなぁ」 淡雪がぽつりと漏らす。 雨都がその呟きに笑いながら、 「これも調和かな」 と言った。 本当のところはどうだか知らないけれど。 雫が思い出したように声を出して、淡雪のベッドに腰を下ろす。 「そうそう。ほっちゃんと雨都ねぇの兄貴、知り合いだったんだって」 「へぇぇぇぇ」 日向が感心したような声をあげる。 「だから、雨都ねぇが梅雨の時に、ぶっ倒れたって話も知ってたんだなって、今更納得」 鼻を人差し指でこすると、雫が柔らかく笑う。 その表情を、雨都も優しく見守っていた。 雫は、しばらく何かを考えるように俯いていたが、よっこらせっと立ち上がると、ベッドを回り込んで雨都の手を取った。 「最近、ここにばっか来てるらしいけど、雪くんだって休めないじゃん。今日は、雨都はこのへんで帰ろ」 「え?でも……」 名残惜しそうな顔をする雨都に対して、雫は目を細めて言った。 「帰るの!オレ、腹減ったよぉ。飯食ってから帰るから、シチューとオムライス!シチューはシーフードで、オムライスは半熟!さ、行こう♪」 「え……ちょっと、しずく、ま、待って……バッグ……」 「ったく、雨都はとろくさいんだから」 わたわたと棚に置いておいたバッグを取ろうと、雨都が戻ろうとするのを見かねて、肩越しに雫がバッグを掴んだ。 これでいいんだろと言わんばかりの表情で笑うと、肩にバッグを担ぐ格好で、雨都を強引に引っ張っていく。 「あ、淡雪く……じゃない、みんな、さよなら」 なんとか見えなくなるギリギリのラインで、雨都は手を振って消えた。 淡雪と日向がぽかーんとして見送る。 「相変わらず、シズ様は可愛いなぁ……」 そんなことを口走る。 日向に可愛いなどと言われたことを知ったら、雫は烈火のごとく怒るような気がする。 淡雪はテーブルの上に残った、リンゴの乗った小皿を持って、2人に勧めた。 「お取り寄せ品だって言ってた。美味いよ」 勧められるままに日向が1つ手に取って、口に放り込む。 シャリシャリという音が聞えた。 ゴクンと飲み込んで、ぱぁっと表情を明るくさせる。 「本当に美味しい〜。高いんじゃないの、これ……」 そう言いながらも、もう1つと手を伸ばした……が、それよりも早く安曇が小皿ごとひょいとリンゴを奪い取った。 「あ〜、卑怯だよ、あっくん〜」 「おれも腹減ったから帰る」 無愛想にそう言い、リンゴを口の中に放り込む。 小皿を返してくれる気配はなかった。 「名残惜しいが、これで帰るぞ、雪。今度はチビクロがいない時に来る。小うるさくてかなわん」 まだリンゴの乗っている皿をヒラヒラと振ると、リンゴを食べながら部屋を出て行った。 「あつも、母さんがもしよかったらお前の分も弁当作るって言ってたぞ!僕がいない分をいっつも忘れて作っちゃうからって」 少し大きな声を出したら、顔と後頭部がズキリと痛んだ。 もう行ってしまったのかなかなか返事がない。 ……が、しばらくしてから扉からひょいっと顔を現し、嬉しそうに笑った。 「そりゃ助かる。きんぴら多めでお願いしますよ、雪乃ちゃんってお伝えください」 涼やかに笑うと、今度こそ帰っていった。 淡雪がなるほどなぁと頷く。 何がなるほどなのかわからないように、日向が首を傾げるので、淡雪は苦笑しながら返す。 「アイツがマダムキラーなのはこのせいかと思っただけ」 「マダムキラー……」 その言葉にぷっと吹き出す日向。 とりあえず、雪乃と日和の心を掴んで離さないのは、ああいう何気ない口調での我儘が様になるからなのだ。 甘えるところは甘えて、やるところは自分でやる。 そういうメリハリが、安曇は天然で出来ている。 そういうことかと、今更ながら納得したのだ。 うんうんと頷いていると、突然グゥゥゥゥ……と腹の虫が鳴いた。 淡雪ではない。 すぐに日向に視線を移す。 恥ずかしそうに顔を赤らめて、お腹を押さえている日向。 はは……と淡雪は笑い声を漏らす。 「笑うなんてひどいよぉ……」 「いつも、腹減ったとか普通に言うじゃないか」 「そ、それはいいの!お、音聴かれるのが恥ずかしいんだよぉぉ」 いじけたように頬を膨らませて、日向はまだお腹を押さえる体勢でいる。 恨めしそうに入り口のほうを見つめて、 「うぅ……あっくん、ひどいよぉ、全部持ってくなんて」 と泣きそうな声で言う。 「ひなもそろそろ帰ったら?試合が終わって安心したから、腹減ったんだろ?」 淡雪は気遣って言ったのだが、その言葉を聞いた途端、日向が更に機嫌悪そうに頬を膨らませた。 訳がわからず、淡雪は首を傾げるしかない。 「うっちーはいいよね。いつでも来られるから。あたしは……部活で忙しくて、全然来られないのに……」 「あ…………」 「それなのにさ」 「ひな……」 「ああ……ヤダ。こういうのヤダ。ごめん、あたし、今、ヤな女みたいなこと言った」 ブンブンと首を振ると立ち上がり、安曇が床に投げつけてそのままになっていたスポーツバッグを拾い上げる。 「今日は帰るよ。雪ちゃんも、疲れてるもんね」 寂しそうに笑う日向に、慌てて淡雪はベッドから降りて駆け寄った。 ソフトボールをやりやすいように、1つにまとめた髪が微かに揺れている。 後ろから頭一個分以上小さい日向を抱き締めた。 細い肩。 「雪ちゃん……」 日向が驚いたように小さな声で名を呼んだ。 「全く……。わかってるだろ……僕はお前しか見えてないって」 顔が見えない位置で、顔を赤らめながら、淡雪は言う。 「だって……雪ちゃん、みんなに優しいから……」 「大好きだよ、ひな。まだ、言ってなかったけど、無事でよかった……」 「…………それはこっちの台詞だよ…………。あたし、自分が乗っ取られた時、雪ちゃん、殺しちゃったら……どうしようって……」 日向は右手を左手でさすっている。 10日経っても、まだ消えない傷。 自分の意志ではないにしろ、殴りつけてしまったのは自分の手だったから、きっと不安だったのだろう。 声が泣きそうになっているのに気がついて、淡雪は大丈夫大丈夫と言い聞かせる。 「このくらいの傷、僕の顔が変形するだけだよ」 けろりとそんなことを言うと、日向も不意を突かれたのか、軽く吹き出した。 「あ、ひどいなぁ……変形はまずいんだぞ。一応、平均値越えた顔なんだから」 「だって……なんか、雪ちゃんってずれてるんだよね、時々……」 「お前に言われたくないな……」 日向の言葉に、淡雪は眉を八の字にして言った。 日向が淡雪の腕にそっと触れて、くるりとこちらを向く。 甘えるように見上げてくる。 なんとなく、淡雪は日向の訴えてくることがわかって、そっと日向の顎を左手で傾かせた。 「今度は、ちゃんと息するんだよ?」 「むぅ……こんな時まで……」 そっと目を閉じて、今度こそ、しっかりと日向の唇に重ね合わせる。 雨の中ではない。 静かな病院で、音もなく、淡雪は日向のぬくもりを確かめるように、抱き締める力を強めた。 季節が移り変わってゆく。 日向と迎える10度目の秋がやってくる。 日向と初めて行く修学旅行も目の前だ。 こうして、どんどんどんどん積み重ねてゆく、かけがえのない時を淡雪は大切にしたいと心から思った。 平凡で、つまらなくてもいい。 今、腕の中にいる、この少女を幸せにするために、出来ることを、少しずつ考えてゆきたいと思っていた。 きっと……自分はこの人の手を離さないから。 「大好き、雪ちゃん……」 唇を離すと、日向が少し艶っぽい表情でそう言った。 |
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