第4章  優しい信念を否定したら、世界は冷たくなってしまうでしょう

 葉歌はほとんど無造作に力を取り出した。
 その力は、あかりの時には使うことのなかった力だ。
 元より生き物を傷つけることを嫌ったあかりには、こういった攻撃的な能力は一切備わらなかったからだ。

 自分はあかりとは違う。
 甘さはない。

 けれど、葉歌が放った一撃は、突然立ちはだかった戒によって妨げられた。
 ただでさえ傷だらけだった戒が、鎖骨のあたりを押さえてグラリと倒れる。

「え……?」
 戒の行動の意味がわからずに葉歌は思わず声を漏らした。

「っ……ぅ……」
 床に蹲って唸る戒。

 御影も何が起こったのか分からないように、戒を見下ろして停止していた。

 智歳はそんなことはお構い無しで必死に立ち上がり、倒れている香里に歩み寄る。

「姉上……」
 そっと智歳は香里の前髪を撫でる。

 香里に少し触れて、ガックリと肩を落とす智歳。

 葉歌は搾り出した力が最後の底力だったようで、その場に座ったまま、戒のことを見つめることしかできなかった。

「どう……して……?」
 戒が苦しげに表情を歪めながらも、葉歌の愕然とした表情を見つめてくる。

 何も答えはなかった。

 御影は何も言わずにそんな戒に触れようと手を伸ばした。

 葉歌の頭の中がどんどんぐちゃぐちゃになってゆく。
 短い時間に色々なことがありすぎた……。
 香里の回復を……しないと。戒も、智歳も……みんなボロボロだ。
 けれど、御影がいるこの場でそれが許されるはずない。

 そう思った瞬間、フワリフワリと風が起こった。

 御影でも、葉歌でもない……。一体誰が?

 そう思って、風が起こった方向に目をやると、そこに真城が姿を現した。

「真……城?」
「葉歌、よかった。無事で」
 葉歌しか目に入っていないのか、真城はそう言って安堵の表情になったが、状況の異様さを確認して顔を引きつらせた。

 血だらけで倒れている香里に、ふらついている智歳。
 そして、傷だらけの戒に、ところどころ服や髪が焦げている御影……。
 サロンはどこもかしこもボロボロだ。
 葉歌もほとんど身動きが取れない。

 真城の姿を確認して、戒が息も絶え絶えな声で告げた。
「ハウタたちを連れて逃げろ」

「え……?」
 真城はその言葉に困ったように目を細める。

 御影が真城を見据えると、真城は一瞬ビクリと体を震わせたけれど、唇を噛み締めて睨み返し、背中の剣を抜いた。

 戒がゆらりと立ち上がる。

「マシロ、ここは退け。そうでなければ、僕は、ここでお前と闘わなくてはならない」
「どういう……?」
「頼む……マシロ」
 真っ直ぐに真城を見据える戒。

 真城は眉をひそめたまま、戒を見つめ返していた。

 葉歌は真城に声を掛けようと顔を上げたが、それよりも早く、真城は剣を鞘に納め、
「わかった」
 と頷いてしまった。

 戒がポケットから取り出した麻布の袋をこちらへと放ってくる。

 真城はそれを受け取ってポケットにしまうと、葉歌を軽々持ち上げた。

「チトセ、お前も逃げろ」
「やだ……」
「ハウタを頼むと、コーリが言っていただろう」
「……嫌だ……俺は、俺は姉上を護るために、色々身に着けてきたんだ。あんな女を護るためじゃない」
「行け」
「…………」
「行けと言っている!!」
 戒は鎖骨のあたりを押さえて、あらん限りの声で叫んだ。

 そんな声で智歳が動じるわけもない。
 智歳はじっと香里を見つめて、迷うように唇を噛み締めている。

 真城が智歳に歩み寄って、そっと声を掛ける。
 目の前で自分が望んでいない方向に話が進んでゆく。

 今回ばかりは真城の選択に不服がある。
 ……けれど、真城にまで危険が及んだら、それこそ笑えない……。
 御影は香里の術の影響なのかわからないけれど、先程から全く話さない。

 御影が戒を気遣うように後ろから肩に触れているのが見えた。

 葉歌の中にイライラが募る。

 真城が何度か智歳に声を掛けていると、智歳は覚悟を決めたように立ち上がった。
「必ず、迎えに来るから」
 智歳はそう呟き、フラフラしていたにも関わらず、窓から飛び出していった。

 香里と同じ体格の智歳では彼女を連れて逃げることは出来ない。
 そう判断したのだと思う。

 真城がそれを追って、窓から飛び出した。
「ボク、単体でしか跳べないみたいなんだ……。少し我慢してね」
 そう言って、木の枝に飛び移り、智歳が跳んでいった枝を選びつつ、城を脱出した。

 葉歌は真城の胸の中で納得がいかないように呟く。
「なんで……逃げるの?」

「葉歌が死にそうな顔してるから」
 真城は涼しい顔をしてそう言った。

 葉歌は納得行かずに顔をしかめる。

「それに、戒が『頼む』って言ったから」
 真城は揺るぎない眼差しでそう言った。

 戒のことを信じている……そういう眼差し。
 真城は強い。
 自分は……そんな風に信じることなどできない。
 信じられるわけがない。目の前で、香里がやられた……。

「どうして、いきなり、彼女を庇うのよ……意味わかんない、アイツ……」
「……戒にも、事情があるんだよ」
「事情なんて……もう、そんなの関係ないじゃない!彼女は香里ちゃんを手に掛けたわ!!」
「……っ……」
 葉歌の言葉に顔をしかめる真城。

 真城は状況をよくわかっていなかったから言えるのだ。
 葉歌の中には恨みの感情しか沸いてこない。

「どうして……殺してくれなかったの!?チャンスだったのに!!」
 簡単に口から出た言葉。

 真城がその言葉に悲しそうに目を細めた。

 その目を見て、葉歌の頭は少しだけ冷静さを取り戻す。

「…………っ…………。ご、ごめんなさい……真城になんてことを……」

 けれど、慌てて謝る葉歌に真城はフルフルと首を振ってみせた。

 葉歌は真城の顔を見つめる。

 真城は悔やむような目をして口を開いた。

「戒が……止めてくれなかったら、ボクは彼女を殺していたかもしれない」
「え……?」
「葉歌……」
 真っ暗闇の街路で真城が立ち止まる。

 月明かりだけが彼女の顔を照らした。

 不安そうに葉歌のことを抱き締め、フルフルと体を震わせている。

「殺さなくて済む方法があるんだろうか?……ボクは、それがあれば……って心のどこかで思ってた。でも、葉歌を救うには、彼女を殺すしかないらしくて……」

「真城……」

「だから、ボクは剣を……。初めて、人を殺す目的で、剣を抜いたんだ……」
 真城の不安そうな声に葉歌は胸が苦しくなる。

 真城が人を傷つけるのが嫌いな人間なのを、葉歌はよく知っている。
 それなのに、自分は真城になんてことを言ってしまったのだろう。
 体も心も弱っていて不安定な状態なのだとしても、今の自分の言葉は……最低だった。

「ごめんなさい……。ごめんなさい、真城」
「ううん、葉歌の言ったことは尤もだと思う……。でも、でも……ボクはそれじゃ根本の解決にはならないって……そんな気がしてて……。だから、戒が止めてくれた時、正直ほっとしたんだ。葉歌が死んじゃうかもしれないのに……。アイツに傷つけられた人がたくさんいたのに……。力があれば、護れると思ってたのに……力だけじゃ、救えない……。覚悟が、なくちゃ、駄目なんだ……」

 真城の声が裏返り、掠れる。

 先程の行動について、真城は真城で自分を責める要因があったようだ。
 その葛藤は人間らしくて間違いではないのに、今のその状況はそれを許してはくれない。

 葉歌は気遣うように真城に声を掛ける。

「真城」
「…………」
 真城は無言でゆっくりと歩き始めた。

 葉歌は言葉を選ぶように星空を見上げて考える。
 けれど、その時の葉歌には言葉を選び出すことが出来なかった。
 正論なんて、こんな時は邪魔者だ。
 真城は真城の優しい信念の中で生きている。
 そして、御影が香里に言ったように、体を殺しても、あの黒い風はまた次へと転生する時を待てばいいだけ。

 真城の言葉は間違っていない。
 御影を殺せば、『今』は解決するが、またこの『先』、同じようなことが起こる。
 あかりの魂と御影の魂が、またもや災厄を招くことになるかもしれない。
 『今』良ければいい……そう考えていたら、解決せずに『先』送りになるだけ。

 それでは駄目なのだ。
 ここで終わらせなくては……。

 うん、その通りだね、真城。
 そう思うけれど、葉歌は真城にその言葉を口にできるほど、冷静にはなりきれていなかった。

 香里の笑顔が頭に浮かんで、ポロリと涙が零れる。

 葉歌は真城にそれを見られないように真城の胸に顔を埋めた。

「少し、眠るわ……」
「うん、村に着いたら起こすよ。そういえば、さっきの子、何処に行ったんだろう?」
「智歳くん?」
「あ、いた!寝てていいよ、葉歌」
 街の門の壁にもたれかかって、智歳は2人を待っていた。

 不機嫌そうに唇を尖らせ、眼差しは刺すように鋭い。

 葉歌は思わず、目を逸らした。

 自分のせいだという罪悪感が心の中にあるから逸らしてしまった。
 智歳はそのことを知らないだろうに、葉歌はついビクビクしてしまう。

 そんな智歳に、真城が優しく声を掛ける。

 智歳はふん……とだけ言って、その後はただ真城の後にくっついてきた。





 御影は呆然として、戒が倒れてゆく瞬間を見つめていた。

 何が起こったのか分からない。

 とりあえず、戒は自分を庇ってくれたらしい。

 意味がわからずに笑みが零れそうになったけれど、その時、『御影』の意識が表層へと飛び出してきた。

『キミカゲ!』
 『御影』の叫び。

 その叫びで御影の意識を支配していた黒い風は、御影の意識に不意を突かれた。

 いつの間にか、御影の体に御影の意識が戻る。

 御影は何をどうすればいいのか迷うように、戒に触れようか触れまいかな仕種を繰り返し、3人が窓から飛び出していったのを見送ってから、ようやく戒に声を掛けた。

「あ、あの……戒……」
 戒はドシャリと床に倒れこむと、御影を見上げて尋ねてきた。
「……御影か……?」
「え、あの……」
「『御影ちゃん』はまだ、お前の中にいるか?」
「ええ……います。感じます……。あなたが庇いに入ってきた瞬間、心配そうに心の声が……」
「そうか……」
 戒は御影の言葉に安心したように目を閉じた。

 出血が多すぎて意識が繋げなかったらしい……。

 御影は戒の頭をそっと撫でて、すぐに香里に視線を動かした。

 ピクリとも動かない……。

 自分の体が、彼女を殺した。

「香里……」
 ポツリと、香里の名を呼ぶが、香里は身動きひとつしなかった。



『はじめまして。香里と申します。え、えと……あの、よろしくお願いします』
 香里が初めて御影の元に訪れた時、御影は静かにコクリと頷き返した。
 それだけだったのに、香里は心配そうに御影の顔を見つめて、気遣うように近づいてきた。
 香里が触れてくれると、気だるさが消えて、黒い風のざわめきが止む……。
 両親が亡くなって間もなかったにも関わらず、香里は自分よりも御影を気遣ってくれた。
 御影は……少なくとも、御影の意識は、香里のことが好きだった。



『それで〜、この前なんてね、あんまりパタパタしてるから、りょーに怒られちゃったの!』
『そう……』
『でもでも、りょーはこーちゃん心配してくれてるから注意してくれるんだよね?御影様』
『ええ、そうよ』
 御影は気まぐれ的に引っ込む黒い風の合間を縫って、自分の意識を取り戻していた時、香里の頭を撫でながら、口数は少ないながらも香里と会話を交わしたことがある。
 香里は初めて会った時の落ち着きなどない元気な笑顔で、御影に色々なことを話してくれた。



『御影様……何かありましたか?私、何か怒らせることでも?』
 この街に散策に出た大会初日……、黒い風に支配されている御影に対して、そんなことを知りもしない香里はビクビクしながらそう尋ねてきた。
 黒い風はいけしゃーしゃーと御影の口で言う。
『別に。お前になど興味はないわ』
『え……?』
 香里はあの時、悲しそうに目を細めながらも決して御影の手を離さなかった。
 子供体温の心地いい温度……。
 御影の心には、届いていた。



 香里に歩み寄ろうとした時、璃央がシュンという音を立てて、室内に突然姿を現した。

 御影は足を止めてそちらを見た。
「え、璃央様?どうして……?緋橙じゃ……」

 璃央は御影の呼び方に一瞬嬉しそうに口元をほころばせたが、サロンの惨状を見て、すぐに顔をしかめた。

「何が……あったんですか?」

 血だらけで倒れている香里をそっと抱き上げ、キュッと力を込めて抱き寄せる璃央。

 戒を見下ろして、もう1度御影に視線を戻してくる。

 御影は必死に今起こったことを伝えた。

 伝えているうちに涙が溢れてきて、顔を覆う。
「わたし、香里を……なんてこと……」

 悲しみに耐えられない御影に対して、璃央は物静かに香里の体を抱き、香里の背中を何度もさすっている。

 その後に、少々冷ややかな眼差しで璃央は言った。
 それは、御影を愕然とさせる一言。

「香里には悪いけれど、御影様、あなたが無事なら僕はそれでいいですよ」

 冷ややかな声は躊躇いも感じさせない。

 御影はそんな璃央の表情を唇を噛み締めて見つめた。

 真城たちが逃げていった窓から、ひゅ〜……と風が入ってきて、焦げたカーテンを揺らした。


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