第7章  心のざわめき

 香里が眠い目をこすって、むくりと起き上がった。
 部屋を見回すと、ランプの明かりに映し出されて、すぐ傍に智歳がいた。
 ベッドに伏して、香里の手を離すこともなく、あどけない顔で眠っている。
 香里はぼーっと無感情な瞳でそれを見つめる。
「香里」
 隣のベッドで笛を吹いていた璃央が声を掛けた。
 香里はゆっくりと璃央に視線を動かす。
 言葉を発することなく、璃央を見つめるだけ。
「王妃の命を救うために、貯まっていたエネルギー全て放出してしまったのだろう?御影様のために、また、エネルギー貯めなくてはね」
 璃央は目を細めて笑うと、そう……低い声で告げる。
 香里はその声に反応するように掛けられていた布団をどかして、床に素足を下ろす。
 木靴を丁寧に履いて、フラフラしながらドアに歩いてゆく。
「香里」
 その声でフラフラと香里が振り返る。
 璃央はニコリと笑って、
「気をつけてね」
 と言うと、そっと横笛に口をつけた。
 美しいメロディが部屋に広がる。
 香里はコクリと頷いて、カチャリとドアを開け、夜の町へと出た。
 それは葉歌がさらわれる約一時間前のことだった。



 璃央は抱きかかえていた葉歌をベッドまで運んできてそっと下ろした。
 徐々にベッドに埋もれてゆく細い体。
 すぐに智歳が掛け布団を掛ける。
 じっと葉歌の顔を見つめて、璃央は思いを馳せるように目を細める。
 ……似ている……。
 璃央が思いを寄せる主と顔立ちが似ていた。
 先日会った時に感じた雰囲気・立ち居振る舞いは『今』の主とは全く違ったけれど。
 愛想よく笑ってくれる葉歌に、思わず本音がこぼれてしまった自分。

『無理だな。ヤツには生きる気力がない』
 冷ややかな戒の言葉が脳裏を駆けた。
 璃央は拳をギュッと握り締める。
 死なせない。死なせてなるものか。
 璃央をキミカゲと呼び続ける主をまだ死なせたくない。
 それは、璃央のプライドが許さない。

「りょー……」
 消え入るように小さな声で、香里が璃央の名を呼んだ。
 璃央はそこではっとして、脇にいた香里に視線を落とす。
 香里は先程璃央を呼びに来てから、ずっとこの調子だった。
 震える手で、璃央のジャケットの裾を握り締め、塞ぎこんでいる。
 いや、怯えているように見えた。
 璃央は床に膝をつくと、そっと香里の肩を抱き寄せて笑いかける。
「どうしたんだい?香里」
「わ、私……葉歌様がお気に召さないようなこと、してしまって……」
「ん?」
 今にも泣きそうな顔で香里は頭を押さえる。
「私、また……記憶が飛んで……気がついたら……葉歌様が、立っていて……。みんなみんな……倒れていて……ああ、うん……みんな、死んでいました……。見えなかったもの。輝きが……」
 搾り出すような声で訴えているうちに、香里の目から涙が溢れ出す。

 璃央は冷静に見つめて、香里の頭を撫でてやる。
 香里が俯いた瞬間、葉歌へと目線を動かした。
 香里の催眠状態を解いたのか?と心の中で呟き、香里に視線を戻す。

「どうしましょう。葉歌様が口を聞いてくださらないかも。どうし……」
 錯乱したように早口で繰り返し続ける香里を見かねたのか、智歳が香里の首の後ろをトンと叩いた。
 カクンと力が抜けて、璃央の胸に倒れこむ香里。

 璃央が優しく香里の頭を抱きかかえようとした瞬間、智歳が不機嫌そうに香里の体を奪い取った。
「気安く触るんじゃねぇよ。本当に……お前、むかつく」
「智歳」
「早く香里の記憶消せよ。不都合なんだろ?使えなくなったら」
「香里は、僕の期待によく応えてくれている」
「お前は香里を裏切ってばっかだ」
「あの通りに倒れていた人々の命よりも、この女性が話し掛けてくれないことのほうが香里の中のはかりでは重いらしい。それは、僕のせいではないよ?この子の、考え方だ」

 璃央は立ち上がり、冷めた眼差しで智歳を見下ろす。
 智歳は負けじと上目遣いで睨み返した。
 香里を抱える腕が、フルフルと震える。
 逆らえるほど、智歳はまだ強くない。
 強くなったら、強くなったら……香里を連れて逃げるのだと……心の中で決めているけれど、まだ……それはできなかった。

「…………」
「お前は賢い子だろう?バカな考えは止めなさい」
「何も……しねぇよ。しねぇから……頼むから……香里……泣かすなよ……」
 悔しそうに下唇を噛み締めて、必死に裏返る声を抑えて叫んだ。
 璃央は黙ったまま、智歳の頭に触れる。
 智歳はビクッと肩を震わせて、香里を引きずりながら後ろに下がった。
 璃央が悲しげに目を細めると、智歳は奥歯を噛み締めてもう1度睨みつけた。

「ガキ苛めて楽しいかよ?璃央ちゃん」
 いきなり、部屋の隅からそんな声がした。
 低いけれど、よく通る大きな声。
「苛めるとは言葉が悪いな」
 璃央がそう言ってそちらを睨みつけると、東桜がゆっくりとランプの明かりが当たる範囲まで歩み寄ってきた。
 広いあごを撫でながら、人を食ったような笑みを浮かべている。
「苛める……しか、見合う言葉を知らないもので。無学者ですまんね」
「僕は躾をしているんだよ」
「はぁあ。躾なんて、言葉の響きがいやらしいなぁ」
 クックックッと下卑た笑い声を立てて、東桜は続ける。
「上流育ちはよぉ、どうにもこうにも、時々変態な言葉を吐くよな」
「何が言いたいのかな?」
「……別にぃ。ま、どんなに気取っても気持ち悪くしか聞えねぇよってことかね」
「東桜」
「おぉ、怖い怖い。戒みたいな顔になってるぜ?」
 東桜はにんまり笑って璃央の顔を指した。
 璃央はそう言われて、気がつかずに出ていた眉間のシワをすぐに戻す。
「どういうつもりなんだい?」
「んん?別にぃ。俺様も、ガキは嫌いじゃなくてね。見かねた、ってやつ?自分の都合よくいかないと感情的になるアンタも、ある意味ガキだがね」
「ふっ……僕が、ガキ?」
「おうよ。まぁ、一応、お前より年食ってるし。俺から見りゃ、みんなガキだがな」
 空気が緊迫し始まったのを感じ取って、東桜は突然あっけらかんと笑った。

 いじって遊ぶのもいいが、やりすぎたら火傷することをよく分かっている。
 年は東桜のほうが10も上だが、一応上官に当たるわけだから、無理はしないのが正しい判断だ。
 もしも、御影のお守り役に回されたら、東桜は退屈と鬱々で死んでしまう。
 戦闘と女遊び。それが出来ない空間など、生きている価値もない世界だ。

「チトセ、俺の部屋に来いよ。ベッドも埋まっちまってるみたいだしな。俺は床で寝るからよ。お嬢ちゃんをふっかふかのベッドで寝かしてやりな?」
「あ、ああ」
 智歳は香里を抱き締めて、2人の様子を伺っていたけれど、急に東桜が優しい声でそう言ってきたので、コクリと頷いた。
 この町に来るまでの道中、一度も双子と話をしようとしなかった東桜だったから、つい驚いてしまったのだ。
 ズルズル香里を引きずる智歳を見かねて、東桜は2人を両方の腕で抱き上げた。
 右に香里。左に智歳。
「軽いな……お前ら、もうちょっと飯を食え」
 呆れたようにそう呟いて、ドアまで颯爽と歩いてゆく。

 ドアを智歳に開けさせて、出がけに東桜は念を押す。
「ないと思いますが、その女に手を出しませんように、上官殿」
「だっ……出すわけがないだろう」
 東桜のその言葉に、璃央が気分を害したように言葉を返してきた。
 それを見て、東桜はおかしそうに笑って、隣の部屋へと消えていった。

 璃央はドアがゆっくり閉じていくのを見つめて、ちっと舌打ちをする。
 眠気で頭が回らないせいだ。
 あんな男にやり込められるとは……。
 それとも、葉歌がいるからか。
 どこか、精神的な余裕を導き出せない。落ち着かない。
 璃央はそっと葉歌の柔らかな髪に触れた。
 眠り続ける彼女の横顔を見つめて、
「御影様に……似ている……」
 そっと、先程は言葉に出せなかったことを口にした。
 夜は更けてゆく。
 けれど、璃央は眠ることも叶わず、音を立てずに横笛の上で指を躍らせる動きを何度も繰り返していた。


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