第7章 邂逅 『僕は……御影様さえ無事ならそれで……』 悔やむように泣く御影に、もう1度璃央はそう言って、優しく包み込み額にくちづけた。 それは、あの悪夢のような昨夜のこと。 御影は泣き疲れて眠ってしまっていた。 戒が出血多量で倒れてしまったので、それを看病したいと……自分から名乗り出て、そのまま戒の手を握ったままだ。 せめて、自分の人格が続いてる僅かな時間だけでも……。 それが……御影にできる償いにもならない、微かな抵抗。 戒は、「あの力」を出さなかった。 それは、相手が『御影』だったからか? 躊躇いを戒が覚えてしまったのだとしたら、彼の強さは失われてしまう。 戒が持っていた、孤独な闇の中の尖った鋭さは、彼を強くする。 それがどんなに悲しいことだとしても、その強さでしか護れないものがあるはずなのに。 彼は……元からあった優しさを、自覚してしまったのかもしれない。 窓から月明かりが入ってきて、御影の黒い影を映し出す。 静かな空間。 穏やかな夜。 静謐のみに満たされたその部屋が『御影』を呼び起こす。 ゆっくりと御影が目を開けた。 瞳の色は金ではなく、黒……。 『彼女』の意識が確実に他2つの人格を上回った。 「キミカゲ……」 戒の唇にそっと指先を触れて、そのまま頬へと伝わせる。 戒の寝顔は大怪我の割に穏やかで、『御影』はほっと胸を撫で下ろしたように目を細める。 「約束、……守ってくれて、ありがと」 彼の意識には届かない言葉。 それでも、『御影』は声として発したかったのだ。 約束。護ってね。護るから。いつでも、あなたはわたしの心を護ってくれる。 消えてしまえばよかったのに。 あのまま、葉歌の……あかりの力で消えてしまえば、あとは自分の意識も無くなって、黒い風が勝手に動くだけだ。 自分が痛みを知らずに、そうであれば、よかったと、思っていたなんて言ったら、キミカゲに怒られるかもしれないけれど。 駄目なのだ。 挫けたら駄目だ。 自分は……黒い風に負けてはいけない……。 けれど、もう、自分には抵抗の力が残っていない。 やっと、やっと……700年の時を越えて、あなたは約束を守ってくれたのに。 やっと、あなたに会えたのに……。 『御影』の心が震える。 誰でもいい。 もう、あなたは別の人として生まれ変わった。 だから、心の中にいる人が、わたしでなくてもいいのだ。 それでも、ひとつだけ、我儘が許されるなら……、『自分』が生きていた頃、1度も口に出来なかった言葉を、口にしてもいいだろうか? この、一瞬だけでも。 「キミカゲ……助けて……」 『御影』の悲しげな声が、静かな空間を微かに震わせる。 まるで、穏やかな水面に一滴の雫が落ちたような、微かな波紋を作って……。 『御影様をばかにするなぁっ!!』 キミカゲが御影の泣きそうな顔に気がついて、小さな体で年が4つも上の子供達に飛び掛っていった。 キミカゲは覚えていないだろうけれど、幼い頃、1度だけキミカゲは御影のために喧嘩をしたことがあった。 王都でのバイオリンの発表会。 いつもは完璧な御影の演奏が……緊張のために途絶えたのだ。 普段、当たり前のように弾けていたものが弾けなくなって、御影はそのまま頭だけ下げて、逃げるように舞台を下りた。 気位の高い御影にとって、そんなことはあってはいけないことで……、育ちの高さからしても、それは恥でしかなかった。 自分は緊張くらいで何も出来なくなる人間ではいけない。 だからこそ、御影は自分に厳しく、他人にも厳しい生き方を徹(とお)していた。 けれど、そんなことを子供の頃からやっていては、周囲に嫌われるのは当然のことで、御影が大人になってから振り返るとすぐにわかることだが、その時はわかっていなかった。 会場を出て馬車に乗り込もうとした御影に、常々御影に注意を受けていた王都の貴族の子供が、御影を馬鹿にするような発言をした。 それに続くように数人の子供達も御影の演奏について、おかしそうに口を開く。 御影はきゅっと拳を握り締めるだけで無視をして、馬車に乗り込もうとしていた。 キミカゲは御影の家の馬車操作手の息子で、御影が招待していたこともあって、父親が連れてきてくれていた。 操作席に腰掛けて御影が出てくるのを待っていたキミカゲは、御影の顔を見て、唇を噛み締めた。 普段のラフな恰好とは違う、一張羅の子供用のスーツ。 ポンと席から飛び降りて、キミカゲは大声で叫んだ。 『御影様をばかにするなぁっ!!』 小さい体に身分の低い自分。 そんなことは考えもしないで、貴族の子供達を突き飛ばす。 御影は驚いてキミカゲの背中を見つめるだけ。 すぐに騒ぎを聞きつけて、キミカゲの父親が戻ってきた。 まだ殴りかかろうとしているキミカゲの体を押さえ込み、ペコペコと子供達に頭を下げる。 御影と大差ない年の子供に、30過ぎの男が頭を下げている。 その光景は御影にとって不快でしかなかった。 帰りの馬車の中で、御影は操作席の人間と会話するためについている窓を開けて、不服な声で言った。 『謝る必要なんてないのに……。あれは自業自得ですわ』 『ええ、そうでしょうね。俺も、キミカゲと同じ立場だったらあのガキども殴ってやります』 『だったら……』 『でもね、俺の息子の不始末は御影様の不始末。はたまた、お家の不始末になります』 『…………』 『くだらないことで、評判落としたらいけませんよ』 キミカゲの父親は朗らかに笑ってそう言った。 キミカゲが父親の膝の上で、んーんーと唸ってから口を開いた。 『御影様のバイオリン、ほんとはすごいの、僕、しってるから』 『キミカゲ……』 『あんなヤツらのことなんてきにしないで』 ニッパリ笑って、父親の肩から顔を覗かせた。 御影はその笑顔につられて、優しく目を細めて笑った。 キミカゲの父親は苦笑してから、ポカリとキミカゲの頭を叩き、冗談っぽく言う。 『こら、お前、主人のために闘えるのは偉いが、今後はもう少し体裁考えて動け』 『てーさい?』 キミカゲは殴られた箇所をさすりながら、不思議そうに首を傾げる。 御影はキミカゲの父親を止めて、 『いいのよ。キミカゲ、ありがとね』 と感謝の意を述べた。 キミカゲはその言葉で嬉しそうにニコリと笑った。 キミカゲは……自分の父親を強く慕っていた。 御影も、その理由はよく分かっていた。 キミカゲの父は、本当に優しい器量よしだったから。 だからこそ、キミカゲの父はあかりが危険に晒された時、自分の身も構わずに飛び出していけたのだ……。 キミカゲは……心の支えにしていた、たった1人の尊敬すべき人を、13歳にして、失った。 誰を責められるわけでもない。 あかりを責められるわけがない。 彼は静かに父を弔い、その次の日には御影に笑ってみせた。 あかりがセージと連れ立って出立した話を聞いて、すぐに後を追おうと言ったのもキミカゲだった。 動機は……不純だと言う人もいるかもしれない。 他力本願な、最低なヤツと……言う人も、いるかもしれない。 でも、御影は……キミカゲの心の傷に、誰も触れないでいて欲しかった。 彼の傷の痛みは、彼だけのものだ。 知った風な口で誰かに何かを言われたくない。 そんな者の存在は、御影が許さない。 それでも……その心の傷から広がる、あかりを傷つけてしまう言葉の数々も見過ごしたまま、御影はずっとずっと、彼が立ち直る日を待っていただけだった。 欲しいのはカラ元気な笑顔じゃない。 薄っぺらな優しさじゃない。 ……辛いと、その一言が、聞きたかっただけ。 それなのに、自分は……彼の元から離れてしまった。 感情のコントロールが効かなくなってしまったあの瞬間から……御影の意識は、深い水底に閉じ込められてしまっていた。 御影が黒い風を発生させて、キミカゲとあかりを護ったあの時、全ては……あの時に崩れた。 自分の体の異変には気がついていた。 体温が驚くほど下がって、体も弱っているのに、寒いとも熱いとも感じない。 普段聞こえる以上の風の声が、御影の耳をずっと支配していた。 必死に御影は堪えて、抵抗していた。精神がギリギリの状態になるまで。 自分の心の中が薄暗くなる。 キミカゲとあかりが少し話をしているだけなのに苛立つ。 キミカゲがあかりを気に掛けるだけで、心臓がぎゅっと握られるような気持ちになった。 キミカゲとの約束。 護ってくれるという……約束。 けれど、あの時、……護られたのはあかりだった。 わかっている。 普段の御影ならば、なんでもないことだったはずだ。 御影ならば、あの程度の矢など容易くかわせる。 もし、傷を負ったとて、あかりが無事ならすぐに癒すことが出来る。 普段ならば、すぐにそう感じ取れた。 キミカゲの咄嗟の行動の中に、そういう御影に対する信頼があったことを感じ取れるはずだった。 けれど……、精神的に余裕のなかった御影には、それを判断できるだけの思考回路が残されていなかった。 心の底から湧き上がってきたのは、自分が知りたくもなかったどす黒い嫉妬の念で……、それは、彼女自身の心のようで、本当は寄生していた黒い風だった。 自分の手から黒い風が飛び出していく。 それを見た瞬間、御影の意識は……深い水底へと落ちていってしまった……。 できたのは、キミカゲの矢で、自分の体を止めることだけ。 願ったのは、あかりとキミカゲの、心の傷が癒えること。 けれど……御影の死で、2人の心の傷は更に深く……刻み込まれてしまっただけだった……。 『御影』は目から零れる涙を拭う。 ふと、ベッドの脇にある棚に目をやると、そこには小さな結晶とティーセットが置いてあった。 それは、御影が眠る前に璃央が持ってきてくれたものだ。 戒に飲ませれば少しは楽になるだろうと、そう言って。 御影は璃央の顔を見ることもできずに俯いたままだった。 その様子を見て、璃央が悲しそうに目を細めたことに、きっとあの時の御影は気がついてもいなかったろうけど。 ティーポッドの中の湯はだいぶぬるくなっていたけれど、それに結晶をポチャンと投げ入れた。 ボシュッと音を立てて、不思議な色の煙が発される。 『御影』はそれをティーカップに注ぎ、口に含んだ。 「これくらい、許してくださるわよね?神様……」 と心の中で呟く御影。 月明かりが照らす部屋で、2人の影が交わった。 戒の顔色が血色のいいものになる。 そのまま、ベッドに伏して意識を眠らせようとしたけれど、戒がポツリと呟きを漏らした。 「まだ、約束の期限は過ぎてないか?」 『御影』は驚いて、すぐに顔を上げる。 戒の視線がこちらに向いていた。 黒い瞳がとても澄んでいて、見ているこちらが穏やかな気持ちになるような、そんな目だった。 「ええ……まだ、わたしは消えない。このままじゃ、消えられないもの。あなたを傷つけたまま、消えられない」 「痛いのは、お前の心も同じだろう」 「ふ……キミカゲだったら絶対に言わないわね。あの子は、お父さんが亡くなってから、自分の心を護るのでいっぱいいっぱいだったから」 「ああ、いつもそうだった。だから、お前の存在は、キミカゲにとって大きかった」 「……そうなのだったら、嬉しいわ」 「そうなんだ。僕は知ってるから」 「ありがとう」 『御影』の顔を見つめて、戒は目を細める。 「だから……お前を殺してしまった時、アイツの心がおかしくなったとしても、仕方のないことだったのだと思う」 「…………」 「……僕は、大切な人を護れなかった時の悲しさを知ってる。だから、キミカゲのあの嘆きは……4年前の自分には苦しくて、受け入れることも同情することも出来なかった。自分が追い詰められていくような気がして……。せっかく、お前が最後の力を振り絞って、僕に心を傾けてくれていたのに、気付いてもやれなかった」 『御影』は1度だけ見たことのある、戒の寂しそうな背中を思い出した。 夜空を見上げて、寂しそうに体を震わす戒。 4年前の彼は、12歳の少年が背負うにしては大きすぎる闇を背負っていた。 まだ、親に甘えられる盛りの時期に、目の前で家族を惨殺された。 自分達は、生きているだけで許されない存在。 カヌイの民に生まれた彼は、それを知ってしまった時、どんなに辛かったのだろう? ただ……心の赴くままに力を解放し、人を殺し、……自分の手の中に残ったのは、罪悪感と悲しみだけ。 何も、……その他には何も残らない。 思い出など、自分が辛くなるだけの……材料でしかない。 誰も……支えなどいなかった。 思い出を共有してくれる人も、悲しみを分け合ってくれる人もいなかった。 …………。 ただ1人、いるとするならば、それは過去の自分で……。 けれど、キミカゲのように、戒は従順になることも出来なかった。 なぜなら、戒の隣に……あかりはいなかったから……。 責め立てるだけで、誰も、戒に、大義名分を与えてなどくれなかったから。 「それは仕方ないわ。わたしの心は、ヤツに囚われて、どれがわたしで、どれがヤツなのかすらわからない状態だったのだから。あなたをなじった言葉、あなたを傷つけた言葉、きっとたくさんあったでしょうね」 「……もういい」 戒はいつもの仏頂面を優しく緩ませて、『御影』の頬に触れる。 そして、そのまま、とすんと腕がベッドに落ちた。 すぅすぅ……と寝息を立て始める戒。 それを見つめてから、『御影』も目を閉じる。 次に目を開けた時、もう『御影』の意識は御影に代わっていた。 御影はゆっくりと立ち上がって、部屋を出る。 まだ……自分が意識を保てる。 今の内に、璃央に話をしておかないと。 部屋を出ると、そこにはピンクの薔薇を一輪挿した花瓶を持って、璃央が立っていた。 室内の会話が聞えていたのかはわからないが、話し声がしていたから、中に入れずに壁にもたれていた……そんなところだろうか。 「戒は……?」 「少しだけ目を覚まして、また眠りました」 御影は事務的な口調でそう言うと、璃央から目を逸らした。 「そうですか……」 璃央が悲しそうに目を細める。 けれど、上手く目を合わせられない。 あの時の璃央の発言が、御影にはたまらなかった。 璃央はそっと御影の手に花瓶を持たせると、御影のことを優しく抱き締めようとしてきた。 ビクリと、御影の肩が震え、それを察してすぐに璃央は手を離す。 御影はビクビクしながら、璃央を見上げる。 すると、璃央は寂しそうに眉をひそめていた。 御影の鼻を色々な花の香りがくすぐる。 よく彼は花を女性に贈る。その類だとは思うけれど、自分の手元には薔薇しかない。 誰かにあげたのだろうか? 璃央は頭をポリポリと掻いて、冷静になろうと呼吸だけを繰り返している。 御影は璃央を見つめたまま、小さな声で言った。 「また……わたしが人を殺しそうになったら……」 「え?」 璃央がその声に顔を上げたが、御影は次の言葉が出てこない。 苦しくて言えなかった。 本当はそんなこと言いたくない。 彼に頼みたくない。 迷うように瞳を揺らすと、璃央は察したように優しい声で言ってきた。 「大丈夫ですよ。その時は、貴女を殺して僕も死にます。貴女が、生きるのが辛いと言うのなら、僕が貴女を殺します」 璃央は躊躇いがちな手で、御影の手を包み込んでそう言うと、言葉に似つかわしくなく笑う。 「御影……大丈夫だよ。悪いのは君じゃないんだから。悪いのは君の中にいるヤツと、僕だから。君は自分を責める必要なんてない」 「璃央……様……」 初めて、彼が自分を呼び捨てにした。 敬語も何もない……彼の等身大がそこにある。 「罪は全て僕にある。君を生かしたことも、君の中のヤツがこんなに邪悪なのだと気がつかなかったのも、どの行為も、全て僕の過ちで、僕の罪だ」 「…………」 御影はその璃央の表情を見上げることしか出来ない。 璃央は至極当然のように、自分の罪だと言った。 彼は……自分を責める時、全てを受け入れたように簡単に言う。 「生きていることが許されない者など、いないはずだ。御影は、ただ少し体が弱かっただけだ。護れるのなら、生かせる手段があるのなら、僕はどんな罪も怖くない」 そこで一拍置いて、再び続ける璃央。 「でも、君の心を護るための手段が『死』なのだとしたら、僕は……それでも構わない。その時は、躊躇わずに僕に言ってください」 香里の国を滅ぼして、香里を手に入れたのも、香里の力で人の命を奪って、御影を生かす手段にしたのも、全て……御影のため。 わかっていた。黒い風は璃央の全てを見ていたから。 わかっていながら、自分はそれに頼った。 彼の傍にいたかったから……。 けれど、こんなことになるなんて思わなかった。 香里があんなことになるなんて、誰も想像していなかった……。 「香里は……?」 「……智歳と一緒に緋橙に帰ったことにしました」 「そうじゃなくて」 璃央の言葉に御影が顔を歪ませ、璃央は言い直す。 「この時期ではすぐに腐ってしまうので、火葬に」 「もう?」 「はい」 璃央はなんでもないように言う。 どこか、不自然な彼の表情の動きに、少しだけ御影は気がつく。 けれど、それが何を意味するのかはわからない。 「夜も更けました。今日はゆっくり眠ってください」 璃央は表情を誤魔化すように御影の頭を撫ですかし、ゆっくりと踵を返して、自室へと戻っていった。 御影はそれを見送ってから、踵を返した。 |
≪ 第9部 第6章 | 第9部 第8章 ≫ |
トップページへ戻る |