第1章  繋げる人と見守る人

 香里はまだ眠り続けていた。
 蘭佳がゆっくりとベッドに腰を下ろして、香里の頭を撫でる。
 すると、くすぐったそうに香里は布団の中にもぐっていった。
 クスリ……と微かな笑い声を漏らして、静かに立ち上がる蘭佳。
 蘭佳は子供が嫌いじゃなかった。
 特に、この香里という少女はとにかく無邪気で、健気で、愚かなほど人懐っこい。
 こういう子は転ばせないで歩かせてあげたいと心の中で思ってしまうのだ。
 新調させたローブとマントを枕元に置いて、
「ゆっくりお眠りなさい」
 と布団の中にもぐってしまった香里に告げる。
 香里はむにゃむにゃ……という、声を蘭佳に返してきた。
 そこでまた、ふふ……と微笑をこぼす。

 物音を立てないように部屋を出ると、すぐそこに黄色いチューリップの花束を持った璃央が立っていた。
 蘭佳はすぐにピシッと姿勢を正し、礼をする。
 香里の時とは偉い違いで目を伏せたまま言う。
「おはようございます、璃央様」
「ああ、おはよう。本当にいつも起きるのが早いね、蘭は」
「はい、朝の早い時間の空気が好きなので。それに……」
 璃央様に会う機会が多いのも朝ですからと言い掛けて飲み込んだ。
 自分はそういうタイプの人間ではなかったからだ。
 それに、別の人をずっと見ている少年のことなど、これ以上慕っても意味などない。
 言い聞かせても無駄なのに、つい言い聞かせる。

「それに?」
「あ、はい。早起きをすると、得をした気分になりますから」
「確かにそうだね。夜更かしをするのとは別の贅沢がある」
「はい」
 蘭佳はそっと璃央の顔を見た。

 ようやく戻ってきたと思ったら、この一週間ずっと御影の部屋に入り浸りだった。
 璃央が御影のことを大切にしているのもあるだろうが、おそらくは御影が離さないのだろうと……なんとなく、蘭佳は感じていた。
 心なしか、璃央の顔がやつれているように見えた。

「大丈夫ですか?」
「ん?ああ、平気だよ。ようやく、御影様の塩梅もよくなってきたんだ。できるだけ、お相手をしてあげなくてはね」
 憔悴した顔でも柔和に笑う璃央に、蘭佳は心が痛むのを感じた。
 一国の主になれるほどの立場にいる璃央が御影のために、わざわざ他国まで使者のフリをして乗り込んでいることが、蘭佳をいたたまれない気分にさせる。
「……そうですか……」
「いつも、御影様の相手を任せてしまってすまない。どうも……蘭以外には任せづらくてね」
「いいえ、私は……特に何も。御影様には嫌われていますし」
「そんなことはないよ。御影様も香里と蘭の話をする時は、少しだけ眼差しが柔らかくなるんだ。笑ってはくれないけれどね」
「そう……なのですか?いつも、ぼーっとされているからよくわからなくて」
「はは……そうだね。あの方は、心だけが壊れてしまっているんだよ、悪く思わないでくれ」
「悪くなんて……」
「そうかい?なら、よかったよ。御影様を慕ってくれる者が、もっと増えてくれればね……僕も嬉しいのだが」
 寂しそうに目を細める璃央に、蘭佳は気付かれない程度に奥歯を噛み締めた。

 慕うも何も、部屋の中でぼーっとしているだけの少女をどうやって好きになれと言うのだろうか。
 蘭佳は任されたから、言われたとおりに御影の身の回りの世話をしているだけだ。
 香里のような可愛げがあれば、また別だろうけれど、同い年の少女の世話など、本当はしたくもない。

「……香里は、まだ起きないかい?」
「え……?あ、はい、もうしばらくは起きそうにありません。相当、力を放出してしまったのではないでしょうか?あまり無理に起こすのも……」
「分かっているよ。今日は、御影様が眠ってくださったから、お見舞いに来たんだ。なかなか様子を見に来てあげられなかったからね」
「そうですか」
「香里は黄色い花が好きだったなと思ってね。チューリップにしてみたんだ。まだ……薔薇には早いだろう?あの子は」
「そうですね」
「…………。そうだ、蘭にも今度プレゼントしよう」
 表情が翳った蘭佳を見て、璃央は思いついたようにそう言った。

 ドキリと蘭佳の胸が鳴る。

「え?」
「いつも、任せっぱなしだからね。何の花が好きだい?」
「……えぇと……」
「なんでも構わないよ?花が嫌いなら、別の何かでも」
「鈴蘭が好きです」
「鈴蘭か……蘭らしい、控えめな花だね」
「そ、そんな……」
 蘭佳は璃央の言葉にフルフルと首を振る。

 璃央はそういう言葉を躊躇いもなく口にする。
 そういう時、どのように反応すればいいのか困ってしまう。
 璃央はそのことを自覚していないのか、不思議そうに首を傾げている。

 そして、次の瞬間言う。
「御影様もそうだけれど、できれば、蘭の笑顔も見てみたいものだね」
「え……?」
「いや、無理に笑ってくれと言ってるのではなく……だよ」
「は、はぁ……」
「女性は笑っている時の顔が実にいい。男が戦う時の顔といい勝負だ。それではね」
 蘭佳が困っているのがようやくわかったのか、璃央は静かに蘭佳の脇をすり抜けて、香里の部屋へと入っていった。

 蘭佳はまだ結わえていなかった髪をすっとかきあげた。
 どうして、ああいう台詞が簡単に出てくるのだろう。
 心が喜んでいても、元々人と話すのが得意でない蘭佳はその喜びを表現できない。

『蘭の笑顔も見てみたいものだね』
 その言葉が、心の中で何度もリフレインする。

 年下のくせに、どうしてこうも簡単に蘭佳の心をかき乱すのか……。
 そっと目を細めて、香里の部屋の後に訪れようと思っていた御影の部屋に入る。
 薄暗い部屋の中、御影の衣服があちこちに散乱していた。
 ベッドには白い腕を投げ出して、眠っている御影。
 唇を噛み締めて、ベッドの脇に寄り、そっとはみ出ている腕を布団の中に入れてやる。
 すると、『うぅん……』と御影は眠そうに声を漏らして、布団の中に潜り込んでしまった。



「んー、蘭ちゃんがお出掛けなんて珍しいねぇ」
 3日前にようやく目を覚ました香里がベッドに腰掛けて、素足のままの足をブラブラとぶらつかせている。

 蘭佳は桜色の髪を丁寧に結い上げながら、横目で香里に視線をやる。
「璃央様も色々と忙しいのですよ。私が代わりでは不服ですか?」
「ん。んーん。こーちゃん、蘭ちゃんも大好きだから、そんなことないよぉ。不服なんて、そんなぁ」
 素足のままで床に足をつき、パタパタと蘭佳の元に駆け寄ってくる。
 スーツのようにピシッとした服装で蘭佳はよしと言った。

「おかしなところはないですか?」
「んー……蘭ちゃん、こっちのほうが可愛いよ〜。せっかく、お出掛けなんだから、こっちにして〜」
「え……?でも……」
「りょーが前に可愛いなって言ってたやつ〜。こーちゃんもこれ好き〜」

 香里が勝手にクローゼットから取り出してきたのは、ノースリーブで薄紫色のタートルネックセーターだった。

「それでねぇ……下はスカートぉ」
「こ、香里、スカートでは動きに困るので……」
「え?スカート動きやすいよぉ」
 香里はグルグルと回ってみせる。
 ふわりふわりとスカートの裾が浮いて、腿から上がチラチラと見えそうになる。
 蘭佳は慌ててそれを止めた。

「いいのです。私は、こちらのほうが落ち着くのですから」
「蘭ちゃん、若い時しかできないのですぞ」
「どこで、そんな言葉を……」
 むぅむぅと呟きながら、香里がそんな言葉を口にするので、蘭佳は思わずふっと笑みを浮かべた。

 その時、コンコン……とドアが叩かれたので、蘭佳は慌てて脱ぎかけていたシャツのボタンを留め直す。
「はい、どうぞ」
 その声を聞いてからドアがゆっくりと開かれ、璃央が入ってきた。
「おはよう。昨日、急に言ってしまったが、準備はできそうかい?」
「はい、大丈夫です」
「そうか。気をつけて行っておいで」
「はい」
 せっかく浮かんだ笑顔は璃央の前では全く発揮されず、冷静な表情だけが蘭佳の顔にある。

 香里が璃央に駆け寄って、ちょいちょいとジャケットの裾を引っ張る。
 璃央はすぐに香里の目線の高さまで屈みこんだ。
「どうしたんだい?……香里、床はばっちぃから、きちんと靴を履きなさい」
 璃央が香里に注意するように言ったが、香里はそんなことは気にも留めないようにして、蘭佳を指差し、嬉しそうに体を弾ませる。

「さっきね、蘭ちゃん笑ったの。蘭ちゃん笑ったのぉぉ」
「え……?」
「こ、香里、そんなことまで言わなくていいです!」
 要らぬことまで璃央に伝える香里を慌てて止めに入る蘭佳。

 顔が真っ赤になっているのを誤魔化すように、香里を抱きかかえてベッドまで連れてゆく。
「あ〜れ〜。お助けを〜」
「だから、どこでそんな言葉を覚えてくるのですか?!」
「トーオが持ってた、えぇとぉ……なんだっけ?あ、そうそう。春画本っていうやつ」
「しゅ……」
 香里の言葉に部屋の空気が凍りついた。

 璃央がコホン……とわざとらしい咳をする。
 蘭佳もいたたまれずに、目を泳がせるしかない。
 香里だけが不思議そうにきょとんとしていた。

「どうしたのぉ?りょーまでお顔赤い〜」
「ん、なんでもないよ。蘭」
 柔和に笑って香里の問いかけに答え、すぐに蘭佳に呼びかけてきた。
「はい」
「東桜殿に言っておいてくれないか。あとで、ただじゃ済まさないと」
「し、承知しました……」
「よろしく頼む」
 蘭佳は熱くなった顔を必死に冷ましながら香里の足に靴を履かせてやる。

 香里はバタンとベッドに倒れこんでゴロゴロと動き回り始めた。
「お代官様、お戯れは〜」
「……香里、もうやめなさい」
「んー……つまんなぁい。いいも〜ん。トーオにやってもらうからぁ」
「やめなさい」
「いけません」
 唇を尖らせてぼやく香里を見て、2人の声が見事にユニゾンした。

 それを見て香里がおかしそうに笑い声を上げる。
 あまりにもおかしそうに笑われるものだから、蘭佳は璃央へと視線を動かした。
 璃央はコホンコホンと咳き込んで、クルリと踵を返し、部屋を出てゆく。

 そして、後ろ手でドアを閉めながら、最後に言った。
「蘭でも香里には敵わないのだな」
 と。

 そうして閉じられてゆくドアに向かって、蘭佳は深々と礼をするのだった。


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