第5章  人魚姫イデオロギー

 蘭佳が来る前で、まだ催眠術を掛けられなかった頃、両親を思い出しては泣き、眠れなくなってしまう香里に、璃央はいつも優しい声で本を読み聞かせてあげていた。
 それくらいしか、自分にはできなかったからだ。
 たったそれだけのことだった。

 戒が屋敷を去り、御影が壊れたようにベッドに伏してしまってから、香里だけが、御影を助けられる希望だった。

「人魚姫は海の泡になって沈んでいきます。瞳から零れた涙も、コポコポと泡を作って……、必死に手を伸ばしても、誰もその手を掴んではくれません。そうして、海の色も何も分からなくなって、人魚姫は本当に跡形もなく、消えてしまったのです」
「……かわいそう……」
 ベッドに横になって聞いていた香里が泣きながらその話を聞いていた。

 璃央はパタンと本を閉じて、そっと香里の頭を撫でる。

 優しく笑いかけ、本を枕元に置くと、璃央は穏やかな声で香里に言った。
「悲しいことなんてないさ。人を愛することを知れた……。それだけで、人魚姫は幸せだったと、僕は思うんだよ、香里」

「璃央様……?」

「声も失って、人魚として生きることも放棄して、それでも報われることはなくて……。だけれど、彼女は自分の意思で、王子を殺すことを止めた。……彼女にとって、王子への恋がそれほど綺麗なものだったからだ。人魚姫には、本当はそんな感情などなかった。海を泳ぎ、時に歌を歌う。それだけで過ぎ去るはずだった一生が、王子との出会いで変わったんだよ。そう考えると、この最後の場面だって……彼女は笑っていたかもしれない。ありがとうと。……これは僕の勝手な考えだけれど」

「……よく、わからないけれど……そうだったらいいですね」
 香里は璃央を見つめてその言葉を聞いていた。

 ふと視線を香里に向けると、香里はほのかに頬を赤らめて布団を頭からガバリとかぶる。

 璃央はそんな香里の様子が可愛らしいと感じて、ふっと笑い、すぐに立ち上がった。

「よくお眠り。今日もパタパタと庭を駆け回っていたようだったからね」
「……おやすみなさい」
「ああ、お休み、香里」
 布団の中から聞えてきた声に返事をして、璃央はゆっくりと部屋の外へと出た。





 ムクリと香里が起き上がると、外はまだ暗いのに、璃央は物静かで寂しげな笛の音を奏でていた。
 ベッドの脇には相変わらず智歳が香里を心配したのか、きゅっと手を握り締めたままで眠っていた。
 香里はぼんやりと璃央の様子を見つめる。
 すると、璃央は笛を吹くのを止め、穏やかに笑って言ってきた。
「鎮魂歌にはちょうどいい曲だと思わないかい?以前……蘭が弾いていた曲なんだ。蘭らしい……物静かな曲さ」
「りょー……」
「ん?」
「私、夢を見た……」
「どんな夢だい?」
「人魚姫の……夢」
「……そう……」
「私、人魚姫、好きです」
「そうかい?僕も童話の中ではあの話が一番……」
 そこで香里は首を静かに横に振った。なので、璃央も言葉を止めて香里を見つめてくる。
「お話じゃないの。彼女が好き」
「そうか……。香里、もしかして、誰か好きな人でもできたかい?」
「…………。さぁ、わかりません……」
 璃央の問いに、香里はふわりと笑いかけて、再びベッドへと体を埋める。
 そっと脇を向いて横たわり、眠ったフリをしながら、香里は璃央の奏でる笛の音に耳を傾けていた。





 夏場だったのもあり、王の葬儀はもうほとんど済まされており、国賓を招いて行われるのは告別式のみだった。
 王城の一角にある広く大きな建物の中に、他国の重鎮が多く揃っていた。
 中年の偉そうな男から、若年ながら聡明そうな表情をした男まで……。

 香里と智歳は璃央が用意した子供用の喪服を着て、璃央の後ろをついて歩いていた。
 璃央も胸に喪章をつけた喪服を身に纏っている。
 まだ式は始まっておらず、はじめに挨拶を済ませようと疲れきった表情で椅子に腰掛けている王妃の元まで歩いていく。
 すると、王妃も香里が来るのを知っていたからすぐに嬉しそうに顔を上げた。

「この度はお悔やみ申し上げます」
 璃央が仰々しい口調でそう言うと、王妃も香里から視線を外して丁寧に会釈をした。

 香里もそっとスカートの端をつまんで上品に礼をする。
 なので、智歳もそれに続いて、胸に手を当て、丁寧に礼をした。

「よく……来てくれましたね。その子が香里ちゃんの言っていた弟さん?」
「はい。弟のちーちゃんです」
「あら?今日は元気がないのですね。……あ、こういう場では仕方ないか……」

 王妃は周囲を見回してふぅ……とため息を吐く。
 戦時下にある現在、他国の者達が揃っているというだけで、ピリピリした空間が出来上がってしまっている。
 それに加えて、王位継承権を巡っての身内同士での小競り合いも裏側ではあるようで、王妃は本当に困ったような表情を浮かべていた。

「……智歳です、はじめまして、王妃様」
 智歳は珍しく仰々しい口調でそう言い、王妃の手をそっと取った。
 一応王族の息子だけあって、基本的な礼儀は心得ていた。

「あらあら……聞いていたのはやんちゃさんだったのだけど、すごく紳士な子ね」
 楽しそうに笑って王妃は目尻にシワを作る。

「ちーちゃんは甘党で少し口が悪いけれど、頭の良い自慢の弟なんですよ」
 香里はすぐに王妃の横に歩いていき、そんなことを言った。

 見上げると璃央がゆっくりと周囲を見回していた。
 璃央には璃央の仕事があるのだろう。

 香里はそんなことを心の中で呟いて、すぐに王妃へと視線を戻した。

「そうそう。来るって聞いていたからお菓子をたくさん用意していたのですよ。この式が終わったら、一緒に食べましょうねぇ」
「本当ですか?ちーちゃん、よかったですね」
「……いいんですか?」
 香里が笑いかけたが、智歳は怪訝な表情で王妃を見つめていた。

 王の傍に居なくてもいいのかと言いたいらしい。

 王妃はそこで少々悲しそうに目を細めて答える。
「ええ。私はもう……何度もお別れしましたから」
 そう言い終えるが早いか、すぐに王妃の目から涙が零れた。

「あら……ごめんなさい」
 俯いて涙を拭い、そう言い添える王妃。

 王も王妃も……どちらも相手への情愛に満ちた方なのを肌で感じる。
 きっとこの場にいる者で、本当に別れを惜しんでくれる者など数えるほどしかいない。
 泣きたくても、王位継承権の話が飛び交い、葬儀の準備で周囲がパタパタしている中では泣くことが出来なかったのだろう。
 それだけ……王妃という身分は重い。
 それなのに、智歳の一言で我慢していたものが溢れてしまったようだった。

「……香里ちゃんと智歳くんが来てくれたのを知ったら、王も喜びます……。どうか、お別れの言葉、たくさん言ってあげてちょうだいね」
「はい」
「…………」
 智歳には言葉はなく、ただコクリと頷いただけだった。
 香里はそれが気になって智歳に目をやる。

 すると、突然、集団の中から1人の細身の男が飛び出してきた。
 手には鋭い輝きを放つナイフ。
 俊敏な動きで璃央の懐に入った。
 香里はそれを呆気に取られて見ていることしかできなかった。
 璃央の反応も速かったが、それよりも先に智歳が高く飛び上がって、男の顔を蹴り飛ばした。
 いつも腰に提げているナイフを抜こうと腰に手を掛けたようだったが、服が違うのでそこにないナイフにチッと舌打ちをし、素早く男に飛び掛かる。

「ちーちゃ……」
 心配して飛び出そうとした香里を璃央がすぐに止める。
「危ないから下がっていなさい」
 香里は璃央の服をぎゅっと握って、智歳の背を見つめた。

 さすがに男が倒れる時に凄い音がしたので、周囲の人がこちらに目をやっていた。

 智歳の声が恐ろしく低い響きを発する。
「キサマ、どこの国の者だ?」

 ジジジジ……と音を立て、智歳の指先に小さな炎が灯る。
 それを男の頬に当てて脅す。
 ブスブス……と肌の焦げる嫌な臭いが、香里の鼻まで届いた。

「今日は、亡くなった方へ最期の別れを告げる大切な日だ。お前、ふざけてんのか?」

 男は床に落ちているナイフに手を伸ばそうとしているが、智歳が空いている手で殴ってそれをやめさせた。
 そうこうしていると、薄茶の髪をした体格のいい男が駆け寄ってきて智歳を優しくどかし、男の腕を締め上げた。
 そして、少し遅れて警備の兵が走ってきて、細身の男を捕縛し、連れていった。
 智歳は指先の炎を消して、香里と目が合うと気まずそうにふいっとあさっての方向を向いてしまった。

 王妃に対して仰々しく礼をする体格のいい男。

「王妃、大丈夫でしたか?」
 しっかりとした声が香里の耳に心地よかった。

「ええ、大丈夫よ、武城(むじょう)。よかった、来て下さって……。王も喜びます」
「来ますとも。大事な友ですから」
 ガッチリとした体格からは想像も出来ないほど優しく笑って、その人は王妃の言葉に応える。

 王妃も安心したような顔をしているところを見ると、気心の知れた仲のようだ。

「……ええ、王が聞いたらどんなに喜んだか……。あ、朝真は元気にしていますか?」
「はい。少し前まで体調を崩していましたが、今は以前通りで……手に負えません」
「ふふ……妹は昔から気丈な子でしたからね。そういえば……真城ちゃん、指名手配が解かれたようですね?帰ってきましたか?私、一度で良いからお会いしたいのよ。今度連れてきてくださいな」
「はぁ……まだ帰ってきません。しかし、あんなのに会っても得しませんよ?」
 王妃が楽しそうに目をキラキラさせているのだが、武城はため息混じりでそう答えた。

「いいえ。聞いた話では見目麗しい王子様に育ってるって話じゃないの。私、女の子の王子様には目がないのよ?」
 ふふふ……と笑いながら小首を傾げてみせる王妃。

 香里に見せるような表情ではなく、少女に戻ったようにあどけない可愛らしい仕種だった。

「武城……」
 困ったように赤毛で背が低いが体格のいい壮年の男が人を掻き分けてやってきた。

「ああ、虎楼(ころう)」
「人ごみは苦手なんだ……1人にしないでくれ」
 親しげに声を掛ける武城に虎楼と呼ばれた男は頭を掻きながら、細い目を更に細めた。

「あら、コロちゃん?懐かしいわぁ……。覚えてる?私のこと」
「コロちゃんって呼ばないでください。お久しぶりですね、王妃」
「ええ、本当に久しぶり。なんだか、喜んでいいのか悲しんでいいのか……」
 寂しそうな目をして、王妃は王の棺が置かれているステージに目をやった。

 香里が王妃に歩み寄ってすぐに笑う。
「喜んでいいのではないですか?王様は王妃様が喜ぶのを怒るような方ではないと思います」
「香里ちゃん……」
 香里の笑顔に救われたように王妃はふんわりと笑い、香里の頭を撫でてくる。

「お菓子、もっと用意しておけばよかったわ。そしたら、2人も呼べたのに……」
「王妃、さすがにこの年で菓子もないでしょう」
「……ですよ」
「あら?2人ともお菓子大好きだったくせに」
「む、昔の話です」
 王妃の言葉に不機嫌そうに2人が顔をしかめる。

 それを見上げて智歳がぷっと吹き出した。
 香里も注意する前に笑ってしまい、仕方がないのでそのまま虎楼を見上げる。

 赤い髪……赤い目……右手に赤い印。
 喪服を着ているので鎖骨の印は確認できなかったが、おそらく印をつける箇所が無くなって右手に印をつけているのだ。
 それだけ……腕の立つ木こり……ということか。

 香里はマジマジと虎楼を見上げ続ける。
 似ていると思ったのだ。顔ではなく、雰囲気や所作が。
 こんなに大人びた人ではないけれど、香里に初めてできた友達……龍世に似ていた。

 ドクンドクン……と胸が脈打つ。
 香里の様子がおかしいのに気がついたのか智歳が香里の傍に来て、声を掛けてきた。

 その呼びかけにはっとすると、そこで璃央も香里と智歳に
「そろそろ席に戻るぞ」
 と言い、スタスタと歩き始めてしまった。

 香里は王妃・武城・虎楼に礼をして璃央を追う。
 慣れない黒い靴がパタパタと鳴った。

 智歳は王妃に珍しく優しい声で、
「それでは後ほど」
 と声を掛けた上で2人を追ってきた。

 香里が智歳を見ると、智歳は先程炎を発生させていた自分の指先を見つめて、唇を噛み締めていた。


≪ 第6部 第4章 第6部 第6章 ≫
トップページへ戻る


inserted by FC2 system