第10章  これがわたしの幸せ

 葉歌はぼんやりと紫音の顔を見つめていた。

 天井の広いリビングのような部屋。

 椅子にちょこんと腰掛けて、紫音が出してきた紅茶を口に含む。

「お腹空いてないですか?葉歌さん」
 紫音は湖から汲んできた水をカップに注いでそのまま飲む。

「お腹は……別に」
「そう」
「あの、わたし、なんでここにいるのかな?」
「え?」

 葉歌が不思議そうに呟く。
 紫音に尋ねられても答えられない。

 紫音も昨晩から今朝にかけての記憶が無かった。
 朝起きて1階に降りてきたら葉歌がいて、驚いたのは紫音のほうだった。
 ……結晶を溶かしたお湯を飲ませるためにキリィがずいぶんと勝手なことをしたことは、知らないほうがいいだろうからこのほうがよいのだろうが。

「わたしは……村で臥せっていて……。そうだ、真城が泣いていたの。だから、早く目を覚まさなきゃって思ったんだけど、具合が悪すぎて……どうしようもなくて……。えーと……で、目を覚ましたら……ここにいて……。体の調子が良くなってて……外に出たら、紫音くんが……」
「すまない、葉歌さん」
「え?」
「僕も、昨晩の記憶がないんだ。確実に死んだなと思ってたんだけど、怪我も治ってたし」
「…………。状況が見えません、紫音先輩」
「僕も同じく」
 葉歌が真城の真似をしてそう言うと、紫音も笑って答えた。

 葉歌もふふ……と笑って、思いついたように尋ねる。

「そういえば……」
「ん?」
「どうして、紫音くんってわたしのことは『葉歌さん』なの?わたしのほうが年下なのに、なんだかいつもわたしのほうが偉そうな感じがして」
「おかしいかい?」
「うぅん……おかしい……というか、遠い気がするというか……」
「そう?葉歌さんは聞き上手なふんわりしたイメージがあるから、どうしてもね。それに『葉歌ちゃん』は性分に合わないというか……」
「『葉歌くん』は?」
「……変」
「…………。そうね」
 困ったように顔を歪ませる紫音を見て、葉歌はおかしそうにぷっと吹き出す。

 そして、その後に悪戯っぽく笑って付け加える。
「『真城くん』は紫音くんにとっては自然なのね。真城、可哀想ぉ」
 その言葉で紫音ははっとして、慌てたように首を振る。
「い、いや……女の子として見てない訳じゃなくって、そのだね……」
「ま、村の王子様だしね、真城は」
 ふふ……と笑う葉歌。

「真城の可愛さに気がつかないなんて、みんな人生の3分の1は損してるわ」
 葉歌は優しい目でそう呟き、紅茶を口に含む。

 紫音は葉歌のそんな表情を顔を赤らめて見つめている。


 突然、ガンガン……と塔の扉が叩かれる音がした。

 紫音も葉歌も警戒するように扉に視線を移す。

「マシロです。開けてください」

 確かにその声は真城なのだけど、真城とは違ったハリのようなものがあって、葉歌は少々首を傾げる。
 もしかしたら、また、『彼』が出てきているのかもしれない。

 紫音が立ち上がって、スタスタと歩いていき、分厚い扉を開ける。
 息を切らし、顔色の悪い真城がそこに立っていた。
 真城の後ろに月歌と龍世もいる。

「よかった……二人とも無事だ」
 真城はほっとしたような声を漏らし、すぐに紫音の脇をすり抜けて、フラリと葉歌の膝に倒れこむ。

 葉歌はそれをしっかりと受け止めて、真城の頭を撫でる。

「この体は消耗が激しい。相性が悪いのかもしれない……ぼくはもう休むよ。ハウタさん……」
「……ええ、おやすみなさい」
 葉歌は少々の戸惑いを感じながらも優しい声で応えた。

 真城とは違うけれど、自分を慕ってくれている『彼』の雰囲気は嫌な気がしない。

「あああ、そんなところで眠っては……」

 月歌が荷物を壁際に適当に下ろしてすぐに駆け寄ってくる。
 椅子に腰掛けている葉歌の膝に、顔を埋めて眠る真城を抱き上げようと手を伸ばしたのを、葉歌はそっと手を出して止めた。

「もう少し……このままで」
「葉歌、調子が……」
「大丈夫、体の調子はいいから」
 月歌に向かってふんわりと微笑む葉歌。

 それを見て月歌は仕方なさそうに頷いて、手を引っ込める。

 龍世が床に転がっている椅子を起こして、その上にあぐらを組んで座った。
「眠い!」
 勢いよく叫ぶ龍世。
「夜通し歩いてきたから体が変!」
 どうやら睡眠不足でナチュラルハイな状態らしい。

 夜通し歩いてきたのならば、疲れて当然で、真城の体が弱いとかそういうのではない。
 むしろ、真城はベッドか葉歌の膝でしか眠れないという、おかしなデリケートさ以外は精神的にも体力的にもタフなのだ。
 相性が悪いとかそういう問題ではないなぁ……と葉歌は苦笑する。

 月歌も転がっている椅子をよっこいしょと立てて、バタンと座り込む。
 さすがに疲れたらしい。

「つぐたん、夜目利かないのに、真城ひどいよなぁ。早くしろ早くしろって」
「だいぶ転びましたね……まぁ、いいでしょう。ちゃんと着きましたし」
「つぐたんは優しいなぁ……ホント、真城バカなんだから」
「たっくんも優しいですよ、一言多くなければ」
 龍世の言葉に月歌はニッコリ笑いながら答える。

 紫音がキッチンから湯気の立ったマグカップを持ってきて、2人に渡す。
「シオちゃん、サンキュー♪」
 すぐに龍世は中身を口に含んで次の瞬間、勢いよく噴出した。

 黒い液体が床に散る。

「汚いよ、たっくん……」
 葉歌が怪訝な顔でそれを見つめる。

「また、たっくんって……あー、それはいいや。シオちゃん、これ何?超苦い……しかも、古い。古い味がした」

「古い味……」
 3人とも、龍世の形容に苦笑した。

 古い味とはまた判断の難しい表現だ。
 酒や漬物ならば、古ければ古いほどいいと言うものの……。

「コーヒー……なんだけど、龍世は駄目?」
「オレは超甘党なんだぞ……こんな、大人の味覚100%なものを出すな!」
 ふくれっ面でそう叫ぶと、口元を拭って、紫音にカップを突っ返した。

 紫音も好きな飲み物……牛乳。な人間なのだから、少しは配慮してやるべきだと思われるが、どうもそのへんは無頓着といったところか。

「紅茶もあるけど、砂糖がないんでしょう?」
「ああ、そうなんだ。調味料が全然なくて……」
 葉歌の質問に紫音は困ったように頭を掻きながら、そう返してくる。

 コーヒーを口に含んで、苦そうな顔をしながらも紫音は中身を全て飲み干した。

 それを見て、月歌が苦笑して立ち上がる。
 カップを椅子に置いて、荷物をゴソゴソと漁り始めた。
「調味料は常備品ですからねぇ……ちょっと待ってくださいね」
 月歌はそう言いながら、色々なものを出してくる。

 砂糖。
 塩。
 コショウ。
 小麦粉。
 ターメリック。
 ウコン。
 唐辛子。
 ジャガイモ。
 玉ねぎ。
 茄子。
 ピーマン。
 牛乳。
 バター。
 米。

「牛乳はさすがに傷んでると思いますけど……。あと、お肉があれば、それなりに美味しいものが作れそうですよ」

 穏やかに微笑む月歌を見て、龍世が勢いよく立ち上がる。
「さっき、ヒッケ鳥見たんだ♪オレ、狩ってくる!!」
 そう叫んだ後に、グ〜……と龍世と紫音の腹が鳴った。

 龍世は紫音の腕を掴んで、ニッコリと笑いかける。
「シオちゃんも行こうぜぇ♪ヒッケ鳥ヒッケ鳥♪なかなか食えないんだよなぁ」

 ヒッケ鳥とは体長3メートルもある鳥のことで、空は飛ばずに地を歩く。
 走りもしないノロマ鳥なのだが、力だけは強くて、なかなか捕まえられる猛者がいないのだ。
 動物は友達と言いながらも食べる時にはシビア。
 それが彼のバランスのよさの由縁か。

 紫音も苦笑しつつ、壁に立てかけてあった大剣を手に取った。
「そうだね、狩りはトレーニングにもなるし。よし、行こうか」
「よっし!じゃ、目標ヒッケ鳥2匹ね〜」
 龍世も斧をガシッと掴んで、紫音とともに外へと飛び出していった。

 月歌がそれを見送りながら、眼鏡をかけ直す仕種をする。
「あんな大きいものを2匹も持ってこられても捌くのが大変……」
「兄ぃ、言うのが遅い」
 葉歌は月歌の呟きを聞き漏らさずに突っ込んだ。

 月歌はネクタイを緩めながら、葉歌の傍まで歩いてきて、額に触れてくる。
「本当に調子が戻ったみたいですね」
「ええ」
 葉歌がふんわりと答えると、月歌はふわぁ……と眠そうに欠伸をした。

 葉歌は真城の頭を撫でながら、目を伏せて言う。

「上の階に客間がたくさんあったから少し寝てきたら?狩りだったらそんな簡単に帰ってこないだろうし」

「そう……ですね。そうします」
 月歌はスーツを脱ぐと、シャツのボタンを緩め、ホルスターベルトを外し、椅子に掛けて階段を上っていく。

 けれど、何か思い出したのか後ろ向きで階段を下りてきた。

「どうしたの?」
「真城様、そのままで平気でしょうか?」
「ええ、大丈夫よ。少ししたら起こして、部屋に移ってもらうから」
「そうですか?じゃ、お願いしますね」

 目を細めてそう言うと、また階段を上っていくが、また戻ってきた。

「何?」
「真城様の様子がおかしかったんですが、葉歌は何かわかりますか?」
「……さぁ?多重人格とか?」
「え……」
「冗談よ。兄ぃ、真城は大丈夫だから、たまにはぐっすり休んで?ここのところ、ずっと寝てないんじゃないの?」
「……そう、ですね。じゃ、お言葉に甘えて。おやすみ、葉歌」
「ええ。おやすみなさい」
 葉歌は穏やかな声でそう言い、月歌が階段を上ってゆくのを見送った。

 真城が少し窮屈そうに顔を動かす。
「真城……」
「ん……首、痛い……むぅ……」
 葉歌はその呟きにぷっと吹き出す。

 起きたかと思ったが、どうやら寝言のようだ。
 けれど、さすがにこのまま寝ていると体が冷えてしまう。
 布団くらい持ってきてもらうべきだったか……?

「……戒」
 葉歌はその声に頭を撫でる手を止めた。

「戒……駄目だよ……また、会うんだから……」
 苦しそうに声を漏らす真城。

 葉歌はその声で不安になって、真城の肩にそっと触れ、ゆっくりと揺さぶる。

「真城、起きて?まーくん」
 苦しそうな声を上げる真城が、葉歌の声でゆっくりと目を開けた。

 ぼーっと壁を見つめ、何かを考えるように目を動かしている。

「真城」
 葉歌の声に真城はガバッと起き上がった。

 葉歌を確認して真城は顔をほころばせる。

「葉歌♪」
 嬉しそうに立ち上がると、しっかりと葉歌を抱き締めた。

 力強く抱きしめられたものだから、葉歌は目を白黒させる。

「よかった……急に消えちゃうから……あれ……?ここ、どこ?」

「真城、そっちが先に出るべき問いだと思う。嬉しいけれど……」

「……まぁ、いっか。葉歌が無事ならそれで」

 苦笑を漏らす葉歌。
 けれど、あっけらかんとした声でそう言う真城の言葉を耳元で聞いたら、なんだか、まぁいっかという気分になった。

 とりあえず、真城たちが歩いてこられる距離。
 それが分かっていれば十分なのだと思う。

 葉歌はぎゅ〜っと真城の腰を抱き締める。

「何?」

「幸せを噛み締めてるところ」

「そう?くすぐったいよ」
 真城は葉歌の言葉に笑いながら、よしよしと葉歌の頭を撫でる。

 2人は黙ったまま、しばらくその体勢でいた。

「真城」

「ん?」

「落ち着くね、心臓の音……」

「そう?」

「護られてる気がして、安心するよ」

「……だいじょうぶ。葉歌は、ボクが護るよ。だから、もう勝手にどこかに行かないで」

 真城の優しい声。

 何度も何度も聞いている声なのに、今日はいつも以上に安心する。

 ノスタルジーさえ感じる。
 なぜかは分からない。

「わたし……跳んだのかしら?」

「え?」

「真城が消えたってさっき言ったから……どうも、ここまで来た経緯が分からなくって」

「葉歌が急に立ち上がって、『ちょっと行ってくるね』って言ったかと思ったら風が吹いて消えたの」

「そっか……じゃ、風跳びだ……。わたし、使えたんだ……」

「上級呪文だよね?」

「ええ。最高位の呪文」

「すごいなぁ……」

「これだったら、あなたが騎士になった時、従者として雇ってくれる?」

 そこで真城が力を緩めて葉歌から離れる。

 葉歌は温かかった肌が少しだけ涼しくなって、微妙な寂しさを覚えた。

 真城は困ったように笑うだけ。
 駄目だよとも、いいよとも、真城は言わなかった。
 葉歌は駄目なんだな……と真城の表情から推測して目を細める。

 そんなことを考えていると、ぐ〜……と真城のお腹が鳴いた。

「お腹減った……」
「もう、真城ったら……」
 真城の呟きに、葉歌はクスクス……と笑い声を漏らす。

 気だるさがあまりないおかげだろうか?
 なんだか、久方ぶりに風緑の村にいた時のような、和やかな気持ちになっている気がした。


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