第3章 真城と『マシロ』 相変わらず兄の帰りは遅く、葉歌は簡単な食事を済ませて、最近出たばかりの本に目を通していた。 王都から行商で来てくれる本屋さんは葉歌の顔を覚えていて、顔を出してすぐにおすすめの本をたんまり差し出されてしまった。 冷たい紅茶をコクリと飲んで、ペラペラとページを捲ってゆく。 「へぇ……変わった文章」 感心したような声を漏らしてサラサラと読んでゆく。 葉歌はあまり心情を傾けて小説を読むタイプの人間ではなかった。 真城だと一生懸命目を動かして、ボロボロ泣きながら読んだりもするのだが。 だから、真城から薦められた『風のおとぎ話』も普通に読み進めて、真城に目をパチクリされたほどだった。 風を通すために開けていた窓から風が入ってきて、下ろしている髪がなびいた。 葉歌は髪を耳にかけ、すぐに読書に戻る。 そうしていると、突然声がした。 「ハウタさん」 みんなとはアクセントの違う呼び方。 葉歌は声の主が誰なのかを察してすぐに優しく声を掛けた。 顔は上げずに……だった。 「何?真城」 「…………」 おそらく不機嫌になっているのだろう。 『彼』はしばらく何かを考えるように黙り込んでいる。 葉歌は仕方なく本を閉じて顔を上げ、立ち上がる。 窓のところに上半身だけ見える状態で立っている真城。 眼差しが少しだけ鋭い。 葉歌はふんわりと笑いかけて、窓際に歩いてゆく。 真城は唇を噛み締めて、葉歌を見上げてくる。 「こんばんは」 窓枠に手を掛けて、葉歌は小首を傾げる。 「こ、こんばんは……」 その仕種に見惚れるようにして、どもりながらの返事。 「今夜はどんな御用かしら?今日のわたしはピンチではないわよ?」 「……失恋、されました」 「あ、なるほど。あなたは……わたしのヒーローなのかしら?」 「きみのヒーローは、この子です」 「ふふ……そうだけれど、わたしが大変な時に出てきてくれたでしょう?3回とも」 「ぼくは……きみを護るために」 「わたしを護るためにいてくれるの?」 「はい」 葉歌のふんわりとした声に、真城は目を細めて真剣に答えてくる。 葉歌はその返事にニッコリと笑う。 真城がそれを見て顔を赤らめ、俯いた。 窓枠に肘を突いて真城に目線を合わせるように屈む。 「わたしに……キスしようとしたのは微妙だけど」 「すいません」 「もう、やらない?」 「いつでも、触れたくて触れたくて仕方ありません」 「あは……熱烈的ね」 「ごめんなさい。こういうことを言うのはいけないのですか?」 言葉はわかるけれど、まるで世馴れしていないような口振り。 葉歌はゆっくりと真城の頬に触れて、かぶりを振る。 「いけない訳ではないけれど、なかなか口にできる人はいないの」 葉歌の手をきゅっと握って、真城はその手に口づける素振りだけした。 瞼がゆっくりと開かれて、スカイブルーの目が葉歌を捉える。 自分は……これで満足しようとしているのだろうか。 違う……そうじゃない。どうしてか、『彼』に惹きつけられるのだ。 恋とは違うけれど、何かが葉歌の心を掴んで離さない。 触れられることが嫌じゃないのは、真城だからなのか……それとも、『彼』に何かがあるからなのか。 「お慕いしております。けど、何かを求めようとは思ってない」 「…………」 「ぼくは、絶対にきみを護ります」 「ねぇ、あなたは誰なの?」 葉歌の問いに『彼』は笑顔だけを返してきた。 風が真城の髪を撫でる。 隠すようにしていたもう片方の手を、真城は差し出してきた。 2本の向日葵。 それを両手で持って、そっと葉歌に手渡してくる。 「1本はハウタさんに。もう1本はお兄さんに」 「兄ぃに?」 「マシロから……と」 「わかったわ」 葉歌は少しだけ寂しそうに目を細める。 「ご、ごめんなさい……無神経で」 「いいえ。何かあったんでしょう?」 「はい。この子は、女の子らしい心を持った子だと思います」 「そうよ」 その言葉に葉歌は嬉しそうに微笑む。 『彼』は分かってくれている。 それが嬉しかった。 「はい。だから、ぼくも役に立ちたくて」 「……うん」 「それじゃ、ぼくは帰ります」 「ええ、気をつけて」 「はい」 葉歌は真城の頭を軽く撫でてから手を振った。 ペコリと礼をして『彼』は走り去ってゆく。 葉歌の胸には向日葵の花。 頑張れというメッセージと熱い想いを兼ね備えたような、そんな花。 きっと葉歌を慰めに来てくれたのだ。 ほろりと涙が零れる。 「あーあ……今頃……来た」 葉歌はそれだけポツリと呟いた。 夏のぬるい空気に涼しい風が混じって、葉歌の頬を掠めていった。 月歌はため息を吐きながら家路をとぼとぼと歩いていた。 真城は武城と本当に話をつけたようで、御前試合出場の許可をもらってしまったらしい。 騎士になることには反対のはずの武城が、そんなにあっさりと首を縦に振るわけはない。 朝真が何か口添えしたのだろう。 それでは真城に怒鳴られた自分はなんだったのか……。 確かに少々出過ぎたかもしれないが、真城ならばあのくらいの物言いであんなに怒るとは思いもしなかった。 反省はしたものの、少々納得がいっていないのも確かで……。 大嫌いと叫ばれるよりはマシだけれど……、どうも辛い。 自分の中の想いに……気付いてしまったせいだろうか。 前方から誰かが走ってくる。 月歌はすぐに顔を上げたが、夜目が利かないため、顔の確認ができない。 「あ……」 走ってきた人物が立ち止まって、そんな声を発する。 聞き慣れた声なのですぐにわかった。 「真城様ですか?」 月歌は穏やかに尋ねる。 「……うん」 真城は少々躊躇うような声で返事して歩み寄ってくる。 手で触れられるくらい傍に来たので、月歌は持っていたカンテラの灯りで顔を確認した。 眼差しがいつもの真城よりも少々鋭い。 「あなたは……」 「ん?」 目を細めた月歌を真城は可愛らしい目で見上げてくる。 月歌は眼鏡を掛け直してかぶりを振る。 「いえ、なんでも」 「……あの」 「はい?」 「この子は……え……と」 真城は困ったように目を泳がせている。 月歌はゆっくりと背を屈めて目線を合わせ、顔を傾けて覗き込むような仕種をする。 「この前の方……ですか?」 優しい声。 確認するように、しっかりと真城を見据えている。 真城は月歌の顔を俯いた状態でチロッと一瞥し、頭を掻く。 「……そうだよ」 「あの……お願いがあるのですが、真城様の体を勝手に使わないでくれませんか?」 「この子とはちゃんと約束してるんだ」 「え?」 真城はしっかりとした声で答えてくる。 月歌はその返答に困惑してしまった。 真城はそっと月歌の頬に触れて、小首を傾げる。 あまりに突然のことで、月歌はビクリと体を振るわせた。 顔が紅潮してゆく。 けれど、相手が真城なだけに振り払うことは気が引けた。 「駄目だよ」 ポツリと呟かれた言葉。 月歌は意味が分からずに取り乱すだけ。 「は、え?あの……」 「10年前と同じじゃ、可哀想」 「え?」 「10年って短いけれど、この子にとっては長いよ」 「…………」 「あなたはこの子を救ってくれたけど、そこで止まったままじゃないだろ?」 優しく月歌の頬を撫で、見透かしたような目で笑う真城。 「あなたは年上ぶりすぎる」 その言葉に月歌は目を細めた。 真城はゆっくりと月歌の眼鏡を外し、自分の耳に掛ける。 「うわ……度がキツイなぁ……」 おかしそうに笑って、月歌に眼鏡を返し、そのまま脇をすり抜けてゆく。 月歌は眼鏡を掛け直して、クルリと振り返った。 カンテラの灯りで、真城の屈託のない笑顔が浮かび上がる。 「あなたは、想いを伝えられる。その口で、その手で、その体で。こんなに羨ましいことはないんだ」 真城の声が、可愛く、切なく揺れる。 月歌は、今の言葉を言っているのが真城の意識ではないことを知っているけれど、胸が締め付けられた。 「受け売りだけど……ぼくもそう思うから」 爽やかに白い歯を見せて笑うと、真城はすぐに走って行ってしまった。 風がそれを追うように吹き抜けてゆく。 月歌は眼鏡を耳に掛けて、はぁ……とため息を吐く。 「そんな出過ぎたことが、できるわけないじゃないですか……」 それはとても小さな呟きで、自分に言い聞かせるような言葉だった。 10年前……。 月歌の最初の仕事は、夕方になっても帰ってこない真城を迎えに行く……というものだった。 慣れない服と慣れない眼鏡で歩く道。 ただ、妹の薬代を稼ぐために、やっとのことで見つけた高額の仕事。 雇い主となる武城も朝真も気の良い人で、葉歌の状態を知ったはじめの月は、仕事のできない自分にも他の人と同じだけの給与を与えてくれた。 執事服も眼鏡も、与えてくれたのは2人だった。 武城は豪快に笑ってこう言った。 『世の中助け合いだ。何年かして一人前になったら、今渡している金の分以上のことをお前がいつかしてくれる。それだけで構わんさ』 と。 丘の頂上まで登ると、男の子と間違えそうな恰好をした女の子が木の傍で膝を抱えて座っていた。 それが……真城だった。 寂しそうな目で夕日を見つめて、月歌の存在にも気がつかない。 『真城様……ですか?』 月歌は足をそろえてしゃがみこみ、真城の顔を覗き込んでにっこりと笑いかけた。 真城が顔を上げて首を傾げる。 『だれ?』 『今日づけであなたのお世話係を任されることになりました。月歌……と申します。満月の夜に生まれて、月が歌っているかのように綺麗だったから月歌という名になりました』 『そう……』 『はい。よろしくお願いしますね?お嬢様』 『うん、つっくん、よろしくね』 『つっくん?』 『だ、だめ?』 『いいえ、お好きなように呼んで下さい』 月歌の不思議そうな顔に、真城が怯えるように目を細めたので、月歌はすぐにそう言って笑いかけた。 年の離れた妹がいるから、子供の相手は嫌いじゃない。 そんなことを考えながら、月歌は真城の頭を優しく撫でたのだった。 あの日の夕暮れの色を、月歌はきっと一生忘れないだろう。 |
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