第8章  主よ……

 蘭佳は久々にクローゼットを開けてYシャツを取り出した。
 璃央の持ってきた結晶のおかげで自分の体はすっかり治っていた。
「さて……」
着ていたパジャマを脱いで、服を着替える。

 シュッと袖を通すと気持ちが引き締まった。

 璃央がいない分、自分はここで仕事をこなさなくてはならない。
 事務処理だけしかできないが、それでも仕事は減らしておくに限る。

 窓の外を見ると、伝令係の男が伝令用の鳥を飛ばしているのが見えた。
 すぐに蘭佳は部屋を飛び出して、庭まで走る。

「何か、急な連絡ですか?」
 伝令係を呼び止めてそう問うと、壮年の伝令係は少々浮かない顔で答えてきた。
「一部地域で我が軍が反撃に遭っているとの話です。盛り返されて、今まで進軍した分を退いたとの連絡が……。璃央様がこちらにいらっしゃらないので、今、別の鳥を飛ばしたところです」
「そう……ですか。ご苦労様です」
「いえ。もうすぐ、こんな戦い終わると思ってたんですが、そうはいかないようですね」
「…………」
「王も臥せっておいでだし、軍司令官も戦場の指揮で出払っている……。頼りは、璃央様しかいらっしゃらないというのに」
 ため息混じりで男はそう言い、屋敷へと戻っていった。

 蘭佳は鳥が飛んでいった方角を見つめ、ゆっくりと腕をさする。
 頼りは璃央様だけ……。
 彼は、まだ少年だというのに。
 蘭佳にはどうしても気になってしまう言葉だ。

「頼りは、璃央様しかいらっしゃらない。……はぁ、随分とお馬鹿な国になったもんだな」
「……東桜」
 蘭佳が振り返ると、髪を結いながら歩いてくる東桜がいた。

 風でフワフワと長い髪がたなびく。

「他にも年寄りならたくさんいるくせによぉ。ヤツらは敗戦した時に責任を負う気なんざ、1つもありゃしねぇんだ」
「…………」
「戦争に参加することを止められなかったのは誰だ?戦争が不利になった時に右往左往したのは誰だ?戦争が有利に傾いた時に、勝手に酒盛りしたのはどこのどいつだ」

 蘭佳は静かに目を細めて東桜の言葉を聞き続ける。

「命なんざ、そう重いもんだと俺は思っちゃいねぇ。だがしかしだ。責任感のねぇヤツらを俺は良しとは思えねぇ。璃央ちゃんはダークくんだが、その部分だけは買ってるぜ。勝てば名誉、負ければ責任追及。それをきちんと負っている」
「……璃央様は……」
「さてさて……どうしたもんかねぇ」

 東桜は顎をさすって考えている。
 首から提げていた風の秘石の片割れを取り出して、悩むように呟く。

「最近風に嫌われちまってな。帰って来るまで2週間も彷徨っちまったんだ」
「風に嫌われる……?」
「ま、俺様が好かれるわきゃねぇんだが」
 クックッとおかしそうに笑って、ギュッと握り締める。

 蘭佳はその様子を見つめるだけ。

「ランカ、俺はひとまず璃央ちゃんのところに行ってくるぜ」
「え……?」
「何かが、俺様を呼んでる。これは……戦いの呼び声だ」
 東桜の嬉しそうな表情に反して、蘭佳の表情はうっすらと曇る。

 東桜の発言は……璃央が危うくなると、そう言っていることになる。

 そんな不安な気持ちを見透かしたように、東桜は背を屈めて、蘭佳の鼻先まで顔を近づけて言った。
「護ってやるよ」

 蘭佳は微かに後ろにのけぞる。
 それはほんの僅かで、大した動きではなかった。
 いつもなら、引っ叩いているところなのに。

「東桜」
「璃央ちゃんのことは、俺に任せなさい♪」
 東桜はおちゃらけてそう言うと、闘気(オーラ)を発してヒュンと姿を消した。

 風がザザザザ……と駆け抜けてゆく。

 蘭佳は風の吹きぬけてゆく方向を見た。
 そちらにあるのは、見えることのない蒼緑の国……。

 蘭佳は前髪にそっと触れた。
 本当は、自分も行きたかった。
 けれど、東桜の目は来るなと言っていた……。
 それの意味するところを、蘭佳は知っている。

 蘭佳はそっと指を組んで親指に額を当てた。

「主よ……どうか、我が主をお守りください」
 微かな声が、静かに空気を震わせた。

 緋橙の国は今日も暑くなる。
 蒼緑とは異なるムシムシした湿気が蘭佳の腕にまとわりつき始めていた。






 月歌は真城の部屋のドアを控えめに叩いた。
 ドアの向こうから柔らかい声が返ってくる。
「はい」
「私です」
「どうぞ」
「失礼します」
 月歌は持っていたティーセットを小脇に抱えるような形でドアを押し開ける。

 真城のベッドに葉歌が眠っていて、真城はもう着替えを終えていた。
 半袖の開襟シャツにいつもの型のチノパンツ。

 月歌を見るとニコリと微笑んできた。

「カモミールティーをお持ちしました。葉歌を起こして……」
「しっ」
「え?」
「さっき、やっと眠ったんだ」
 真城の悲しそうな声に、月歌はティーセットをデスクに置くと、ベッドに歩み寄った。

 真城が連れて帰ってきたあの晩から、あまり顔色が良くなかった。
 体調が……というよりは、心の調子が良くないのだろう。
 いつも気丈に振舞う子なのに、今回はそれもできないほどに打ちひしがれてしまっている。

「うん……美味しいよ、つっくん」
 真城が後ろでカモミールティーをすすってそう言った。

 すぐに月歌は振り返って笑みを浮かべる。

「そうですか、それならよかったです」
 真城は椅子に腰掛けてコクコクと飲み干してゆく。

 そして、窓の外を見つめて、少し気まずそうに体を揺らす真城。

 月歌は目を細めて口を開く。

「申し訳ありません」
「え?」
 何のことか分からないように首を傾げる真城。

 月歌は眼鏡を掛け直してから、葉歌を手で示した。
「お嬢様こそ、寝てないのではありませんか?」

 先程「やっと眠った」と彼女は言った。

「ボクはね、いつも、葉歌に寝かせてもらってるからいいんだ」
「妹が無理を言って此処に居座っているのも、少々気にかかっていました」
「つっくん、ボクは葉歌の傍にいなくちゃいけないんだよ。じゃないと、護れない」
「…………」
 月歌は目を細めて、唇を噛み締める。

「ボクは誰も傷つけさせない。これ以上、大切な人を、傷つけさせない」
 真城は決意を秘めた眼差しで月歌に視線を寄越した。

 真っ直ぐな視線に思わず怯みそうになった。

「お嬢様……」
「助けられる方法を探してるんだ」
「え?」
「みんなを助けられる方法……」

 真城はデスクに肘をついて、うぅん……と唸る。
 彼女は……答えを見つけたら、きっとたった1人でも行ってしまうだろう。
 月歌は心の底から湧き上がってくる焦燥にも似た感覚を堪えるように唇を噛み締める。

 そこで、真城は思い出したようにこちらに体を向けてきた。
「そういえば、体の調子はどう?」
「え?あ、お嬢様がくださった結晶を飲んだら、だいぶ調子が良くなりましたよ」
「そっか。だったら、よかった♪」
 真城は安堵したように胸を撫で下ろして、無邪気にニッパリと笑う。

 その瞬間、あの晩あったことを思い出して、月歌は眼鏡をかけ直すフリをして、俯いた。
 あれは真城ではないあれは真城ではないあれは真城ではない……。
 必死に自分に言い聞かせる月歌。

 そんな月歌の様子に気がついたのか、真城がゆっくりと立ち上がって、こちらへ歩いてきた。
「どうかした?」
 小首を傾げて、見上げてくる真城。
 月歌は首を横に振って、ニコリと笑った。
「いえ、なんでもありません。……ま……お嬢様?」
「ん?」
「お願いがあります」
「なに?」
「……あなたが何かに抗わねばならない時は、私を傍近くに置いてください」
 月歌はしっかりとした声と真面目な表情でそう言いきった。

 胸にそっと手を当てて、真城の目線に合わせるように腰を折る。
 返そうと思っていて返せなかったお守りをポケットから取り出し、真城の首に掛けてやった。
 紐が切れてしまっていたから新しく付け直したものだ。

「これ……」
 真城が肩を縮こまらせて、驚いたように目を見開く。
 顔が近いからか、2人の距離が近いからか、真城は恥ずかしそうに目を泳がせている。

 月歌は申し訳なさそうに眉根を寄せて答えた。
「申し訳ありません。返すのが遅れてしまいました」
「ううん……。つっくんが持っててくれたんだ……」
「はい」
「よかった……失くしたものだとばっかり……」
 真城は安心したように目を細めて、表情をほころばせる。

 そして、葉歌に視線を移して、きゅっとお守りを握り締めた。
 月歌はまだ姿勢を崩さずに真城の顔を見つめていた。
 静かに。穏やかに。どういう言葉で告げるべきか、迷っていた。
 この焦燥感を消してくれるのは、目の前の人だけだから。

「……お嬢様」
「ん?なに?なんか、さっきからつっくん変だよ」
 間を繋ぐように呼びかけてくる月歌に真城は首を傾げておかしそうに笑った。

 月歌はゆっくりと体を起こして、眼鏡をかけ直す。
 少しでも落ち着こうと思って、した動作だった。

「大切な人を傷つけさせないというのは、自分は傷ついても構わないという意味ではありませんよね?」
「………………なんのこと……?」
 真城はとぼけるように呟いて、ふいと月歌から離れて窓際へと歩いてゆく。

 お守りを手の中で弄ばせながら、真城は月歌にその表情を見せてはくれない。

 真城は……嘘が下手だ。
 すぐ顔に出る。だから、困った時はそっぽを向く。
 月歌は、それを知っている。

「つっくん、強さって何なのかな?」
 真城は窓の外を見つめてそう言った。
 そう呟いた声は震えていて、月歌はそっと目を細める。
「ボクは……護れると思ってたんだ。力さえあれば……強ささえあれば……護れるって思ってた」
「お嬢様……」
「ボクの中の子もね……ずっとそう思ってたの。葉歌を護りたくって、ずっとそう思ってた。だから、ボクと彼が同調しやすいのは当然のことのように感じる」
「…………」
「だけどさ……」
 真城の声が涙で揺れた。
「護る方法がわからないんだ……」
 真城は嗚咽を漏らして、自分の顔を覆うように手を当てた。
「抽象的なものじゃなく、具体性が無ければ、葉歌が、死んじゃう……」
 声と一緒に肩が震える真城。

 月歌は真城に歩み寄り、優しく頭を撫でた。
 不安で不安で仕方ない……。彼女は必死に震えそうになる体を抑えていた。

「ボク……何にもできないかもしれない」
「真城さ……」
「言うことだけ一丁前なんだ。みんなを護りたいって。でも、何も浮かばないんだよ……」

 真城がグシッと涙を拭って、落ち着こうと呼吸を整え始める。
 月歌はそっと真城の肩に触れた。
 真城がすぐに振り返る。
 真城の目からは涙が溢れ出してきて止まらない。

「大丈夫ですよ」
「…………」
「真城様ならできます」
「月歌……」
「私は……そう信じています」
 月歌はニコリと笑顔を作ってそう言った。

 危ないことはしないでください……その言葉を言えない自分。
 わかっているからだ。
 彼女を止めることは、真城がもっと傷つくことだとわかっているから。
 真城は見過ごせない。
 目の前にあるものを見過ごしたら、彼女はもっと傷を負う。

 ポロポロと涙が伝う頬をそっと拭って、月歌はすぐに離れた。

 葉歌に布団を掛け直して、部屋を出ようとした時、真城が月歌を呼び止めた。
 ゆっくり振り返ると、真城が涙を拭って真面目な顔でこちらを見つめてきた。

「どうしました?」
 月歌は首を傾げて尋ねる。

 真城は唇を噛み締めて、迷うように少しの間目を泳がせたが、ゆっくりと口を開いた。
 窓から差し込む光が、真城の色素の薄い髪を透かす。

「……い、言いたいことが、あるんだ……」
「え?」
「ぜ、全部、終わったら……話したいことが、ある……」
「なんですか?」
「…………。全部、終わったら……」
「わかりました」
「うん」
 真城は言ったことを後悔するように、クシャリと髪に触れて、すぐに踵を返し、窓の外に目をやる。

 月歌はその背中を見つめて、ゆっくりと頭を下げた。
「朝食の準備ができましたら、お呼びしますので」
「うん……。今日は、葉歌の好きなハニートーストだといいな」
「お任せください」
 月歌は優しく笑いかけて、後ろ手でドアノブを回し、そのまま静かに部屋を出た。


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