第1章  心を包む、不思議な感情

 夕暮れの街の中、龍世が包帯だらけで頬を膨らませて歩いている。
 その横顔を見つめて、香里は微かに苦笑した。

 智歳は龍世の試合が終わってから、本を読みたいからと言って自室へと戻ってしまった。
 からかうように『2人っきりで遊んできなよ』という言葉を残して。
 香里はそれを思い出して、むっと頬を膨らませた。
 そういうのではないのに。
 だって、自分は璃央が好きな……はずなのだから。

 服の上から匂い袋を握り締める。
 ローブに皺が寄り、自分の胸がドクンドクンと脈打つのを感じる。
 不思議な香りの匂い袋。
 これは璃央がくれたものだ……。
 匂いを嗅いでいると、だんだん思考がぼんやりしてくる……。
 眠れない香里のために作ってくれたものだった。
 そう。そのはずだ……。

 疑惑と信頼。
 香里の心中はずっとその2つの間を彷徨っている。
 たとえ騙されていても……それでいい。
 そんなことさえ考える自分は愚かだろうか?
 この国に戻ってきてから焦燥感が消えない。
 自分の体の中の流れが澱んでいるかのような、おかしさ。
 時折、キュゥと心臓を掴まれたような、そんな痛みを発する。
 その痛みを香里は知っている。この痛みは不安……。
 両親が死ぬとわかっているのに、何も出来ずに別れることになったあの時と同じ痛み。

 自分は何をそんなに不安に思っているのだろう。
 御影の様子がおかしいから?
 璃央への疑惑が強まったから?
 一体、何だろう?

「くっそぉ……も少しで勝てたのにさぁ……」
 悔しそうな声を龍世が上げて、香里ははっと我に返り、すぐに龍世に笑いかける。
「惜しかったですね。でも、カッコよかったですよ」
 その言葉に龍世は眉をへの字にして、恥ずかしそうに鼻の下をこする。
 夕日のせいだとは思うが、若干顔も赤く見えた。
「カッコよくなんかないよ、負けたんだから」
「負けたら、カッコ悪いんですか?」
「うん」
「……そんなことないですよ」
「カッコ悪いよ」
「私は、たっくん、カッコいいって思いました!」
 龍世が不機嫌そうに呟くのを見ていられなくなって、香里は両拳を握り締めてそう叫んだ。

 叫んですぐにぼっと顔が熱くなる。
 そんなにムキになって言うようなことじゃないのに。

 龍世はそんな香里の顔を見つめてきょとんと目を丸くする。
 香里は慌てて次の言葉を紡ごうとしたけれど、言葉にならずに口がパクパクするだけ。

 すると、突然龍世の手が伸びてきて、香里の頬を掠める。
 ビクッと香里が体を震わすが、なんでもないように龍世は目を細めて呟いた。

「髪飾り、変えたんだね」
「え?」

 龍世の手を視線で追うと、ちょいちょいと白い髪飾りの端っこを摘んで弄んでいるのが見えた。

「え、あ、はい。えっと……結構前に」
「え?昨日も一昨日もその前もそうだった?」
「はい」
「そっかぁ」
 龍世は納得したように頷いて歩き出す。

 香里は触れられた髪飾りをそっと直して、すぐに龍世の横に並んだ。

 気がつかなくてごめんねとかそういう言葉はない。
 彼らしくていいけれど……。

 もう1度、龍世に触れられた髪飾りに触る。

 なんでもないことのはずなのに、何故か笑みが零れた。

 別に、似合うとも、可愛いとも誉められていないのに。

「……なにか、食べたいものある?」
「え?」
「毎日応援してくれたから、そのお礼」
「お、お礼なんて、そんな……」
 香里は慌ててかぶりを振る。

 龍世がそれを見て困ったように頭を掻いた。
 街路に2人の影が伸びて、ゆっくりと2人が言葉を発するのを待っている。

 2人はただ黙って歩き続ける。

 いつもは元気な龍世も、さすがに今日は疲れたのかもしれない。

 はぁ……とため息を吐く龍世。

 香里は気遣うように龍世の顔を覗き込んだ。

「どこか、座りませんか?」
「え?」
「ゆっくり、お話したいです」
 穏やかに目を細めて笑う香里。

 無意識だったとはいえ、少々顔が近すぎたことに気がついて、すぐに香里は体勢を元に戻そうと足を動かし、そのまま足が絡まって転びそうになった。
 龍世がそれに気がついて、香里の細腕をアームウォーマーの上から掴んだ。
 支えが出来たおかげで崩れそうになった体勢がなんとか元に戻る。

「ご、ごめんなさい。そそっかしくって……」
「ううん、ごめんね。オレ、頭の中試合のことばっかで。負けたんだから負けたで終わらせなきゃ男じゃないよね」
「そ、そんなことはないと思いますけど」
「せっかくこーちゃんと一緒にいるんだから、楽しまなきゃね♪」
 ようやく龍世がニッカシと笑った。

 香里はその笑顔を見て、優しく目を細める。
 可愛い。
 たっくんは可愛い。
 そう、心の中で呟く。

 智歳は龍世に対して、この性格は今の時期だけ許されると言っていたけど、香里は違うと思った。
 確かにちょっと危ない行動もあるかもしれないけれど、龍世の持っている無邪気さは人間が生きていくうえで忘れてしまうような、そういう綺麗さだ。
 だから、見ていると微笑ましい。
 香里が見失わないように必死になっているものを、こんなに簡単に腕の中に擁きいれている彼は、香里にとっては眩しくて仕方がない。
 まるで、昔から知っているかのような懐かしさ。

 ただ微笑むだけの香里を見つめて、龍世が不思議そうに首を傾げた。

 香里はニッコリと笑って、澄んだ声で伝える。

「たっくん」

「なぁに?」

「たっくんは、変わらないでくださいね」

「へ?どうしたの?いきなり」

「いいえ、そう思っただけです」

「そう……」

「はい」

 香里が笑顔で頷くと、龍世は不思議そうに首を傾げていたけれど、
「了解♪」
 と言って、スキップ混じりで歩いてゆく。

 香里はその背中をじっと見据えて、ポツリと呟いた。

「私、たっくんに会えてよかったんだと思います」

 無意識的に零れた言葉と……涙。

 何がなんだかわからないけれど、香里の胸はキュゥと痛くなる。
 それは恋の痛みか、得体の知れない不安のために発される痛みか……。
 香里の涙に気づいた者は、誰もいなかった……。





 蘭佳が目を覚ますと、そこには眠る前はいなかったはずの璃央がいた。
 慌てて起き上がろうとしたが、傷口がズキリと痛んで、すぐにベッドに体が埋もれる。
「そのままでいいよ」
「で、ですが……」
「いいよ、無理しないでくれ」
「…………。はい」
 蘭佳は璃央の優しい声で枕に頭を落ち着けた。

 目を覚ましたのは4日前……。
 蒼緑の国から緋橙の国へは馬車で急いでも3日はかかる。
 伝書鳩の連絡が届いてすぐに戻ってきてくれた計算だ。
 そういう面があるから、璃央に興味を持たれていないとわかっていても、ついつい心が傾いてしまうのだ。

「よかった……」
「璃央様……」
「任務に危険はないと、勝手に踏んでいた僕の責任だ……すまない」
「いえ。私は、何も果たせていませんから……。秘書、失格です」
「そんなことはない。よく、目を覚ましてくれた」
 璃央は優しく微笑み、ふぅ……と安堵する。

 蘭佳はぼんやりする頭で、任務中の出来事をなんとか思い起こそうと天蓋を見つめた。
 失血が多すぎてショック状態に陥ったためか、記憶が曖昧だった。

「……東桜は?」
 まず出た問いはそれだった。
 璃央が困ったように眉をひそめる。

 それはそうだ。彼が聞きたいことはもっと他にあるのだから。

 けれど、はじめに浮かんだのが東桜の顔だったのだから仕方ない。

「東桜は、昨日屋敷に戻ってきて、部屋に引っ込んだまま出てこないらしい」
「そうですか……一応無事なんですか?」
「そのようだ。ピンピンしていたが、眠いから寝ると言われたと執事が言っていた」
「そう。彼らしいですね」
「……状況を教えて欲しいのだが」
「あ、申し訳ありません。え……と」
 蘭佳は必死に記憶の糸を手繰り寄せて、自分が見てきた情報を分かる範囲で璃央に伝えた。

 塔を囲む風車が魔力を吸収し、それを生体エネルギーの結晶へと変換していること。

 その装置さえあれば、御影の命を繋ぐことができ、香里に頼らずとも彼女の体を治すことができるという可能性が広がったこと。

 塔を護る守護者がいたが、それを東桜が倒したこと。

 自分はその守護者の主と名乗る人間に斬られたこと。

 最後に、東桜が持っていた葵の国の秘宝のおかげで、この屋敷まで戻ってくることができたこと。

 それを伝えて、ふぅ……と一息ついた。
 璃央はその情報を聞きながら、何度も何度も驚いたような表情を見せた。
 そんな奇跡のようなものがあるのかと……言いたげな表情だった。

 璃央は棚の上に置いてある葵の国の秘宝の片割れを手に取る。

「……もう半分は、東桜が持っているはずです」
「そうか……」
「どう利用されるかは、璃央様次第かと……」
「ああ。本当にご苦労だったね」
「いえ」
 璃央の笑顔に蘭佳も精一杯の笑顔を作って応えた。

 璃央がそれを見て優しく目を細める。

「やっぱり、蘭には笑顔が似合うよ。もっと笑うといい」

「…………」
 蘭佳は顔が熱くなるのを感じて、顔を布団の中に引っ込めた。

「鈴蘭は季節違いで無理だったから、向日葵を持ってきたよ。早く元気になっておくれ」
 花瓶に入った小振りの向日葵を指し示して、璃央はゆっくりと立ち上がる。
「勿体無いお言葉です」
 仰々しくそう返して、蘭佳は璃央の顔を見上げる。

 何かを考えるように璃央は壁を見つめてしばらく立ち尽くし、開いた窓からすぅぅぅと入ってきた風が髪を撫でてゆく。

 璃央は石をギュッと握り締めて物静かに話し出した。
「我が軍はどの国との戦いも優勢らしい。降参した国もいくつかあってね……もうすぐ、無駄な争いは終わるよ」
「そう、ですか」
「ああ。あと少しで、平和な世界が戻ってくるね。この争いが終わったら、我が国は戦争抑止の国となろう」
「はい……」
「僕は、今のような代理ではなく、絶対に軍司令官または王になって、実現してみせるよ。この世界から争いを無くすために」
「はい。璃央様ならきっとできます」
「ありがとう」

 璃央の理想は、蘭佳の理想。
 争いはもう起こっている……。
 だから、それを終わらせるために戦うことは、間違いではないと蘭佳は思うのだ。
 そして、その争いを終えた後に、どのように行動するか……それが重要だ。
 圧倒的な武力を人格者が持てば、それは確かな抑止力となる。
 璃央ならばそれも可能だと、蘭佳は考えている。

「璃央様」
「ん?」
「私も、その時は何かお力になれるでしょうか?」
「蘭は、温かい家庭を作って、幸せに暮らすといいよ」
「え……?」
 蘭佳はその言葉につい目を細めた。

 璃央はそれには気がつかずに優しく笑う。
「争いが終われば、こんな無茶な任務はもうないから。蘭は幸せになるといい。自分では気付いていないかもしれないけど、君は絶対に家庭向きだよ」
「……初めて、言われました、そんなこと」
「僕は、蘭の作るハッシュドビーフのファンだからね」
「勿体無いお言葉です」
「いや、本当に美味しかったよ、あれは。元気になったらまた作っておくれ?」
「……はい。いくらでも」
「楽しみだな」
 蘭佳の気持ちなど察することもなく、璃央は柔和に微笑む。

 わかっていたことだ。
 何を悲しむ必要がある。
 今はただ、彼の悲しみが払われることを、喜んでいなければいけない。
 御影の体が丈夫になれば、蘭佳の婚約者候補という立場はきっと無くなる。
 たとえ無くならないとしても、報われることなどないのだ。
 この想いは報われない。

 蘭佳は璃央の顔を見上げて、先程誉めてくれた笑顔を作った。

 璃央がそれを見て嬉しそうに目を細める。

 年下とは思えない落ち着き……。

 年齢にそぐわない重責を、彼はどのようにして乗り越えてゆくのだろう……?


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