第6章  深き忠愛を、あなたに捧ぐ

 蘭佳は無表情で壁際に立ち、気だるそうにしている御影を見つめた。
 自分が瀕死の状態だった時、悪びれもせずに蘭佳の顔を踏みつけようとした……。
 あの時のことが記憶の片隅から消えていない。

 ……それに加えて……。
 蘭佳は香里のことを思い出して、目頭が熱くなってくるのを感じた。

 もう少し背が伸びたら、蘭佳が恥ずかしくて着るのを躊躇っていた服をプレゼントするつもりでいたというのに。
 璃央に休むように言われ、東桜に来ないように言われたけれど、どうしても落ち着かなくて早馬で駆けつけたところ、知らされた事実は……考えもしないものだった。

 来なければよかった……。
 こんな事実があっても、璃央は御影を手離さない。
 それを目の当たりにしなければ……自分は、まだ何も知らずに生きられた。
 少しの間だけであったとしてもだ。

 蘭佳は必死に心の中で言い聞かせる。

 璃央はそんな人ではない。
 優しく、国を憂う……年若い政治家だ……。

 言い聞かせる。……言い聞かせる。
 それは彼を信じるというのもあるが、自分を信じたいから。

「ご苦労なことね。璃央に暇を与えられたものとばかり思っていたわ。あんまり戦力にならないから」

 ランプの薄暗い灯りに映し出される御影の表情は物憂げで、眼差しは蘭佳を馬鹿にしているように見えた。

「与えられましたよ。ゆっくり休むようにと言われました」
「へぇぇ」
「ですから、私は休みを自由に使わせていただいているだけです」

 蘭佳と御影の視線が絡み合う。
 ようやく口を聞くようになったと思えば、不快にさせるコメントばかりだ。
 恩に着せるつもりはないが、何年も自分が世話をしてやったことを思い起こすと、あまりイライラしない主義の蘭佳も機嫌が悪くなった。
 蘭佳は御影の中の実態を知らない。だからこそ、余計だった。

「……わざわざ、この部屋にいなくてもいいのではなくて?わたし、あなたの顔、見たくないわ」
 御影は静かにそう言った。

 蘭佳はその言葉に眉をひそめる。

「お聞きしていいですか?」
「なぁに?」
「御影様が香里を手に掛けたと、聞いています。それは本当ですか?」
「……ええ、そうよ?あの子は賊に寝返って、わたしに手を出そうとした。自分の命か相手の命か、はかりに架ければ容易い選択でしょう?」
「……っ……」
 蘭佳は一層表情を厳しくすると、コツコツコツ……と靴音を鳴らし、ベッドの傍まで歩いていった。

 御影がそれを不思議そうに見上げてくる。
 蘭佳は素早く御影の頬を張った。
 御影の華奢な体が簡単にベッドに倒れこむ。

「はかりに架ければ容易いですって? 香里はあなたのために命懸けで生きていたのに」
「わたしのため……? 違うわ、璃央のためよ。あの子も、あなたも」
「……少なくとも、香里はあなたのためでしたよ」
 蘭佳は自分については否定せずに、御影を叩いた手をゆっくりと握り締める。

「志も何も示さない人の下で、私は働くことができませんけど。……香里は優しい子でしたから」
「志……ねぇ」
 御影はゆっくりと起き上がり、自分の体を示して口を開く。
「こんな弱い体で、示せる志があると?」
「可哀想可哀想で、世の中全てが収まると思わないでください」

 蘭佳は真っ直ぐにそう言い切った。
 嫌いなのだ。そういう考え方が。
 自分は確かに恵まれた人間なのだろう。
 けれど、そんなに容易く出来ないなどと言われたくない。

「愛想のない人。……だから、お父上に見放されたのね」
「……なぜ、それを?」
 蘭佳の問いを無視して、御影はすぐに言葉を続ける。

「あなたには皮肉な話だけど、出来ないことを武器に出来る人間のほうが、時として好まれるのよ」
 蘭佳はその言葉で思わずもう一発御影の頬を叩いてしまった。

 自分がそれを出来ないからじゃない。
 そんなことを考えている……御影という人間が、物凄く嫌なものに感じたのだ。

 御影は頬を押さえて蘭佳を見据えてくる。
 窓が開いていないのに、室内の空気がさわさわと動いた。

 その時、璃央がカチャリとドアを開けて、御影の部屋に入ってきた。
 蘭佳がいることに驚いたように目を見開いたが、すぐに御影に視線をやり、歩み寄ってくる。

 まだ、空気がさわさわと音を立てている。
 カーテンがひらひらと舞い、御影の目の輝きがどんどん怪しくなってきた。
 空気がさわさわ……からざわざわ……という音に変わり、旋風が起こった……その瞬間、璃央の手が蘭佳の頬を張った。

 それほど激しくはなかったが、音だけは派手に鳴った。
 蘭佳は何が起こったのかわからずに頬に手をやる。
 微かにジンジンとする痛み。
 部屋の中に起こった旋風が、その音によって止んだ。

「御影様に手を上げるとは、どういうつもりだい?蘭」
「…………。申し訳、ありません」
 蘭佳は目を伏せて静かに謝る。

 思わず涙が出そうになったが、蘭佳はそれを必死に堪えた。
 璃央は御影の頭を軽く撫でて、努めて冷静に言ってくる。
「頼りにしているんだ。あまり、僕の期待を裏切るようなことはしないでおくれ」
「はい……」
 蘭佳はゆっくりと踵を返すと、部屋を出ようとドアに向かって歩き始めた。

 これ以上、この空間にいたら、自分を保てなくなりそうだったからだ。
 璃央が……理由も聞かずに、自分に手を上げた。
 手荒な真似を好まない……あの少年が、だ。
 蘭佳は唇を噛み締めて涙を堪える。

 わかっている。
 蘭佳と御影。
 はかりに架けたら彼にとってどちらが重いかくらい。
 刹那の時で判断できる。
 それでも、……本当は、取り成さなくてはいけないのではないのか?

 でも、なんと?
 その女性は血迷っていると? あなたの身を滅ぼす悪女ですと?
 そんなこと、言ってどうなる?
 ……自分が、惨めになるだけではないか。
 嫉妬の気持ちが自分の中にないと、本当に言えるか?

 そんな蘭佳を静かに呼び止める璃央。
「蘭……賊が忍び込んだようだ。遭遇しても、関わらずにやり過ごしなさい。君は、休暇中なのだからね」
「…………。努力します」
 コツコツコツ……と歩く音が響き、蘭佳はドアを押し開けて部屋の外へと出た。

 璃央は女に手を上げるような人間ではない。
 それがわかっているからこそ、……先程の平手が手加減されたものだとわかっていても、悲しかった……。
 蘭佳は閉ざされたドアにもたれかかって、ポロリと涙をこぼした。
 その涙一条で、蘭佳の我慢していたものが次々にあふれ出してきてしまった。




 薄暗い室内に、御影のクツクツと笑う声が響いた。
 璃央は目を細めて、御影からそっと手を離す。
 御影はゆっくりとこちらを向き、不気味に笑みを浮かべ、ふてぶてしい口調で言った。
「可哀想に」
「……僕が手を出さなければ、蘭は今頃死んでいたでしょうね」
「あら?わたし、そんな手荒なことしないわ。いたぶるのが好きなのですもの」
 御影は悪びれもせずに笑顔でそう言い切る。

 璃央は不機嫌そうに眉をひそめて、窓際まで歩いていく。

「御影の顔で、今度そんな下賎な言葉を口にしてみなさい。容赦しませんよ?」
 璃央は御影をギラリと睨みつけてそう言う。

 御影はその言葉を聞いて、きょとんと目を丸くした。

 そして、すぐに人差し指を口元に当てて、にこりと笑う。

「やれるものならやってみなさい。あなたがわたしに出来ることなんて、たかが知れてるわ」
「…………」
 璃央は冷ややかに御影の表情を見下ろしている。

 御影は苦しげに何度か咳き込んでから、ゆっくりと立ち上がり、璃央の頬にそっと触れて、艶っぽく笑った。

「出来ないくせに、カッコつけるものじゃないわよ?」
 璃央は御影の細い手首を掴んで、頬から離す。

「……出来ますよ?」
「え?」
「御影がそれを望んでいる」
「そう。それじゃ、貴方も敵ね?」
 璃央の言葉に御影はクスクスとおかしそうに笑って返してきた。

 以前よくやっていたせいか、手馴れた様子で璃央の胸元を指でなぞる。

「……味方ですよ」
 ポツリと呟き、胸元にある御影の手を取ると、そっと指にくちづけた。

「御影がこの世にいる限り、ね」
 璃央の目は、御影の体の中の御影を探すように、真っ直ぐ御影の目を見つめていた。




 夜闇の中で、金属のぶつかり合う音が響いていた。
 月歌は紫音の持っていたカンテラの灯りを頼りに、二人の様子を窺う。

 目で見なくてもいいほどの存在感。

 東桜という男が漂わせる空気に、少々戸惑いを覚えていた。

「……わざとなのか、撃たれても当たらない自信があるのか……」

 確かに彼の威圧感は凄まじいものだ。
 けれど、その反面、狙ってくださいと言わんばかり……とも言える。
 月歌は眼鏡をややずらして、ハンマーを引き、銃を構えた。
 紫音の剣さばきはさすがと言うところだ。
 東桜とのぶつかり合いでも押し負けないし、速さ負けもしていない。

 月歌は二人が離れた隙を狙って、引き金を引く。
 腕が発砲の反動で少々跳ね、周囲にパーンという音が響いた。
 音で兵士を呼び寄せてしまうかもしれないが、それはそれ。
 ……というか、今の今まで駆けつけなかったことを考えると、黙認されているのではないかとも……思う。

 長めのバレルから放たれた弾丸は軌道を描きながら、東桜へと向かってゆく。
 東桜はそれに素早く反応して、上体だけ逸らしてかわした。

「ふぅ……さすがに暗いと確実性が落ちますね」
 月歌は一人ごちて、地面に置いていたカンテラに目をやる。

 月歌は眼鏡を念入りに掛け直して、目を何度もしばたたかせた。
 夜目が利かない……。
 そんなものは戦と関わらない自分にはもう関係のないことだと思っていたというのに。

 まだ周囲に漂う薬莢の匂いに、懐かしい鍛錬の日々が蘇ってくる。
 ……あのまま続けていれば、きっとこの程度ではなかったろうに。
 自分の力は……10年前の3分の2ほどに落ち込んでいる。
 10年という時を考えたならば、それくらいで済んだことが奇跡なのかもしれないけれど。

 紫音が東桜を警戒しながら、月歌の傍まで慎重に歩いてきた。
「……ここはいいので、先に行ってください」
 紫音は小声でそう言った。

 耳のいい月歌はすぐにそれを聞き取って首を横に振る。
「それはできません」
「なぜ?真城くんたちが心配じゃないんですか?」
「……心配ですよ」
 月歌はふぅ……とため息を吐いて答える。

 紫音が不思議そうに顔をしかめたので、月歌は警戒しながらも言葉を続けた。
「心配です。この先には戒くんもいるでしょうし、何より、恐るべき敵がいます。……たっくんも、智歳くんも、……葉歌も、……お嬢様も……とてもとても心配です」
「だったら……」
「でもね」
「 ? 」
「私は……目の前の仲間を一人置いて先に進むことはできないんですよ」
「…………」
「戦力は拮抗している。一人置いていくことは、見捨てるという行為と同じです」
 紫音はその言葉を聞いて、悔しそうに大剣を握る手に力を込める。

「それに……紫音殿の発している殺気も、少々気にかかります」
「それは、あれほど強い相手ならば……」

「真城様の剣が青空に輝く太陽ならば、あなたの剣は夜空に浮かぶ白銀の月」

「…………」

「怜悧な剣筋が、あなたの剣を伸ばしてきた」
 月歌は真面目な目で紫音を見透かすようにそう言った。

 紫音は月歌の眼差しから逃げるように目を背けた。
 東桜がゆったりとこちらに向かって歩いてくる。
「いつまで無駄話してんだ?マシロちゃんと闘えなくてイライラしてんだから、俺を退屈させるなよ」
 東桜はそんなことを大きな声で言って、ふっと笑みを浮かべた。

 それに反応して紫音が出るよりも早く、月歌が飛び出していった。
 東桜が刀を振って迎え撃つが、月歌は器用にそれをかわして、至近距離で銃を突きつける。

 二人の対峙する姿が月明かりで浮かび上がった。

 東桜は至近距離にも関わらず、余裕を持って、左頬の傷跡を撫でながら月歌を見つめてきた。

「へぇぇ……まだ面白い奴がいるのか」
「お前が、あの方の名を気安く呼ぶな!」
 月歌はいつも柔らかな眼差しを険しくさせて、低く叫ぶ。

 東桜はそれを聞いて、目を細めた。
「何だ?どういう関係だ?マシロちゃんは俺の獲物だぜ?」
「下世話なことを」
「そう気取るなよ。女剣士なんて単語だけでもそそるのに、あの面だぜ?興味を示して当然だろ?」
「…………。お嬢様を先に行かせてよかった」
「あ?」
「お前のような輩に、関わらせる訳にはいかないからな」
 月歌は低く吐き捨てると、素早く引き金を引いた。

 夜の街に銃声が響き渡る。

 月歌を支援するかのように、今夜の月は煌々と地上を照らしていた。


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