『遠き国 見渡せば 緑 多く さや 風の音 さや 波の音』

『彼の国にゆこうぞ ただ 傍に あなたの手を』

『私を包むは あなたの優しさ あなたを包むは 私の微笑み』

『あなたの胸に ぬくもりを』

『決して 絶やさぬ 優しき雫を』

『あなたが 心安く 笑えるように』

『私は いつでも あなたの幸せを 願う者で いたい』

 これは、香里と智歳の国で流行っていた、恋唄だった。
 香里はとても気に入ったのか、口ずさむ歌はいつもこれと決めていた。
 智歳はその声を横で聞きながら、上手いと思っても、綺麗な声だと思っても……何も言わなかった。
 香里はそれでもニコニコと笑って、冬の寒い日に降り始めた雪を生き生きとした目で見つめて、きゅっと智歳の手を握る手に更に力を込めたことがあった。

 彼女は……催眠術の副作用も何も、気がつかないフリをしていた。
 それは、相手が大切だったからだ……。
 香里は人のために身を散らせる人間だった。
 だから、……だから、母は懸念したのだ。
 その力で、命を失うことのないようにと。
 母の懸念は的中した。
 姉は、あんな力さえなければ、こんなことにはならなかった……。
 今でも、あの小国で、戦争なんて無関係なほのぼのしたプリンセスでいられた。

 自分に力がなかったせいだ……。
 環境が悪いとか、時代が悪いとか、そういうんじゃない。

 自分に力が足りなかった。

 どうして、逃げなかった?
 あの瞬間、御影が現れて危険だと感じ取ったあの時に、どうして香里だけ抱えて逃げなかった……?

 賢さは力だ。
 器用さは力だ。
 生活力は力だ。
 自分の力は、この世界を生きていくために磨かれたものだ。
 どうして、大切な瞬間に、その機転が利かなかった?

 ザワザワと心が騒ぐ。

 落ち着かない。
 いつも、隣に居た人が、今はどこにもいない。
 込み上げてくるのは悲しさと、やるせなさと……後悔。そして、憎しみという感情。

 香里が智歳の太陽だった。
 全てのマイナスを、和らげて浄化して……けれど、今、彼女はいない。

 誰が智歳を止められるだろう?
 誰が、智歳の中の感情を抑えてくれよう?
 もう……この世界に、そんな人はいない。
 どこにも、いない……。

第10章  香里の背中。智歳のナイフ。戒の決意

 龍世は小屋の中で忙しく動き回って、最後にキッチンの籠の中に入っていたクッキーを摘んだ。
 少しだけしけったクッキーは歯ごたえは悪かったけど、お腹の空いていた龍世の体にはちょうどいい。
 ボリボリと口いっぱいに頬張る。
 籠の中にあったクッキーはあっという間に姿を消した。

 右手に持っていたバッグを肩に掛ける。
 ふぅ……と息を1つ。
 ドアを押し開けて、龍世は笑顔で飛び出していく。

「仕事行ってきま〜す!」

 龍世は自分の中で整理をした。
 自分が今、どうやって生きていかないといけないのか。
 それがわからないから、今は普段のままで過ごすべきなんじゃないかと思った。
 部屋の中で塞いでいるのは、自分の性に合わない。
 だから、山の中をぶらついたり、森の中を崔と駆け回ったりした。
 それでも落ち着かないから……だったら、忙しかったら、それを忘れられるかなと、そう思ったのだ。
 小屋の外に置いてあった斧を引っ掴み、山を駆け下りる。

 山の麓に智歳が立っていた、
 真城の家で新調してもらった青に黄色のラインが入ったローブと耐火性の強い藍色のマントを身に着け、何かを覚悟したような表情で龍世を見据えてくる。

 龍世はゆっくりとスピードを落として、ちょうど智歳の前で立ち止まった。

「おはよう。どったの?こんなところで」
「……少し、時間取れるか?」
「え、あ、ああ……別に、今日は……前もって入ってる仕事もないから……」
 智歳の表情に気圧されて、龍世は少し言葉を詰まらせながら答える。

「そか。じゃ、少し話さないか?」
「いいよ」
 龍世が頷くと、智歳はふぃっと背中を向けて、スタスタと歩いていってしまう。

 前からそうだけれど、智歳は香里以外に対して気遣いが全くない。
 戒で慣れたから、別にそんなことは気にしないのだけれど、誘っておきながら、その後に続く言葉が無いと少しだけ腑に落ちない部分もある。
 ……けれど、自分に対して気遣いを見せる智歳を想像して、龍世は少し苦い表情をした。
「うん……気持ち悪いから、こっちのほうがいいや」
 龍世は小走りで智歳の後を追いかける。

 頭1つ分背が低い智歳に追いつくのはとてもたやすい。
 智歳の横顔は物憂げで、何かを考え込むように眉間にはシワが寄っていた。

 龍世は智歳の前に回りこんで、眉間をコンと突く。

「な、なんだよ?」
 智歳は不機嫌そうに龍世を睨みつけた。

 龍世は智歳の真似をして、眉間にシワを寄せてみせる。

「こんな顔してた」
 どちらかというとタレ目な目尻をぐいっと吊り上げて、智歳を見下ろす。
「こんな顔」
「……で?」
 智歳はその顔を見て呆れたようにため息混じりで次を促してきた。

 これだけ反応が淡白だと、さすがの龍世でも虚しさを覚える。

「……戒みたいな顔になるぞ」
 と言っても、龍世は智歳が戒のことを知っているなんてことは知らないのだが。
 言った後に、知らない奴を例に挙げても仕方がないことに気がついて、龍世ははっとした。
「そ」
 けれど、そんな心配などどこ吹く風で、すぐにそう答えて、龍世の脇をすり抜けてゆく智歳。
 確実に適当にあしらわれた。

「むぅ……お前、人の話聞いてないだろ?」
 龍世は唇を尖らせて、再び智歳に追いつく。

 智歳は龍世の声に答えることもなく、ゆっくりと目を細めて口を開いた。
「敵討ち……手伝ってくれないか?」
「え?」
「姉上の仇を取る」
「…………」
 智歳のその言葉に龍世は悲しそうに目を細めた。
 その様子に気がついたのか、すぐに智歳は表情を歪めて立ち止まった。

「どうしたんだよ」
「前ね、戒が……あ、えっと、オレの友達なんだけど、そいつが言ってたことがあったんだ」
「?」
「仇取ったんじゃんってオレが言ったら、……ただの人殺しだって、言ったの。綺麗な言葉で飾っても空しいって……」
「…………」
「オレ、あの時はよくわかんなかったけどさ、ここ数ヶ月ドタバタに巻き込まれてみて、少しだけわかった気がするんだ」
 龍世は空を見上げて目を閉じた。

 風が周囲を漂っているような、そんな気がしてくる。

「確かにね、すげーむかつくよ?こんな理不尽なことないって思う。こーちゃんは、何も悪いことしてないもん。それでも……さ、相手の土俵で戦っちゃいけない気がする」
「……なんだよ、それ」
「相手が人殺すからって、それをやり返してたらいつまで経っても物事って終わらないんじゃないかな?オレ、違う気がするんだ……仇を討つとかそういうのは。きっと、それをしても、自分の気って晴れないよ」
 そこで龍世は目を開いて、智歳の顔をしっかりと見つめた。

 そう考えて、龍世はずっと自分の気持ちを抑えていた。
 だって……香里はきっと望まないと思うから……。

「オレたちは、こーちゃんの土俵で勝たないといけない」
「香里の……土俵?」
「こーちゃんだったら、きっと……全てを許すから……」
「…………」
「オレ、オレのやり方で……こーちゃんのやり方で、今の状況に勝ちたいんだ。こーちゃんの言ったこと、尊重したい。オレは、オレのままで……葉歌を護る。一番危ないのは、葉歌みたいだから」
「……知らねーよ……」
「え……?」
 龍世の言葉に対して、智歳は悔しそうに声を絞り出す。

「あの女がどうなろうと俺は知らねぇよ!俺は……このままだと、今の自分も、御影も……許せないんだ……っ!綺麗事なんて知るかよ!俺は……香里やお前みたいに、強くないんだよっっっ!!」
 いつも大人ぶっている智歳が激昂したようにそう叫び、ふいっと龍世に背を向ける。

 龍世は言葉が出てこなくて、目を細めることしか出来なかった。
 智歳は弱くなんてない。気持ちの面で弱いなんて、思ったことはない。
 彼は……龍世より多くのことを知っていて、世界の広さをある程度知っているから。
 ……だから、色々なことを見定めたり、尻込みしたりする。たったそれだけのことだ。
 智歳は……弱くなんてない。

「ちとせ……」
「お前だったら聞いてくれるって……どこかで思ってた……」
「ごめん……オレは……」
「わかってる。どんなに我儘なこと言ってるか、自分でよくわかってるんだ。……俺は俺のやり方で、決着着けることしか、頭にないから。……それにお前を巻き込もうとしてたのはよくない」
「…………」
「世話になった……」
「ちと……」
「そう……真城たちにも伝えてくれ」
 智歳は龍世のほうに1度も振り返らずに、スタスタと村の外目指して歩いてゆく。

「ちょっ……どこ行くの?」
「言ったろ?俺は俺のやり方で決着つけてくる」
 龍世の声に立ち止まり、問いに答えた智歳の声にはハリがあった。

「え……?」
「知ってるか?風属性の呪文は……炎属性の呪文と相性が悪いんだぜ?」
「ちとせ……」
「俺にも、まだ運が残ってるんだ」
 智歳は何がおかしいのか、ククッと笑う。

「なにがなんでも……俺はアイツと戦う運命にあるらしい」
 智歳は拳を握り締めて、再び早足で歩いていく。

 龍世はそんな智歳が心配になって追いかけた。
 智歳は背が低くて歩幅が狭いはずなのに、歩くスピードは先程とは比べ物にならないくらい速かった。

「待って、ちとせ!どうしてもやめないなら、オレもついてくよ」
「なんで……?」
「やばくなったら、オレが引っ張ってでも逃げる。逃げ足なら自信があるもん」
「……なんだよ、それ……」
「お前は絶対に死なせないってこと」
「はっ……お子ちゃまがよく言う」
 そんなことを言いながらも、智歳の表情に初めて笑みが浮かんだ。

 龍世は1度村を振り返る。
 ずっと育ってきた村。
 1度は追われる身で飛び出したけれど、あの時は命の危険までは感じていなかった。

 でも、今回は……少しだけ怖い……。
 このまま行けば、きっと後で真城に叱られるんだろうな……そんな言葉が心を過ぎった。

 でも、立ち止まれない。
 智歳は龍世の大事な『おともだち』だ。
 もうこれ以上、それを奪われることのないように、傍に居るしかない。
 本当は止めなくてはいけないのだろう。ここで、喧嘩してでも……。
 でも……どこかで、龍世もまた、仇が討てたならという思いがあったのかもしれない。
 だから、立ち止まることが出来なかった……。





「うっ……嫌……嫌……イヤッ……もう、お願いだから……」
 御影はベッドに突っ伏してゼェゼェ息を漏らしながら、必死に抵抗するようにフルフルと体を震わす。
「璃央様……璃央……さ……ま……」
 泣きながら、誰もいない中空に手を伸ばす。

 そこに広がるのはカーテンで締め切られているために出来上がっている暗闇。
 カーテンを……開けないと……。
 自分の世界が、また、閉ざされる。
 この部屋のように……閉ざされてしまう。

 コンコン……とドアが叩かれ、その後に戒の声がした。
「御影、起きてるか?」
「……か・い……」
「……璃央に用があるんだが、部屋にいないんだ。こっちに来てないか?」
「戒……助けて……」
「? 御影……?」
 搾り出される御影の声。

 それが少しおかしいと感じたのか、戒がドアを開けて部屋に入ってきた。
 部屋が暗闇に覆われていて、状況が掴めないのか、すぐに窓際まで歩いていってカーテンを開ける。

 朝の光が、御影を映し出した。

 戒の驚いた表情が御影の目に映る。

「戒……」

 黒い風が御影を覆っていく。
 段々、御影の意識が遠のいてゆく。

「……お前だったのか……御影の中にいたのは……」
 戒はぐっと拳を握り締めて、黒い風を見据えた。

 奥歯をぐっと噛み締めると、戒の顔に青い光が宿り始める。

「戒……助けて……」
 御影はシーツを掴んで、必死に体を起こす。

 手を伸ばすと戒がその手を掴んでくれた。
 ゆっくりと引き寄せて、御影の細い肩を戒が抱く。
「もう少し、我慢してくれ……」
 戒の青い光を嫌がるように、黒い風が少しだけ御影から離れた。

 けれど、それもほんの僅かな間で、すぐに御影の体へと入ろうと、御影の体を覆った。

「イヤ……わたし、また……。怖い……怖いの、戒……」
「すまない。僕じゃコイツは倒せないんだ。でも、絶対に助けてみせるから、もう少し我慢してくれ」
「だって……また、わたし、あなたを手に掛けてしまうかも……」
「大丈夫だよ」
「え?」
「大丈夫だ。どんなに傷だらけになったって、僕はなんとも思わないから」
「戒……」
「気を確かに持て。例え乗っ取られても、生きることを諦めないでくれ」
「…………」
「『御影』もいる……。大丈夫だ、信じろ」
 戒は優しい声で御影をなだめるように言った。

 戒の胸の中で、荒い呼吸を繰り返す御影。
 咳は出ないものの、喉も肺も苦しくて仕方がない。
 怖くて呼吸が増えるが、呼吸をすればするほど、自分の体が『黒い風』に蝕まれていくのもわかる。
 自分が自分でなくなってゆく感覚。
 それが怖くて、いつも最後まで抵抗することが出来ない。

 けれど……御影にも、護らなくてはいけない人がいる。
 蘭佳が死に掛けた時、初めて御影は抵抗したのだ……。
 蘭佳はどう思っているか分からないが、御影は彼女のことが好きだ。
 彼女のような潔癖な美しさは自分にはないもので憧れるし、彼女のような芯の強さを羨ましいと思う。
 自分は、ああなりたいと思っていた。
 病弱でなく、母も亡くならなければ、自分は蘭佳のような女性になっていたと思う。
 隣には璃央がいて、御影は璃央に優しく微笑みかける。
 2人の幸せは、多くの人に祝福されて……そんな未来が広がっていると思っていたのに……。

 今、自分の目の前にあるのは悲しい現実だけ。
 自分は妹のような存在の香里を、護ることが出来なかった。
 このまま、負けてしまったら……また誰かを殺してしまうかもしれない……。

「っ……ハァハァ……」
「何も出来なくて済まない……」
 戒の手がぎこちなく御影の頭を撫でる。

 意識はほとんど消えかけているのに、くすぐったさに目を細めた。
 負けない……。
 自分の意識は奥に押し込まれてしまうけれど、負けないから……。
 御影の意識はそこで途絶えた。

 『黒い風』の声がする。
「戻るのにだいぶ時間がかかってしまったわ」
 鬱陶しそうに戒の腕を跳ね除けると、ふらつきながらも立ち上がった。

 体を動かせるか確認するように右手を握ったり開いたりしているが、動きが鈍いことを察したのか、舌打ちをしてすぐにベッドに戻る。

「困ったものね……わたしはこの子の体を生かしてあげようとしているのに、邪魔ばかり」
「キサマ……」
「あら、怖い顔。そんなにわたしが嫌いかしら?」
「…………」
 御影は髪をかきあげ、ゆっくりと横になる。
「あの子を殺したのはやっぱり失敗だったわ。……あの状況じゃ仕方がないとはいえ」
 物憂げに目を細め、そのまま御影は眠りについてしまった。

 戒は御影の意識が消えて、以前のような惨事を起こさないようにとでも思ったのか、御影が眠った後も部屋から出て行くことはなかった。

 朝の光だけが、今の状況とは全く異なった清清しさを、室内に運び込む。

 鳥たちが囀っている。
 夏も終わりに近づいた……。
 もうすぐ、秋がやってくる。


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