第9章  小さな守護神

 音が遠い。それに頭も痛かった。
「う……」
 葉歌は苦しげに声を漏らして、意識を取り戻した。
 ズキズキと疼く頭をそっと押さえて起き上がると、見覚えのない一室が目に入った。
「ここは……?」
 見回してみたけれど、部屋には誰もいなかった。
 ただ、隣のベッドは使用された形跡があり、荷物もベッドの脇に置かれていた。
 何があったのかを思い出そうと葉歌はゆっくりと、昨夜の記憶を手繰り寄せてみた。
「町に着いて……真城を探すために、たっくんと別れて……。それで……おかしな……霧が……あ…………」
 思い出そうと俯き加減になったら、結わえていた紐が切れたのか、サラサラと横髪が頬をくすぐった。

 葉歌はすぐに頭の後ろに手をやる。
 真城からもらった髪飾りがない。

『一生、大事にするね』

 はにかんだ笑顔とか細い声で発した、ほのかな想い。
 真城には聞えていなかったけれど、あの言葉は葉歌の心からの言葉だった。

「う……そ……?」

 求めてはいけないものを求めている。
 だから、あれは自分への戒めにもなる髪飾りだった。
 失ってはいけなかった。絶対に。


 布団を除けて、ベッドの脇の荷物を開く。
 ゴソゴソと引っ掻き回すように中を探った。
 月歌に託された真城の荷物の他に、自分の荷物。
 その中に……なかった。
 当たり前か。あるはずなどない。ずっと身に着けていたのだから。

「どうし……よう……」
 もう、なぜこんなところにいるのかとか、昨夜何があったのかとか、そんなことはどうでもよくなっていた。
 混乱する頭を整理するために、必死に冷静になろうとする。
 だが、頭が疼いて集中ができなかった。
「そうだ。風に聞けば……」
 葉歌は立ち上がり、窓まで歩いてゆく。
 枠に手を掛けて、思い切り窓を引き上げようとしたその時、ドアが軽い音を立てて開いた。
 葉歌は窓を開ける手を止めて振り返る。
 そこには、マントだけ外した状態の香里が立っていた。
 驚いたように葉歌を見上げてポカンとしていたが、すぐに表情が華やぐ。
「お姫様起きたお姫様起きた!」
 体を弾ませて、タタタッと床を駆け、葉歌に抱きついてくる。
 葉歌は急なことで驚き、戸惑いながらも屈んで優しく抱き締めてあげた。



 ようやく、昨夜のことが脳裏に蘇る。
 霧が晴れてほっとした葉歌の目に、異様な光景が映ったのだ。
 霧が発生する前は元気に騒いでいた通行人たちが、晴れた後に全て倒れていた。
 息をしていないのが見ただけでも分かって、戸惑いを隠せずに周囲を見回した時、その異様な光景の中心に香里が立っていた。
 何が起こったのかはよく分からなかったけれど、風が『ここは危険だ、早く逃げろ』と耳元で何度も告げてくる。
 それでも、動くことができなかった。
 人々がピクリとも動かなくても、香里はそんなことを気にも留めない様子で笑顔を投げかけてくる。
『ごきげんよう、葉歌様。また、お会いできましたね』
 その声には一点の曇りもなく、風の警告やこの通りの様子の異常さが気にかかって、声の出てこない葉歌にとっては異様なものに見えた。

 そんな思いが顔に出てしまったのだろうか?

 香里が不安そうに葉歌を見つめてこちらに近づいてくる。
 いけないと分かっているのに、どうしてか体が逃げようとする。
 こんな時、真城ならきっと表面に出さずに頑張るのに。そんなことを心の中で呟く。
 香里が目の前に立った時、誰かに後ろからガツンと殴られ、そこで意識を失ってしまったのだった。



 昨夜あった出来事がはっきりして、葉歌は香里を抱く力がにわかに弱まる。
 それでも、香里はしっかりと葉歌の服を握って、胸に顔を埋めてきた。
「香里ちゃん……」
「お姫様……こーちゃん、嫌いにならないで……」
「え?」
 香里の寂しそうな呟きが聞えて、葉歌は驚き、香里の顔を覗き込んだ。
 香里はそんな呟きを漏らしてもいないような表情で、無邪気に葉歌を見つめてくる。

「やっぱり、お姫様綺麗♪お姫様〜。御影様〜」

 この子のテンションの上がり下がりには何か意味があるのだろうか。
 おとなしめな表情が多い時は葉歌様で、朗らかな時はお姫様と呼ぶ。
 まるで別人のようだった。

「ねぇねぇ、お姫様。お腹空かない?ちーちゃんとね、ホットケーキ作ったの。もしよかったら、一緒に食べよう〜?んー、あのね、えっとね……そのために起こしに来たの。本当は、もっとお姫様が寝てるところ見たかったけど、でもでも、お姫様は起きてるほうが綺麗」
 ブンブンと胸の前で両手を上下させながら、香里は葉歌にそう告げてくる。

 前会った時もそうだったが、香里に真っ直ぐ褒められると、すごく恥ずかしくなってくる。
 真城に可愛いよと言われた時とは別の感覚。
 嬉しいのだけど、こそばゆい。そんな感じだった。

 ちょうどいいタイミングで、お腹がク〜……と鳴った。
 葉歌は少し顔を赤らめる。
 そういえば、昨日の昼以来、何も食べていなかった。
 香里がキョトンと目を丸くして、突然耳を思い切り塞ぐ。
「んー、んー。こーちゃん、なんにも聞いてないよ。んーんー。こーちゃんお腹減った。早く行こう〜。ほっとくと、ちーちゃん、山ほど焼いちゃうの。食べきれないのに」
「え、ええ」
 髪飾りのことが気がかりだったが、香里に手を思い切り引かれるので、何も言えずに足を前に出した。

 部屋を出て、隣の部屋のドアの前まで行く。
 すると、部屋の中で誰かが口論する声が聞えてきた。
「なんだと。あの女性を返すと、約束した?一体、どういうつもりだい?」
 まだ低くなりきれていない少年の声。
「だぁ……うるせぇうるせぇ。いいじゃねぇかよ。どうせ、記憶消すんだろ?それで万事オッケーだよ。それに、ガキだけでもたくさんなのに、これ以上足手まとい増やしたくねぇ」
 低くて渋い男の声が、少年をあしらうような口調で返している。
「あれは記憶を消すんじゃない。思い出さないように細工するだけであって、消えはしないんだ!」
「……だったら、殺すかよ?俺は、あんな女連れて歩くのはごめんだぜ」
「……香里が懐いている……それはあまりにも酷だ」
「……上官殿の口からそんな言葉が出るとは意外だな。そんなこと言う前に、香里にああいうことやらせるのを止めるべきだと思うが」
 嫌味でも言うように男の声がクックッと笑いながら言った。

 香里がきゅっと葉歌の手を握る力を強める。
 葉歌ははっとして、香里を見下ろした。
 今にも泣きそうな表情で、唇を噛み締めている。
 そんな表情は初めてだった。
「……お姫様も……こーちゃん、嫌……?」
「え?」
「こーちゃん、みんな大好き。御影様も、お姫様も……ちーちゃんも、りょーも、トーオだって大好き。……でも、こーちゃんは、こーちゃん嫌い」
「香里ちゃん……」
 葉歌はそっと床に膝をついた。
 香里の表情がよく見える角度に首を傾げて覗き込む。
 香里が目を細めたまま、葉歌を見つめてくる。
 悲しそうな目だった。



 幼い頃の真城との会話が葉歌の脳裏を掠める。
 ベッドに横たわり、何度も何度も咳を繰り返す葉歌。
 真城は感染るかもしれないからという、村の人たちの言葉も気に留めずに毎日のようにお見舞いに来てくれた。
 はじめは、他国から逃れてきた戦争孤児が珍しいからかと思っていたけれど、全然そんなことはなかった。
 月歌にしても葉歌にしても、真城の家がなかったら、この村に留まることなんて叶わなかったかもしれない。
『わたし、みんな嫌いなの。みんな嫌い。わたしも嫌い。全部嫌い』
『うっそだぁ。だったら、ボクとお話してくれないでしょ?葉歌ちゃんは、ボクが初めてここに来た時でも、声が優しかったよ?嫌いだったら、あんな風に優しい声出ないよぉ』
 当然のように、あっけらかんと真城は葉歌に言ってくれた。
 葉歌が困ったように目を細めると、ちょこんとベッドに腰掛けて、にっこりと笑った。
『……それにね、ボクは葉歌ちゃん、大好きだよ』
 笑顔がすごく無防備で優しくて、その言葉に泣きそうになった自分を思い出す。
 自分自身を拒絶して、けれど、ベッドの上で自問自答を繰り返すことしか出来ない葉歌は、そんな考えに疲れていた。
 疲れて病気が悪化して、悪化すれば更に考えが暗くなる。
 完全な悪循環だった。
 月歌が真城に葉歌のことを話したのも、そういうのを直してほしいからだったのかもしれない。
 真城は葉歌には眩しすぎて、けれど、その輝きが葉歌に生きたいという思いをくれた。
 真城だけが、葉歌のことをこの世界に繋いでいてくれる唯一の人。
 自分の価値を認めてくれる人の存在はとても偉大だ。



 葉歌はそっと空いているほうの手で香里の頬を撫でる。
 繋いでいた手にも力を込めて、優しく包み込むような声で告げた。
「嫌じゃないよ?私は香里ちゃん、好きだよ」
「ホントウ?」
「うん、お姉さん嘘つかない」
 笑いかける葉歌を、香里はジッと見つめてくる。
 穢れのない瞳に葉歌の顔が映りこむ。

 嘘じゃない。
 香里の表情も言葉も、憎めないし、見ていて和む。
 昨夜のことは気にかかっているが、香里が何をやったかまではわからないのだ。

「お姫様、嘘つかない」
 香里がポツリと呟いた。
 コクリと頷く葉歌。

 すると、香里もゆっくりと葉歌の頬に触れてきた。
 触れられた部分がポゥッとあたたかくなった。
 何かが流れ込んでくる。
 自分の中で当然のようになっていただるさが、少しずつ薄らいでゆく。

 葉歌は心地よくて、そっと目を閉じた。

「お姫様、約束する」

「え?」

 香里が葉歌の手を取って、小指に指を引っ掛けてきた。

 葉歌は意味が分からなくて、目を開けて香里を見る。

 香里はニッコリ笑みを浮かべながら、指切りの形になっている手をブンブンと振った。

「こーちゃんが、お姫様護ってあげる。約束」

「香里ちゃん……」

「お姫様は御影様と一緒。だから、護ってあげる」
 舌ったらずの口調でそう言うと、ピンと指を切った。

 こんな小さな女の子に護ってあげると言われてしまった、お姉さんはどう反応したらいいものなのか。
 葉歌はうぅん……と唸る。
 香里は部屋に入らずに、葉歌の手を引いた。

 先程の部屋に戻ってゆく。
 葉歌はただそれに従うだけ。

「お姫様、逃げて」
「え?」
「こーちゃんが起こしに行った時はいなかったことにすればいいの。そしたら、お姫様1人にしたりょーのせいだから、誰も怒れない」
「香里ちゃん……」
「お姫様大好き。だから、こーちゃんの傍にいちゃダメだよ。でも、こーちゃん、お姫様のために力強くしておく。次会ったら、またなでなでする」
「……?」

 訳が分からないけれど、殺すや記憶を消すなどという物騒な言葉が聞えてきていたのもあって、葉歌は香里の言葉に従い、荷物を持ち上げた。
 髪飾りの行方が気になったけれど、おそらく、香里は知らないだろうと言葉には出さなかった。

 香里が宿の裏口まで案内してくれた。
 葉歌はありがとうと微笑みかけて宿を出る。
 ずっと、香里は葉歌が見えなくなるまで見送ってくれていた。


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