第1章  行き場のない感情

 戒はふと我に返った。

 薄暗くなり始めた周囲の景色。どこかの渓谷だった。
 その景色の中で輝きを放っていた青い光が徐々に弱まってゆく。
 息が激しく乱れていた。拳には血がついていて、自分がまた何かしてしまったことが分かる。
 戒はクシャリと髪を掴んで頭を抱える。

 もう嫌だった。
 自分の中に何かいるようで、気持ちが悪くて仕方がない。
 カヌイ民族の弾圧の理由……それはこの力のせいだった。
 別に全てがそうである訳ではない。
 大体の人間はこの力をうまく制御して、実用的なものへと高めてゆく。
 けれど、たまにいるのだ。どうしても、制御が出来ずに暴走してしまう者が。
 その中の1人が……戒だった……。

「もう……たくさんだ……」
 ポツリと呟き、ふらついた足で歩き出す。

 都合のいいことに、自分が立っているのは谷が望める渓谷だった。

 どうして、こんなところにいるのかなどという疑問は全く湧き上がってこない。

 ひゅぅぅ……と風が吹き降ろしてくる。
 短い髪がその風でなびいた。

 自分は、この国にあかりを探しに来た……。
 けれど、もういい。生きていたら、自分はまた誰かを傷つける。
 傷つけ、護りたい人も護れずに……ただ、苦しみの渦に吸い込まれてゆくだけ。
 あかりも、自分の家族も、御影も、……真城も。
 それぞれの笑顔が浮かんで、次の瞬間、一歩を踏み出そうとした。


 だが、その体を誰かに後ろから抱き締められて留まる。

 その人の頭が戒の肩のあたりに当たり、背の低い人なのがわかったけれど、誰だか察しがつかない。


「けほっ……っ……ごほ……」
 戒の肩に頭を当てたまま、その人は苦しそうに咳き込んだ。

 何度も何度も咳をして、苦しげな声で呼吸を整えようとしている。

 戒の腕を握っている手がカタカタと震えているのが見えて、戒はようやく正気に戻った。

 浮きかけていた足を止めて、すっと後ずさる。
 それで安心したのか、ようやくその人は体を離し、戒が振り返るのを待っている。
 だから、戒も振り返って、その人を確認しようとした。
 その瞬間、パシンと戒の頬が音を立てた。
 いや、その人に叩かれたのだと理解するのに、数秒かかる。

 目の前には青ざめた顔をした葉歌が、戒を睨みつけて立っていた。

 葉歌の顔を見て、御影を思い出す戒。

 ぎゅっと唇を噛んだ。

「しっかりしなさい!戒!!……っけほ……」
 葉歌は鋭い声で言い放つ。
 初めて、葉歌が戒のことを『戒』と呼んだ。
 いつも興味なく聞いていたことだったが、なんとなく驚きが隠せずに目を見開く。
 けれど、すぐに咳が出るのか、葉歌は身を丸くして口元を押さえた。

 戒は御影の嫌な咳を思い出して心配になり、優しい声で尋ねる。
 不思議だが、彼女と御影の咳の傾向は似ていた。
「……大丈夫か……?」
「大丈夫じゃないわよ!目を覚ましたら、あなたはフラフラしてるし……。もう……この咳……最悪だし……ごほっっ……くっ……」
 言い返しながら、膝から地面へと崩れ落ちる葉歌。

 真城にだったら笑顔で『大丈夫』と言うのだろうに。
 ストレートな返答に、逆に余裕のなさを感じ取った。
 当然か。真城の安否が分からないのだから。

 すっと膝をついて、葉歌の顔を覗き込む。

 目が潤んで、顔色も悪い。辺りは薄暗いが、そのくらいの判別はまだつく。

 本当に御影によく似ている……。

 そんな事態ではないのに、つい目を細めてしまう戒。

 そして、ゆっくりと葉歌の額に手を触れようとした時、葉歌がびくりと体を後ずさらせた。
「な、なに?」
 怖がるように後ずさってしまったことを取り繕うように、葉歌はニコリと笑って尋ねてくる。

「……熱が、あるんじゃないかと……」
「あ……うん……あるわ……」
 伏目がちで答えて、そっと髪をいじる葉歌。
 特に確認もしていないのに、簡単に答える。
「元々、病気してるから、自分の体のことはすぐに分かるのよ」
「……そうか……」
「ええ」
 葉歌の手が、時折カタカタと震える。

 それを戒は見逃さなかった。

「僕が……怖いか?」
 戒の問いに葉歌はぴくりと反応する。
 目は伏せたままで言葉に迷うように髪を弄んでいる。
「正直に言っていい」
「…………」
「僕の、『力』を見たんだろう。だったら、分かっている」
 戒は冷静な口調でそう言い、葉歌を見据えた。

 葉歌は空いているほうの手をきゅっと握り締めて、視線を戒に向けてくる。

「怖い……」

「ああ」

「……でも」

「?」

「わたしがあなたと同じ『力』を持っていたら、同じことをしたわ。……わたしには、その『力』がなかったけれど……。もしもあったら、あなたと同じように、軍の人、皆殺しにしたと思う」

「……お前……?」

「わたしも、家族を殺されてる。軍人に……」

 葉歌の言葉に戒は驚きを隠せずに黙り込んだ。

 葉歌の潤んだ目に、どんどん涙が溜まってゆく。

「だから、もう……絶対に大切な人が死ぬのはイヤ……。真城……探さないと……いけないのに……体が……言うこと聞いてくれないの……。どうして? ……なんで、こんな時に調子が悪くなるのよ……っひ……けほっ。わたしが……あなたを追いさえしなかったら、真城、巻き込まずに済んだ……」

 体が弱っているためか、恐怖心を吐露したためか、葉歌の心の中にあったものがどんどんと吐き出されてくる。

 自分のせいだと……言い続ける葉歌。

 戒も自分のせいだと思っていたからこそ、目の前でその言葉を繰り返し続ける葉歌にどうしようもなく悲しみがこみ上げてくる。

 しっかりしなくてはいけない。
 こみ上げてくるやりきれなさを振り払って、戒は自分に言い聞かせる。
 どちらも弱ったら駄目だ。
 弱りきった体で、必死に自分を叱咤した葉歌のことを考えたら、ここからしっかりするのは自分でなくてはいけない。

「おい……この近くに、人家や村はあるか?」
「え……?」
「調子が悪いなら、お前だけでも休まないとまずいだろう。僕が連れて行ってやるから。マシロを探すのはそれからでも遅くない。風読みもできないか?」
「…………。ある……ここから、3キロほど東に、小さな村……」
 あごに手を当てて、吹き抜けてゆく風の声に耳を澄ますようにして葉歌が答えた。

 声が本当に苦しげで、葉歌の息遣いがヒューヒューと微かに鳴く。

 戒は頷いて、すぐに葉歌の体を抱き上げる。
 先程は気付かなかったが、触れてみると体全体が熱い。

「え、ちょ……」
 動揺したように声を漏らす葉歌。

 戒は軽々持ち上げて、穏やかな声で言う。
「怖いかもしれないが、我慢してくれ。眠っていてもいい……無理するな」
「あ、待って。町で買った服……」
「ん?」
 少し離れた位置を指差す葉歌に従って、戒が歩いてゆく。

 白い紙袋がぼんやりと浮かび上がる。
 そっとしゃがみこんで、葉歌に取らせた。
「……ありがとう」
 大切そうに抱えて嬉しそうに微笑む葉歌。

「いや。もういいか?」
「ええ……大丈……ぶ……」
 葉歌の体が意識を失うようにカクンと力が抜けた。
 それでも、胸に抱えた紙袋だけはしっかりと抱き締めたまま、少しずつ苦しげな呼吸が落ち着いてゆく。

「本当に……似ているな……顔も……この、軽さも……」
 戒は目を細めてそう呟いた。

 苦しくて仕方ないのに、御影という少女を憎みきれない自分がいる。

 分かっている。

 どんなに口で言っても、自分はあの少女のことが好きだ……。

 恋愛感情とかそういうのではないかもしれないが、好きなのだ。

 だからこそ、余計に辛い……。

 どうしようもない微妙な感情と一緒に、戒は跳ねるように素早い動きで東へと駆け出した。





 町の中を激しい風が吹きぬけて行き、部屋の窓をガタガタと激しく揺らす。
 月歌はグツグツ……と音を立てる鍋の中身をかき混ぜながら、曇る眼鏡を拭った。

 突然降りだした雨。
 けれど、真城も葉歌も帰ってきた気配はなかった。
 今は男用に取った部屋のほうで夕飯を作っていた。
 龍世がずぶ濡れで戻ってきた以外、帰ってこない。

 龍世はくしゃみを時々しながら、タオルで濡れた体を拭いて、窓の外を見つめていた。
「つぐたん、雨止んだ」
「そうですか。じゃ、夕立だったんですかね?」
 龍世の言葉に月歌は鍋に蓋をして窓まで歩いてゆく。

 龍世はトランクス一枚で、ベッドの上で跳ねていた。

「たっくん、早く着替えなさい」
「オレ、あれしかないもん」
「一応、この前買ってあげたでしょう?」
「……あ、そっか……」
 龍世は渋々荷物からダボダボのTシャツと青いハーフパンツを取り出して着替える。

 カチャリと窓を開けて、雲が全くない空に首を傾げた。
「随分……晴れましたね?」
「なんか、変な感じだったよ」
「え?」
「風なんだけど、風って感じがしなかった」
「?」
「えっとね、こんな感じ」
 龍世はベッドの上でポンポン跳ねながら、宙でグルリと横に一回転した。

 その勢いで起きた風が、月歌の髪をふわりと揺らす。
「無理矢理作ったみたいな風」
「さっき、吹いた風ですか?」
「うん。それに吹き抜けた途端に雨も止んだんだ。変な感じ」
 唇を尖らせて言う龍世。

 月歌は目を細めてその言葉に耳を傾ける。
 自然の原理がどうの……という小難しいことなど全く興味はないけれど、不自然……というのは確かに感じ取れる。

 何か嫌な予感が、月歌の胸を支配し始めた。

 窓の外を眺めながら、うぅん……と唸る。

 その時、大通りからゾロゾロと宿の前へ歩いてきた兵士達が目に入った。
 1人、この町を治めている騎士なのか立派な服を着た男が、大きな声で仕切っている。

「早く、応援を要請しろ!!指名手配犯はこの辺に潜んでいる可能性もある。警戒して探索にあたるように!!それと、都市へ伝令を!!」

 その声でピタリと……龍世も月歌も動きを止めた。
 真城には葉歌がついている。そんなヘマをやるとは思えない……。
 ということは、また戒が何かしでかしたのだろうか。

 だから、嫌だったのだ。あの少年と一緒にいては、ろくなことがない。

「……つぐたん」
 月歌がギリッと奥歯を噛み締めていると、龍世が真面目な声で呼びかけてきた。
 月歌は出来るだけいつも通りの声でそれに答える。
「はい?」

「血の臭いがする……」
 龍世はとても苦々しい表情でそう呟く。

 月歌の中で、何かがゴトリと崩れる音がした。

「え?」
「ついてきて」
 龍世はTシャツの上にパーカーを羽織って、部屋の外へと飛び出していった。

 月歌も慌てて窓を閉め、タイだけ締め直してすぐに走り出す。
 宿を出る時、兵士達とすれ違ったが、年齢的に対象外なのもあってか、全く見向きもされなかった。

 龍世が大通りへと出て、4つ目の角を左に曲がった。
 月歌もすぐに龍世に追いついて、一緒に曲がる。

 龍世はめざとく何かを見つけて、しゃがみこんだ。

「……真城のだよ……」
 悲しげな声で呟いて、月歌に見せてきたそれは、刀傷のついたお守り。

 確かいつも首から提げていたものだ。
 龍世から受け取ってクルリと裏返すと、微かだが血のようなものが見える。
 月歌は眉を思い切りひそめた。
 唇を噛み締めて、なんとか冷静さを保とうと目を閉じる。

「戒と、一緒だったのかな?」
 龍世がまた何か見つけたのか、パタパタと駆けて行ってすぐに拾って戻ってきた。

 必死に思考を落ち着かせる月歌。
 単にお守りが落ちていただけだ、ただそれだけだ。
 兵士達が探索しているということはきちんと逃げ切ってくれたはずだ。
 自分はそれを探せばいいだけだ……。

 そっと目を開けると、龍世は戒に被らせていた帽子を持って、そこに立っていた。
 ぐっしょり濡れた帽子。
 踏みつけられたように靴跡が無数についている。
 月歌は表情を変えることなく受け取った。

「あ……」
「たっくん?」
「ごめん、オレ、ちょっと……」
「え?」
 龍世は何か気がかりができたのか、突然月歌の横をすり抜けて走って行ってしまった。
 月歌はそれを呼び止めることが出来なかった。

 ひゅぅぅ……と小さな風が月歌の髪を揺らす。

 唇を噛み締めて、お守りをギュッと握り締め、その拳を顔に寄せた。
「真城……………………さ・ま……」
 小さな苦悶の声が、自分の耳に残る。

『ボクね、いっつも、丘で誰かを待ってたんだ〜。誰を待ってるのか分からないんだけどさ……。つっくんが迎えに来てくれるようになってから、すっごい楽しい♪』

 月歌が執事になってまもなく、夕方になっても丘から下りてこない真城を迎えに行くのが日課になり始めた頃、真城はとても無邪気な笑顔でそう言った。

 子供らしいその笑顔が、自分の心の闇を晴らしてくれる気がして、その言葉に微笑を返したのをよく覚えている。

 きゅっと握られた小さな手は、いつも子供体温で温かく、屈託のない笑顔が……自分の心を洗う。

 10年だ……10年仕えた。
 あの方を……真城を護るために、仕えているのだ。
 心配してハラハラするためじゃない。
 心配することだけが自分にできることならば……。
 その程度しかできることがないならば、生きている意味などない。


「クッソ……!!」
 こみ上げてきた怒りに任せて、月歌は通りの壁をガツンと横を向いたまま殴りつける。

 全く加減せずに殴ったためか、小指がズキズキと疼いて、血がポタリと垂れた。

 しかし、そんなことに構いはしない。

 険しい表情で周囲を見回す。

 何か……手がかりを見つけなくては。

 町の中にいるのなら、宿に戻ってきたはずだ……。

 それとも……無事でいない?

 そんな考えが浮かんで、自分の肌に鳥肌が立った。
 フルフルと首を振って否定する。

 悪いほうに考えるな。
 きっと、もう……真城はこの町にはいない。
 戒も、葉歌もだ……。

 早く、出る準備をしなくては。

 葉歌のことも心配だ。
 体調がよくない状態で、薬を飲まなかったら……どんなことになるか……。
 恐ろしくて考えたくもない。

 遅れてばかりではいられないのだ。
 自分は、そんなことのためにここにいるんじゃない。


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