第10章  これが僕の愛の形だから……

 もしも、誰かに尋ねられたら、2人の関係は何と答えれば分かってもらえるのだろう。
 璃央はそっと起き上がって、横で眠っている御影を見つめた。
 いつもの倦怠感漂う表情などどこにもなく、そこには年相応のあどけない顔で眠る愛しき人がいる。


 主従関係。

 恋愛関係。

 身寄りのなくなった彼女を引き取った……元婚約者。


 どれも璃央にとっては真実で、けれど彼女にとってはどれも違う。


 はじめから、彼女の目には璃央という人間が映っていなかった。
 いや、出会った時は璃央として見てくれていた。
 璃央のことを、好きな人に似ていると嬉しそうに笑いかけてくれたのだ。


 御影の髪に触れて、璃央はそっと目を細める。


 璃央にとって御影は、下らない縁談の相手だった。
 10年前……まだ、幼かった璃央に突然押し付けられた意味の分からないもの。
 この国は軍国主義の盛んな国で、御影は国の軍司令官の娘。
 権力を伸ばすのにうってつけの相手だった。

 ただ、それだけの理由で、2人は出会った。
 璃央は何も期待などしていなかった。

 けれど、訪ねた先で待っていたのは、とても清楚で可憐で、とても美しい女の子だった。



 見惚れながらも必死に挨拶をする璃央に対し、御影はずっと落ち着いた調子でその様子を見つめていた。

 そして、その後に「庭に咲く花を眺めながら、あなたが来るのをずっと待っていたのですよ」と言った。
 まだ年端も行かない頃だったから、そう言われた璃央は顔が赤いのを悟られないように下を向いていることしか出来なかった。

 そしたら、御影は璃央の手を取って、庭の更に奥にある庭園へと導いてくれた。
 そこにはピンクの薔薇が咲く小さな花壇があって、それがよく見える位置に東屋が建っていた。
 東屋の中の椅子に腰掛けると、給仕の女性が紅茶と茶請けにざらめの砂糖がついたラスクを置いていった。

 テーブルの向こう側に座っている御影を見つめて、璃央は膝の上の拳を握り締める。

 本当に綺麗な人だった。
 長い睫が、時折伏せた顔に色気を与える。
 まだ、8歳だと聞いていたのに、思った以上に大人びていた。

「ピンクの薔薇が……わたしはとても好きなの。けれど、手入れが大変らしくて、パパが大きなバラ園を作ってくれないのです」
「そ、そうですか」
「璃央様はどんな花が好きですか?あ、男の子ですものね、あまり興味はない?」
「はい、そちらのほうまではまだ勉強してません」
「勉強?ふふ……」

「な、何かおかしなこと言いましたか?」

「こういうことは勉強することではないですよ?興味を持って、好きだと感じるだけです。わたしも、薔薇の育て方は知らないもの。ただ、見ているのが好きなのです」

 おっとりとした調子で笑って、御影は長い髪をそっと耳にかけた。
 それからも御影が導く形で会話は続いた。
 少しずつ弾んでゆく会話。

 けれど、ふと会話が途絶えて静かになる。

 璃央は、言葉が詰まって喉から出てくれないので、紅茶を飲んで誤魔化した。
 カモミールの香りが少しだけ璃央の心を落ち着けてくれる。

 紅茶を飲み込んで、コトリとカップをテーブルに置くと、御影がマジマジと璃央のことを見つめていた。
 璃央は何か粗相があったかと、慌てて口を開く。
「あ、あの……何か?」

「え?ああ、ごめんなさい。あなたが、夢の中に出てくるお兄さんによく似ているものだからつい……」
 御影の表情がパッと華やいだのを感じ取りつつも、次を促す璃央。
「夢の中に……?」
「わたしね、変わった夢を見るの。パパやママに話しても信じてもらえないのだけど。いつも、そのお兄さんが出てきて、わたしに元気をくれるの」
 顔の前で両手の指を絡ませながら、御影の顔が少しずつ上気していく。

 璃央はなんとなくつまらなかった。
 璃央に対しての表情と全然違ったからだ。
 そう。それはまるで、そのお兄さんに恋焦がれているような顔。

「おっちょこちょいなのだけど、優しくて、強くって……。夢の中のわたしは、いつもそのお兄さんのことを見てるの」

「そう……なんですか」

「それで……ちょうど、あなたみたいに水色の髪をしていてね?面差しも……なんとなく似ている気がす……ケホッ……コホッ……」

「大丈夫ですか?」
 いきなり激しく咳き込み始めた御影に驚いて、璃央はすぐに立ち上がり、テーブルを回り込んだ。

 一瞬躊躇ったけれど、そっと背中に触れてさすってやる。

 しばらく、苦しそうな咳が続いて、ようやく収まってから、御影は苦笑いをしながら言った。
「ここ最近は、咳も収まっていたのですけど、また……ぶり返したみたいですね」

「風邪でも……?それだったら、僕、帰りますよ。ゆっくり休まれたほうが……」

「いいえ。もう少し、そうしててくれませんか?とても落ち着くので。わたしのは、生まれつきだから気にしなくて結構です」

「生まれつき?」

「はい……わたし、体が弱くて。でも、ここ最近は調子がよかったんですよ?」

 ゆっくりと背中をさすりながら、御影を見つめている璃央。

 御影はまだ何度か咳き込んでいたけれど、それが収まるとそっと口を開いた。
「璃央様は……わたしのこと、気に入ってくださいましたか?」

「え?」

「なんだか、身分的なものの関係で、わたしに選択権があると、パパは言っていたのですけど、わたしはこんな体だから生涯行き場もなさそうだし……。もらっていただく約束をいただけるだけでも恐縮してしまうのに、わたしが選ぶなんて……って思っていたのです」

「ぁ……」

「だから、もしも、璃央様がそれでも構わないと仰ってくださるなら、わたし、このお話お受けしようかと。いつでも取り消してくださって構いませんから。好きな人ができたら、そちらをお選びになっても、わたしは何も言いません」

 ゆっくりと振り返って、ニコリと笑う御影。

 璃央は返答に困ってしまった。

 一目惚れした。それは本当に……あっという間に。
 包み込むような笑顔と物腰。年齢に似つかわしくない艶のある顔。
 相手を思いやるような気配りも、何度か感じ取った。
 幼い璃央が惚れてしまうには十分すぎるくらいの要素が彼女にはあった。

 けれど、彼女は懸念しているようだった。
 自分は長くは生きられない人間だから、結婚を約する身にはないと。
 それがたとえ政略結婚であってもだ。
 いや、彼女の言葉から考えると、彼女には政略結婚という図式はないのかもしれない。

 別に……同情ではなかった。
 幼いながらも……愛しいという感情はこういうものを言うのかなと、心の中で呟く璃央。

 そっと御影の手を取って、手の甲に口づける。

 本で読んだ、王子が姫に愛を捧げる動作だ。

 璃央はそっと体を低くして、見上げる形で御影を見つめて言った。
「僕はあなたに一生涯仕えます。この言葉に偽りなく。もしも、嘘になるようなことがあれば、殺してくださって結構です」

 御影の顔が見る見るうちに紅潮してゆく。

 その日初めて、御影は璃央の言葉で華やいだ顔を見せた。

 おかしそうに笑って、
「そんな言葉、お話の中だけだと思っていました」
 と言い、その後に更に付け加える。
「でも、とても嬉しいです」
 と。

 璃央はその御影の笑顔を決して忘れない。

 ずっと、心の中に焼きつけて離すことはしなかった。



 けれど、それから少しして、御影の母親が亡くなり、その頃から御影の様子が少しずつおかしくなり始めた。
 璃央がたまに訪れても、ニコリとも笑わず、ぼーっと窓の外を見つめていることが多くなった。

 周囲の者は母親が亡くなったショックだろうから、しばらく放っておいたほうがいいと口々に言っていたけれど、璃央だけはそうではないのではないかと感じていた。

 そして、5年前のあの日……戒が指名手配犯扱いとなる原因になった、カヌイ民族弾圧がこの国でも行われた。

 現場は酷い惨状だったと聞く。

 殺されたカヌイ民族もそうだったが、戒の手によって葬り去られた兵士の数は、カヌイの民以上に多く、戒はその死体の山の中で気を失っていたそうだ。

 弾圧を指揮していたのは、御影の父親だった。
 残念ながら、彼も戒の手によって殺され、御影は身寄りを無くした。

 そのため、璃央が無理を言って、璃央の父親を後見人として御影を引き取った。

 璃央の家に来てすぐに、御影は部屋を訪れて、こう言った。
「ねぇ……捕まったカヌイの男の子……あの子、この家で引き取れないかしら?放っておくと殺されちゃうんでしょう?可哀想よ」
 と。

 この5年、御影の家の後ろ盾もあって、権力を確かなものにしていた璃央の家なら、そのくらいの無理を言うことも容易だった。

 そして……璃央は御影の心が離れていっていることに、戒と会って気がつくことになる。

 縁談の日の会話を嘘だとは考えていない。
 あの時の御影の瞳はとても澄んでいたから。

 しばらくして、戒がこの国から逃げ出した時、御影の心はとうとう壊れてしまったのだ。

 そして、ずっと似ていると言っていた璃央のことを『キミカゲ』と呼ぶことで、自分の生を繋ぎとめるようにして、今も……こうして生きている。


 璃央は静かに顔を御影に近づけた。
 起こさないように優しく前髪を掻き分け、額に口づける。

「僕はあなたに一生涯仕えます。この言葉に偽りなく。もしも、嘘になるようなことがあれば、殺してくださって結構です」

 あの時と一字一句変わらぬ言葉を、小声で囁いて、ベッドから下りた。

 まだ、御影は眠り続けている。

 きっと、『キミカゲ』の夢でも見ているのだろう。
 それくらい、安心しきった顔が……そこにはあった。



 自室で仮眠を取り直した璃央は、御影の部屋で萎れ始めていたピンクの薔薇の代わりを用意して、部屋へと舞い戻った。

 部屋に入った瞬間、様子が違うことに気がついた。
 いつもは薄暗いこの部屋が……今日は明るい。
 ずっと閉め切られていたカーテンが、きちんと留め具に留められていた。

 いつもベッドに伏して、璃央を待っている御影が……スラリと立って窓の外を見下ろしていた。

 服も自分で着替えたのか、シャツにブルーのリボン。赤いフレアスカートを身に纏っている。

 成長した御影に、5年前のその服は少々子供っぽ過ぎて、アンバランスな印象を覚える璃央。

「御影……様?」
「おはよう」
 目を細めた状態でゆっくりとこちらを向く御影。

 そんな印象など、すぐに吹き飛ぶ。

 その顔に笑顔はまだなかったけれど、表情はいつもよりも柔らかく、久しぶりに……璃央に対して、『キミカゲ』以外の言葉を発してくれた。
 語調もまだまだたどたどしいほど、無感情に近かったけれど、そんなことは気にしない。

 それが嬉しくて、璃央はこみ上げてくるものを抑えられなかった。

 ポロリと……目から涙が零れ落ちる。
「綺麗な薔薇ね。やっぱり、薔薇はピンクが一番」
 璃央に歩み寄ってきて、ピンクの薔薇の花束をそっと抱きかかえた。

 璃央を見上げて、不思議そうに御影は首を傾げてみせた。
「どうしたの?泣いてるの?」
「いいえ……目にゴミが入っただけです……気にしないでください」
 璃央は涙を誤魔化すように、そっと御影の体を抱き寄せた。

 御影が薔薇の花束を抱えたままで、そっと璃央に体を預けてくる。
「璃央……」
 御影が愛しそうに名を呼ぶ。

 璃央は抱き締めた状態でピクリと体を震わせた。

 一体何年振りだろう?
 御影が『璃央』と呼んでくれたのは……一体何年ぶりか……。
 ようやく、報われたような気持ちになった……。

 けれど、本当の御影は、もっとほんわかとした口調で『璃央様』と呼ぶ。

 璃央の知っている御影は、まだまだ戻ってきてはくれていない……。


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