第8章  兄妹の翳

『もう……月歌さんは相変わらずそうなのですね。え?私?私ですか?私は、変わりありませんよ?何も変わりなく、ただ、風の流れてゆくのをこうして眺めているだけです』
 10年前のあの日、久々に再会した彼女はとても慎ましく笑ってそう言った。

 月歌は1年ぶりに村に訪れた、旅の一座の団長の娘・紗絢(さあや)に会うために家を留守にしていた。
 紗絢は不器用な性格の月歌とは正反対で、物事を正確に判断し、冷静に行動できる女性だった。
 いつも奥ゆかしく笑い、いつもどこか遠くを見つめているような、そんな人だった。
 年に1度現れ、短期間の滞在で去ってゆく彼女。
 少しの間でもいい……。
 自分のことを心の中に留めてくれる時間があるのであれば、それだけでよかった。
 たったそれだけが、月歌の願いだった。

 本当は、その日は葉歌と約束をしていた。
 一座の公演を一緒に見に行こうという約束だった。
 けれど、当日になって、葉歌が体調を崩して寝込んでしまった。
 2、3日で良くなるからという両親の言葉に素直に頷けず、月歌は1人で公演を見に出掛けた。
 8つも下の妹だ。
 面倒見の良さだけは誰にも負けないつもりでいた。
 けれど、その日は公演が終わってから、紗絢と話をしようと約束を取り付けていた。
 月歌にとっては、どうしても行かなければいけない理由だった。
 紗絢の一座は不定期滞在のうえに、滞在中も暇な時間はそれほど多くない。
 だから、紗絢と約束ができるのはその日しかなかったのだ。

 公演を終えて、2人は風に吹かれ、月の光を浴びながら話をする。
 彼女が微笑み、旅してきた町や村の話を楽しそうにしてくれた。
 月歌はただそれを優しく笑って聞いていた。
 月歌が頷き、一言二言、言葉を返すと、紗絢はすぐに反応して、相変わらずですねという言葉を何度も発する。

 純朴だった月歌には、そんな彼女の表情や返答が何よりも嬉しかった。
 相変わらず……と言ってくれるほど、月歌のことをきちんと覚えてくれている。
 それが何よりも……心に響く。
 そして、そんな細やかな気配りを忘れない彼女を、何よりもいとおしいと感じる。

 そっと彼女の手が月歌の手に触れた。
 はっとして紗絢を見ると、彼女も艶やかな眼差しで月歌を見つめていた。
 動揺を隠せずに視線を彼女から外すと、彼女は月歌の手を引き寄せて、頬にチュッとキスをしてきた。
『……からかっているのではないですよね?』
 月歌は優しい声でそう尋ねる。
 紗絢は目を伏せて恥ずかしそうにフルフルと首を横に振った。
『ずっと、会えるのを楽しみにしていました』
 月歌を見上げて、そういう彼女の目は、とても真っ直ぐで……、月歌は自分が発した問いかけがなんと愚かなのだろうと感じた。

 その体を、抱き締めることが許されるのなら……。
 その唇に、くちづけることが許されるのなら……。
 その手で、自分の頬を包むことが許されるのなら……。
 何度も何度も、心の中で描いた……ほのかな想い。

 月歌はぐっと下唇を噛んで、ゆっくりと言葉を口にした。
『好きです……。いつも、いつもいつも、あなたのことを気がつくと考えていました。……抱き締めても、いいですか?』
 紗絢の目が見れなかった。
 顔から火が噴出しそうなほど熱くて、心臓もバクバクと音を立てる。
 告白にしても、もっと堂々とした言い方ができないものかと、自分自身に言い聞かせる。
 言葉は出てこないのに、心の中では駄目出しばかりが飛び交う。
 すると、言葉だけ言って、何もできない月歌の胸に静かに紗絢が寄り添ってきた。
 いよいよ、心臓が壊れるかと思うくらいの爆音が鳴り響く。
 カチンコチンに固まった腕を必死に動かし、怖々と紗絢の体を抱き締めた。
 彼女の体は、想像よりも細く柔らかく、ぎゅっと抱き締めたら壊れてしまうのではないかと思うくらい頼りなかった。
 自分の長年の想いが叶う……。その瞬間が来た。

 そう実感し、紗絢の感触を噛み締めていた、その時、月歌の村の方角からドドーンという重苦しい音が響いてきた。
 月歌は驚いて、すぐにそちらに視線をやる。
 村の上空が赤く揺らいでいた。
『まさか……村が……?!』
 月歌はすぐに紗絢から体を離した。
 不安そうに顔を歪めて、紗絢も村の方向を見つめている。
『紗絢さん、一座の方を連れて早く逃げてください!軍の夜襲です!!この周辺は全て危険です。分かりましたね?早く、逃げて!!』
『月歌さんは?』
 彼女の震えた声。
 月歌はすぐにホルスターから愛用しているリボルバーを抜いた。
『ぼくは、家族を助けに行きます!!』
 そう叫んで、村めがけて一目散に駆け出す。

 軍がこの辺りに来ているなどという話は聞いていなかった。
 どういうことなのか、理解できない。
 けれど、考えている暇はない。
 今は、村に置いてきた家族を救出しなくてはいけない。
 どうか、無事でいてくれ……!!そう、心の中で叫んだ。

 村に辿り着き、息を弾ませながら自分の家へと向かう。
 村全体、ひどい有様だった。
 追いかけられる女子供。それを食い止めようと武器を取る男。燃え落ちてゆく家々。
 これが軍隊のすることかと、目を疑う光景が飛び込んでくる。
 月歌は助けられる範囲の村人を助けながら、自分の家に着いた。

 まだ、家には火も点けられていなかった。
 村の一番奥に居を構えていたのが功を奏したかと、ほっと胸を撫で下ろして、銃を構えながら中へと入る。
 すると、そこには数人の兵士がいた。
 血を流して横たわっている両親。もう、息絶えているのが傍目でわかった。

『……葉歌は……?』
 月歌は心がグチャグチャになりそうな痛みを誤魔化しながら、視線を動かす。

『ん……んーー、ャア……』
 葉歌の苦しそうな声が聞えて、ようやく所在を確認する。

 1人の兵士がしゃがみこんで何かいじるように動いていた。
 月歌は間髪いれずに発砲した。
 その銃声で、その光景を面白そうに覗きこんでいた兵士がこちらを向く。
 月歌は軽くステップを踏み、兵士の攻撃をかわすと、脳天へと銃を向け、引き金を引いた。
 血がぶわっと噴出してきて、月歌の顔にかかるが、そんなことは構っていられなかった。
 残りの兵士を睨むと、攻撃してくると見せかけて、月歌の脇をすり抜けていった。

 最後の兵士が持っていた松明を家へと放つ。

 部屋の中に赤い光がどんどん広がってゆく。

 月歌は唇を噛み締めて、葉歌に駆け寄った。
『葉歌!葉歌!無事か?!』
 そう叫んで、葉歌に馬乗りになって意識を失っている兵士を乱暴にどかす。

 パジャマを破られて、幼い体を晒された葉歌が涙を目にいっぱい溜めて、天井を見つめていた。

 月歌はすぐに上着を脱いで葉歌に着せてやる。

 こんなこと、許されてたまるか……。

 奥歯を噛み締めて、両親の死体に目をやる。
 本当は連れ出してあげたかったが、火の回りが思いのほか速い。
 葉歌を助けるのが精一杯と判断した月歌は、すぐに家の外へと飛び出す。

 先程倒した兵士の血が右目に垂れてきた。
 けれど、両手で葉歌を抱え込んでいた月歌は、その血を拭うこともせずに、村の外へと駆け出した。

 近くの森の中へ駆け込み、そっと息を潜める。
 体がガクガクと震えた。
 武術の鍛錬はしていた。けれど、人を殺したのはこれが初めてだった。
 葉歌をゆっくり地面に下ろして、目に入った血を拭う。
 けれど、視界がはっきりしなかった。
 平常心を必死に保とうとする月歌のシャツを、きゅっと葉歌が握り締めてくる。
 月歌は目のことは構わずに、そっと葉歌のことを抱き寄せた。

 後で聞いた話だが、軍の夜襲に遭ったのは月歌の村だけで、周辺の村々には被害がなかったらしい。

 葉歌はあの事件がトラウマになり、完全に心を閉ざしてしまった。
 そして、重い病気を患い、あまり外を出歩くことも出来なくなった。
 月歌はこの時の血が原因で、視力が極端に低下し、また、この兄妹の間に、目に見えないしこりを残して、その夜襲は終わりを告げた。

 それからしばらくして、葉歌がこんな言葉を呟くようになった。
『……死ねば、よかったのに……死ねば……よかった……』
 と。
 無表情で呟かれるその言葉は、月歌の心に、なんとも言えない影を落とした。



 智歳は屋根の上に腰掛けて、じっと町並みを見下ろしていた。
 行き交う人々がせこせこと動き回って、いつもは見上げている自分が大人たちを見下ろしている。
「……ゴミみてぇ……」
 そう呟いて、はっと我に返る。

 自分は今、なんと言っただろうか?
 人間を……ゴミ……と言ったか?

 先程の戦闘を思い出す。

 まるで、ゴミでも燃やすように、躊躇いもなく呪文を人間に放った自分。
 いつもは香里のためにリンゴを剥いてやっていたナイフで、6人の人間を刺し殺した。
 倒れている人間を見て喜んだ自分。
 燃えて倒れてゆく人間を見て喜んだ自分。

 智歳は……そんな人間だったろうか?

「…………」
 智歳は黙ったまま、頭をガシガシと掻き続ける。

 何かが腑に落ちなかった。
 何かがおかしかった。

「やらなきゃやられる状況だった。だから、殺した。それだけだ。それだけ……。そうじゃなかったら、俺だって……俺だって、殺したりしない……」
 龍世のあっけらかんとした表情を思い出してイライラする。
 智歳のほうが強い。対等な戦闘になったら、自分は龍世に負ける気がしなかった。
 それなのに、どこか劣等感が智歳を支配する。

『智歳?何か辛いことがあったら、私に言うのですよ?大抵のことなら、姉上がきちんと解消してあげますから』
『じゃあさ、姉上、歯が抜けそうなんだけど、これも替わってくれる?』
『え?そ、それは嫌です。私、痛いのは嫌いです』
 真面目な声で言ってくれた香里の言葉を昔の智歳はふざけ口調で一蹴した。
 香里が困ったように目を見開いて、あわあわしながら嫌がったのを思い出す。
 替われるはずなどないのに、香里は本気で嫌がっていた。
 昔の香里は凛としていたけれど、確実に天然だった。
 智歳はふとそのことを思い出して、ふっと吹き出す。
 その部分と、智歳が何かいけないことをした時に叱ってくれるところだけは今でも変わっていない。
 変わっていない。本質は変わっていないのだ。
 だったら、自分はなんだろう?
 変わってないのだろうか?

 智歳は膝を抱えて腕に顔を埋めた。
 誰かの腕の中で泣きたかった。
 それこそ、香里に全てぶちまけたかった。
 誰かに聞いてほしかった。
 でも、今の智歳にはそれができない。
 それをすることを許す人も、それをすることを許す自分も、どこにもいなかった。
 段々薄暗くなってゆく空は、腹が立つほどに深い藍色だった。


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