第1章 誰かが必ず傍にいるから 璃央は塔の屋上から風車を見つめていた。 風車はクルクルとよく回り、その風が前髪をさらっていく。 璃央はそっと目を細めて、周辺を見回すために屋上の縁へと跳び上がった。 塔と風車の建ち並ぶこの草原の周辺は森に囲まれている。 この草原は山々に囲まれて、ちょうどお椀型の地形になっている。 だから風が吹き込みやすいのか……と心の中で呟いた。 璃央はここを御影を隠す場所にと考えていた。 そして、それを実行に移すために、この場所へと自ら赴いたのだ。 蘭佳が持ち帰ってきた石のおかげで移動には苦労をしなくなったが、オーラを頻繁に使っているせいか、体を倦怠感が支配していた。 しばらくそうしていると、誰かが屋上のドアを開けたのか、ガンガンと壁にぶつかって再び閉まる音がした。 はっとして、璃央は振り返る。 けれど、そこには、誰もいない。 璃央は風の悪戯か……と心の中で呟いて、すぐに体勢を元に戻した。 「……御影を、まずは救い出さなくては。話は、それから……。戦いは……もう、どうでもいいな。能無しどもが始めた諍いだ。最悪の場合、王の首1つで終わらせてやる。勝てないなら勝てないで……それで……いい……」 ……それでよくなどない。 身分の高い人間が始めた戦いでどれほどの犠牲者を出したか。 物心つく頃、戦争が激化し始めた。 幼い璃央の目には、民衆の嘆きが映っていた。 誰だって……理不尽な死を望むわけがない。 国のために戦えと? 望んで軍人になった人間はいい。それが当然のことだと受け入れるだけの義務がある。 けれど……いつしか、軍人だけでは補いきれなくなる。 璃央には……それが分かっていた。 ここがギリギリだ。 これ以上、戦争が長引けば、緋橙の国は……国家を保てなくなる。 たとえ、今は同盟国があって戦いは五分でも、この先どう転ぶかはわからない。 璃央は前髪を掻き上げてふぅ……とため息を吐いた。 すぐに縁から下り、ゆっくりと膝をつく。 耳の奥で耳鳴りがしている。 深く深くため息をつく璃央。 顔色が真っ青だった。 催眠術を使う時でも、御影にオーラをあげた時でも、こんなに体調が変調を来たすことはなかった。 自分のオーラは風の秘石を操るのに、あまり向いていないらしい。 当たり前か……。 この石の輝きは清らかだ。 穢れた自分の力など、受け入れてくれるはずなどない。 自分は、望んで穢れに身を落とした。 全ての罪を、背負ってでも戦うと決めた。 神への挑戦状だ。 死に逆らう、この世で侵してはならない禁忌。 それでも……清らかなものを護れるのなら……。 璃央はすっと目を細め、仲間の笑顔を思い浮かべる。 自分らしくもない。 こんなことは、自分らしくない……。 きっと、自分以外の誰も、仲間だと思ってなどいないだろうに。 それでも……璃央は……手を、差し伸べてしまった。 璃央は薄汚れたスカーフをポケットから取り出した。 蘭佳の時も、……香里の時も、このスカーフだった。 御影からもらったスカーフが、皮肉にも2人の血を吸ってここにある。 もう、洗っても落ちることのない……刻み込まれたような血の跡。 切なげに瞳を震わせ、前髪をかき上げた。 その表情には艶が、その瞳には悲しみが溢れていた。 御影の命が最優先事項だ……。 自分の心に言い聞かせて、込み上げる吐き気をこらえる。 風が吹きぬけてゆき、璃央の着ているジャケットの裾がバタバタとはためく。 御影に出会った時、自分の心には風が吹いた。 それはとても神聖で、触れてはならないと思うくらい、尊かった。 世間知らずの姫……。 それでも、璃央が知らない多くのことを知っていた。 薔薇が美しいこと。 その薔薇の咲く意味。 用途や方法などどうでもいい……そこにあるものが美しいのだと、感じられる心。 自分の生がとても中途半端で、自分には、人を選ぶ権利などないと、彼女はそう言った。 どんなに美しいと思っても、彼女はそれを擁きこまない。 そんなのは悲しい。 「限られた環境で幸せだと言えること。それも幸せなのだろう。……でも、僕は……あなたに、もっと広い世界を見せてあげたいんだ。……そのためには……」 つい、言葉として発してしまった。 そこには誰もいないのに。 悲しげに璃央から目を逸らした御影の表情が心に浮かぶ。 「……嫌われてしまったかな……」 璃央は自嘲気味にそう言うと、ふぅとため息を吐いた。 『僕はあなたに一生涯仕えます。この言葉に偽りなく。もしも、嘘になるようなことがあれば、殺してくださって結構です』 それは、璃央の誓いの言葉。 『大丈夫ですよ。その時は、貴女を殺して僕も死にます。貴女が、生きるのが辛いと言うのなら、僕が貴女を殺します』 それは、御影の心を護るための言葉。 ……命を捧げると誓った相手に、『殺す』という言葉を言うことになるなんて。 これは、自分の行為への、報い、なのだろうか? 体が、寒い。 自分の意識が少しずつ遠くなってゆく。 ……ああ、疲れているのか……。 ならば、少し休もう。 思えば、ここ2週間、ずっと強行軍だった。 疲れて、当たり前だ。 璃央は心の中でそう呟いて、ゆっくりと石畳へ体を落とした。 石畳のひんやりとした冷たさが、璃央の頬に心地よかった。 ゆっくりと目を閉じる。 すると、しばらくしてから誰かの手が、璃央の額に触れた。 おずおずと遠慮がちな手からあたたかいものが注ぎ込まれてくる。 璃央は目を開けることができなかったが、その相手が誰なのかをわかっていた。 だから、何も心配することなく、そのまま意識が遠のくのに身を任せた。 その誰かは心配そうに璃央の額を撫で、コツンコツンと靴音を鳴らして立ち上がったようだった。 「お布団、持ってきます、璃央様」 そう言うと、靴音は段々離れていき、扉が開いて閉じる音がした。 ……ずっと、その人は見ていた。 屋上まで上がってきて、見つけた璃央の背中。 なぜか隠れて……彼の悲しげな背中を見守っていたようだった。 少々の肌寒さを覚えて真城は小さく体を震わせ、身を丸くした。 すぐに肩に薄手のストールが掛けられる。 なんとも思わずに真城は再び眠りに落ちようとした。 けれど、それを聴き慣れた歌声が呼び止める。 体が弱いせいでか細いが、それでも、傍にいる人に聴かせるくらいなら丁度いい……綺麗な声。 葉歌の……声……。 真城はゆっくりと目を開けた。 辺りはすっかり薄暗くなってしまっていた。 それでも、愛しそうに真城の髪を撫でながら葉歌は歌を口ずさんでいる。 目が合うと、ニコリと笑ってくれた。 「……葉歌……」 「真城、もう、夏の終わりが近いのね。まだ日が落ちて間もないのに、こんなに肌寒いわ」 自分の腕をさすりながら、葉歌は周囲を見回す。 一体どれくらい眠ってしまっていたのだろう。 風歌と葉歌が話していたのが朝のティータイムの後の時間くらいだったから、だいぶ長い時間だと思う。 真城はゆっくり体を起こして、ぐっと伸びをする。 「ごめん、寝すぎた……」 肩に掛かっているストールについた草を払って、葉歌の肩をそれでそっと包み込む。 「いいのよ、わたしのせいで寝ていなかったのでしょう?」 それを受け取って、ゆったりと肩に掛け直す葉歌。 「葉歌のせいってわけじゃ……」 「真城は、優しいから」 葉歌は優しく目を細めて笑うと、ふんわりとそう言う。 それを見て真城ははたと動きを止めた。 そして、風が吹いて頬に掛かった髪をかき上げ、葉歌の脇に座る。 葉歌は吹き抜けてゆく風に耳を澄ませる様にして目を閉じた。 ふわりふわりと、彼女の柔らかい髪が風に舞う。 「……よかった……」 「え?」 嬉しそうに言葉を漏らした真城を、葉歌は不思議そうに見つめてきた。 真城は白い歯を見せてお茶目に微笑む。 「いつもの葉歌だ」 「……何それ……」 「少し、吹っ切れたのかなって思って」 真城が遠慮がちにそう言うと、葉歌は小首を傾げて笑い声を漏らす。 「……ふふ……」 「 ? 」 「吹っ切ってなんてないよ。……ただ、泣いてても進めないなぁって思ったの。真城にも、心配かけちゃうだけだしね」 そう言いながらもしっかりとしたものを胸に秘めたような眼差しの葉歌。 気圧されたのは真城のほうで、不自然にならない程度に月を仰ぐ素振りをしてみせた。 まだ昇りたての月だけれど、しっかりと2人を照らしている。 「別に、ボクは……」 「あなたが私のことで嫉妬するなんて考えたこともなかった」 「え?」 葉歌の言葉に真城はきょとんと目を丸くする。 「前にも言ったけど、あなたは『真城』として存在するだけで、わたしにとって、かけがえのないものなの。もう二度と、わたしの役に立てないなんて言葉、言わないでね」 葉歌のしっとりとした声。 それは真城を包むように優しかった。 真城はそう言われて思い出す。 葉歌が風歌の力を借りようとしたことが、悔しかった。 「……あ……」 「さて、帰りましょうか。お昼を挟んで眠っていたから、さぞかしお腹が空いているでしょう?」 スラリと立ち上がり、葉歌は真城に手を差し伸べてくる。 月明かりが葉歌の笑顔を照らす。 真城は彼女の手を取ってゆっくり立ち上がった。 ねぇ、葉歌。 知っているんだよ。……葉歌は、辛ければ辛いほど笑うんだってこと……ボク、知ってるんだよ。 そう、心の中で、真城は呟く。 心配なのは泣いている時じゃない。 本当に心配なのは、頑張らなければと気を張って、笑顔を作る余裕を得てしまった時。 それは……風歌が見てきた『あかり』そのもの……。 「葉歌……」 「ん?」 「お守り……汚れちゃったけど、返すよ」 真城はゆっくりと自分の首からお守りを外し、葉歌の手にきゅっと握らせた。 「ボクは、葉歌の病気が治ることを願って、この花を贈った。だから……」 旅の途中、何度か真城はお守りを開けて中身を確認したことがあった。 はじめはなんとも思っていなかった。 葉歌が押し花を作るのは珍しいことじゃなかったから。 本の栞にちょうどいいからと、よく綺麗な花や落ち葉を拾っては持ち帰るのを見てきた。 けれど、ある時、ふと思い出した。 このライラックの花は……真城が子供の頃に、よく葉歌のために摘んでお見舞いに持っていった花。 そんな昔のものを、こんなにも大事に取っておいてくれた。 だから、持っているべき人は、やっぱり葉歌なのだ。 「…………」 「本当に病気が治るまで、葉歌が持ってて」 「けど……」 不安そうな葉歌の目をしっかりと見つめて、真城は優しく笑みを浮かべる。 葉歌の手を両手で包み込み、ポソポソと呟いた。 「護ってみせる」 「真城……」 「ボクは、そのためにここにいるんだから」 真城がそう言うと、葉歌の目から涙が零れ落ちた。 驚いて真城は目を見開く。 何も……泣かせることなんて言っていないのに。 「……ずるいなぁ、ましろは」 「え?」 「せっかく決意したのに……また、戻っちゃいそうになる……。そういうところ、セージ様みたいで……」 「セージ……さま?」 「……なんでもないの、気にしないで」 真城は腑に落ちずに首を傾げるが、葉歌はすぐに気持ちを切り替えたように、真城の手を取って歩き出した。 真城は知らない。 今の言葉を、他の誰が言ったとて、葉歌の心にこれほどまで触れることはないことを。 風歌が言ったとしても、葉歌はただ『ありがとう』と言うだけ。 過去にあかりがそうしたように……葉歌は感謝するだけ。 けれど、真城に言われると……自分は許された気がしてしまう。 過去のしがらみも何も無しにできる気がしてしまう。 心の傷や……後ろめたい罪悪感……全て、消されるような、そんな気にされる。 安心してしまって、その優しさに身を委ねそうになる。 まだ早い。 まだ、何も終わってはいないのだから。 真城は葉歌の横顔を見つめたまま、手を引かれるようにして歩く。 葉歌の手に力がこもった。 真城がその手を握り返す。 葉歌の不安な気持ちを応援するように……。 自分の中の決意を強めるように……。 前にもこんなことがあった。 その時は、真城が葉歌の手を引いて、この丘を登ったのだ。 外に出てもいいと許可をもらって、ようやく葉歌が村を見て回れるようになった頃。 彼女は……外が怖いと、不安そうに真城に言った。 だから、真城は笑顔で葉歌の手を取ったのだ。 外の世界は何にも怖くなんてないんだよ、という言葉とともに。 |
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