第2章  この手で触れ合って、想いを伝えて

 蘭佳は小さな侵入者を見下ろして、ふぅ……とため息をついた。
 困ったものだ。
 やり過ごせと言われたものの、気心が知れすぎている。
 そして、……彼の思考回路も、手に取るようにわかってしまう。
 その考えを、自分には咎めることができない。
 それはなぜか。自分も同じように、御影に対して憎しみを抱いているからだ。
 自分が出来ていないことを、相手になど押し付けられるものか。

「蘭……どけよ」
 智歳は昔からどこか鋭さを持った少年であったけれど、これは鋭さとは違う。

 悲しいほど冷たく、きっと……香里が一番持ってはいけないものだよと、彼に教えていたもの。

「智歳、やめましょう。こんな争いは悲しくて、虚しいだけよ」

 何をしても、帰ってなどこない。
 わかっていても、噴き上げてくる憤りは留まることを知らず、蘭佳は御影に手を上げてしまった。
 そんな自分の言えた言葉ではないのかもしれない。
 やられたからやり返して……。でも、それでは終わらない。それを繰り返す。
 その悲しさを、蘭佳は知っている。
 今の戦争もはじめはそんな小さな諍いからだったと、聞いているから。
 暴力に訴えることは簡単だ。
 けれど、悲しい……。心にぽっかり開いた穴は、決して埋まってくれなどしない。
 そのために、言葉があるのだと、思うから……。


『だめだぜ、ランカ。出来てるか出来てねぇかじゃねーんだ。自分の道理に合うか合わねーか、それが大事なのさ。出来ねーことはいつか出来るようになるかもしんねーじゃねーか。お前さんはまだ若ぇんだからよ』
 生真面目な蘭佳が智歳を叱り付ける時に躊躇うのを見て、東桜は言った。
 璃央のように毅然と叱ることの出来ない自分。
 それは、自分には為せていることが少ないという気持ちがあったから。
 けれど、東桜はそれを見透かすようにそう言った。
 理屈に結びつけるのではない。
 けれど、言葉で説明することも必要だ。
 それが……智歳のように賢い子ならば余計に。


「智歳、引き返しなさい。あなたはこんなところにいるべきではない。一度出て行ったのならもう戻ってきては駄目です」

「……お前まで邪魔すんのかよ……。そうだよな、お前は、りょーにベタ惚れてるもんな。良いように利用されて、それで満足なんだもんな!!」

「何とでも言いなさい」
 智歳の言葉に対して、蘭佳は表情一つ変えずにぴしゃりとそう答えた。

 智歳が眉根を寄せて、すぐにプイと横を向く。

「ちとせ……」
 智歳の横で困ったように龍世が表情を歪めている。
 さすがに登場したのが美人の女性……ということで、攻撃するにも出来ない状態なのだろう。
 智歳がどう動くかを探るように、龍世は二人を交互に見比べている。

「馬鹿みたいだ……。お前も、トーオも……姉上も。一人のために命張って、体張って……それで得られたもんは何だよ?!何にもないじゃんか。りょーは振り向いてくんないし、御影は狂うし……。……馬鹿みたいだよ……」

「それはあなたも同じでしょう?」

「……っ……」

「意味なんてないし、得られるものなど求めていやしない。ただ、笑ってほしいだけ。幸せになってほしいだけ。……そうでしょう?……人が争う理由なんて、きっと、そんな些細なもの。みんな、誰かを幸せにしたいだけ……。想いは綺麗なのに、ぶつかりあったら汚れてしまうのね……」
 蘭佳は寂しげに目を細めて、そっと腕を抱きこむ。

 自分で言って、自分で悲しくなる。
 自分を抱きこまなければ、自分が倒れてしまいそうだから。

 ごめんね、智歳。私さえ、こちらにいれば……香里を殺させなどしなかった。

 その言葉は宙を舞うだけで、言葉にはならない。
 もしも……幸せにしたい対象が消えてしまったら?
 どうなるかなんてわかっている。

 ねぇ……智歳……。

「俺は……りょーも御影も嫌いだけど、……お前は好きだったよ」

「え……?」

「無表情でも伝わるもの。香里のこと、妹みたいに大事にしてくれたこと」

「……あの子は……本当に妹みたいだったから……。甘えっこの妹に、似ていたから」

「本当の姉上は、蘭みたいな人なんだ。しゃんとして、ちょっと頼りないけど……とっても優しい」

「…………。智歳……」

「やり返しても解決にはならない。そんなことは痛いほどわかってるよ。……それでも、ここも、ここも、痛くて仕方ないんだ……!」
 智歳は胸と頭を示して、苦しそうに表情を歪める。

 その表情につい蘭佳は歩み寄ってしまった。
 ゆっくりと歩み寄り、しゃがみこんで智歳の視線に合わせる。
 やり返すことを繰り返して、争いが大きくなるのなら、誰かがどこかで止めなくてはいけない。
 ……でも、我慢したその人の心は、……どうなるのだろう?

「ちと……」
「ごめん、蘭」
「ぇ……っ……」

 智歳の動きは速かった。
 歩み寄ってしゃがみこんだ蘭佳の首の後ろをトンと叩き、倒れてきた体を小さな体で受け止める。

 横で様子を窺っていた龍世の顔が最後に見えた。

 ……意識が消える前に耳元で囁かれた言葉……。
「理屈がわかっててもね、罪の重さを、あいつらに思い知らせてやらないと、気が晴れないんだ……」

 …………。
 璃央はやり過ごせと言った。
 それは、賊が彼だとわかっていたから?
 もし、そうなのだとしたら……あなたは一体、何を考えているのですか……?





 心の深奥。
 暗い闇の中……御影は必死に『彼女』を探していた。
 戒の言った通りに、『彼女』を探していた。
 どちらを向いても暗い……見えない……。
 まるで、御影の部屋のようだった……。

 黒い風の声がする。
『和解?……ふふ、面白い。和解というよりも、あなたが無理矢理交替したんじゃなくて?なんだか、目に浮かぶようよ、その光景が』
『……どっちでもいでしょう』
『あら?ご名答?』
『御影様、あまり無理は……』
『うるさいわ、邪魔よ』
『…………』
『わたし、あなたにはもう興味ないのよ。……新しい玩具も見つけたことだし』
『僕もあなたには興味はないが……それでも、その体は御影のものですから』
『……あなたも、存外可愛い人ね。まぁ……だから、わたしも楽しかったのだけど』
『僕は、あなたが可哀想に見えますよ』
『…………。生意気な坊や……』

 御影は璃央の言葉に目を細めた。
 涙が零れそうになる。

「……璃央……様……」
 けれど、彼の名を呼んですぐにその涙を拭った。

 泣いている場合じゃない。
 ……自分は、強くなると決めた……。
 『彼女』を見つけなくてはいけないのだ。

 ゆっくりと歩き始める。
 歩を進める度にちゃぽんちゃぽん……と音がする。

 自分の素足に冷たい水の感触。
 体の芯まで、心の芯まで凍えるような……そんな冷たさだった。
 自分の足がかじかんでしまったような感触に囚われる……けれど、それでも御影は足を止めなかった。

 どんどん深くなってゆく。
 深さに合わせて御影は自分の体をバタバタと動かして、なんとなく、泳ぐ……という形になった。

 たぶん、これが泳ぐという感覚。
 本の中の世界でしか見たことのない、動き。
 水面を泳いでいてもどうしようもないことは、直感で感じ取った。
 ドキドキしながらも、必死に御影は体を沈める。

 自分が……やるのだ。
 いつまでもお姫様ではいられない。
 彼に……璃央に、自分は伝えるのだ。
 感謝の気持ちも、あふれるほどいっぱいの想いも、彼に伝える。
 だから……絶対に、自分は負けるわけにはいかない。
 だって、この体は自分のものなのだから。
 彼の言ったとおり、自分のものなのだから……。

「……っ……」

 息が続かない。
 自分の心の中のくせに、なんと不自由な空間だろう。
 ……けれど、これが『御影』を取り巻く牢獄のようなものなのだろう。
 この冷たさは『彼女』の苦しみで、この闇は『彼女』の心なのだ、きっと。
 御影と『御影』の間には、こんなにも……距離がある……。

 御影は必死に水を掻いた。
 それはもがく……という表現がピタリとあてはまるような……そんな滑稽ささえ感じさせるほど、不恰好だった。

 それでも、彼女は泳ぐのをやめない。


 応えて。『御影』さん……応えて。


『……あはははは!わたしが手を上げることもないんじゃないの?もう寿命?……でも、まだよ?死ぬ前に、わたしのかけらを返してくれなくちゃ!!』
 黒い風の狂気に満ち満ちた声が聞こえてきた。

 御影はそれを聞いて眉をひそめる。

 このままでは……また誰かを殺してしまう。

 イヤ……そんなのはもう……イヤ………………。

「……あなたは、彼の愛を信じられる?」
 御影の途絶えそうな意識を、その声が呼び止めた。

 御影ははっとして顔を上げる。

 ……息が、できるし、『彼女』が現れた途端、周囲が明るくなった。

 目の前にはふわふわと浮かんでいる、黒髪が綺麗で……少し高飛車そうな、美人の少女。

「こんばんは、わたしの器さん」
「『御影』……さん」
「……あなたは、わたしの感じてきたこと全て知っているから、今更語ることもないけれど」
 長い睫毛をすっと伏せて、『御影』はやんわりと笑ってみせた。

 ……なんて、穏やかに笑う人だろう……と御影はその笑顔を見て感じた。
 自分が『彼女』の記憶を追う夢を見ていた時、『彼女』は……こんな風に笑っていただろうかと……思いを馳せてしまうほどだった。

「……?どうしたの?キミカゲが驚いた時みたいな顔してるわよ」
 それは相当間抜けな顔だ……。
 御影は慌てて表情を正す。
 すると、クスッと『御影』が楽しそうに笑った。

「いいわ。可愛らしい」

「え?」

「……それよりも、先程の問いに答えてくれるかしら?あなたは、水色の髪のあの少年の愛を、信じることができる?」

「…………」

「わたしは、疑ってしまったから。もしも、疑いの心があなたにあるのなら、わたしたちが結束したところで、勝てないでしょうね」

「……あなたは、もう?」

「わたしは、もう時が流れすぎてしまったから。でも、会えた。……だから、もう大丈夫よ。キミカゲの心は偽りなく、わたしを想ってくれていた。それが、恋愛かどうかは別として」

「…………」

「あなたはどう?練習だと思って言ってごらんなさい」
 躊躇う御影を見て、『御影』は見透かしたようにそう言った。

 『彼女』は……全て分かっている。
 自分が『彼女』のことを分かっているように、『彼女』も御影のことを分かっているのだろう。

「……こんなことしてる場合じゃない。あの子が……危ないんです」
 御影は静かにそう言った。『御影』がそれを聞いて困ったように人差し指を頬に当てる。

「……駄目ねぇ。わたしの強引さは引き継いでくれないと」
「え?」
「……だぁいじょーぶよ。あかりがあんな奴にやられるものですか♪」
「……信じているんですね」
「ええ。……誰よりも」
 『御影』の小首を傾げての返答に、御影はゆっくりと目を細めた。
「……羨ましかったんですよ、あなたたちの仲の良さ」
「あなたはまだまだこれから出会えるじゃないの」
「……出会えるでしょうか?」
「ええ、きっと。なんなら、あかりと仲良くなればいい」
「……許してくれるでしょうか?」
「何を?」
「わたしは……その……」
 御影はそこで言葉に詰まった。
 怖くて言えなかった。
 自分の罪を再確認するようで……また口にする……という行為ができない。

「まぁ、無責任なこと言わせてもらうと、なんとかなるわよ」
「なんとか……って……」
「あーもう、わたしはね、うじうじグジグジが大嫌いなの。とらぬ狸の皮算用したって仕方ないでしょうに。その時になったら考えてごらんなさい」
「…………」

 納得できないような表情の御影にビシッと指差して、『御影』は語気を強めた。
「もう!あなたはあかりじゃなくて、わたしの後釜なんでしょう!うじうじしないの!!まだるっこしいなぁ……」
 呆れたようにふぅ……とため息を吐く『御影』。

 御影はそっと『彼女』を見上げて、ポツリと呟いた。
「……いつも、どうして、あんなに自信いっぱいに好きって言えたんですか?」

 分かるようで分からなかった。
 『御影』にはキミカゲに対する感情を表す時だけは、理屈も何もなかったから。

「? だって、好きって言わなかったら意識してもらえないじゃないの」
 『御影』は当然のようにそう答えてきた。
 そんなに簡単に思い至れる彼女が羨ましいとも思う。

「……あなたにはわからないでしょうねぇ。ずっと彼に愛されて生きてきたもの」
「…………」
「愛されたから、その分を返さないと……ってね」
「……そんなんじゃありません」
 『御影』の言葉に御影は唇を尖らせた。
「そう?」
 その返しに『御影』が楽しげに目を細めた。
 それはまさにしてやったりの表情。
 けれど、それに御影は気がつかなかった。

「璃央様は……とても素敵な方です。……きっと、あの方はわたしに同情してくださった。体が弱くて、籠の中の鳥でしかないわたしに同情をくださったんです。母が亡くなって、自失してしまったわたしの元に訪れてくださったのは、父と……彼だけでした。……でも、あの黒い風の策謀で、父はカヌイ掃討の任務中に殉職されてしまいました」
 そう言うと、『御影』が申し訳なさそうに顔を歪めた。
「……その点は、わたしから詫びるわ……。あれは、わたしの独占欲の念が根本にあった。本当に、ごめんなさい……」
 『御影』はゆっくりと頭を垂れた。

 それを見て、御影は慌てて首を振る。

「いいえ、違います。……運が悪かっただけです。誰のせいでもない。……こんなことを言ってしまったら、戒や犠牲になった方々に、失礼かもしれないけれど」
「……あなたは、強いのね……」
 『御影』が目を細めて御影のことを見つめてくる。またもや、御影は首を横に振った。

「違います。これは強さなんかじゃない。……誰かのせいにするのは、悲しいし、虚しいだけだから……」
「御影……と呼ぶのは変な感じだけど……」
 『御影』は少々の苦笑を漏らした後、すぐに真剣な目で付け足した。
「御影、人はそれを強さと呼ぶのよ」
「…………」
「あと、彼のは同情なんかではないと思うわ」
「…………」
「同情という感情は……いつか潰えるものなの。彼の手はいつでも優しいじゃない。あなたを愛しているからこそ、出来ることだと……わたしは思うわ」
 『御影』のその言葉に、先程堪えた涙が戻ってきた気がした。

 ほろりと……御影の目から雫が零れる。

「……あなた……」
「お慕いしています。……誰よりも、大好きなんです……。本当は……ずっと……ずっと、一緒に、いたい……」
 御影は目を両の拳で押さえて、搾り出すような声でそう言った。


『御影様、あなたがお好きなピンクの薔薇ですよ』
 子供の頃、いつも笑顔で、彼は御影の元に訪れた。
 馬鹿の一つ覚えのように、いつもピンクの薔薇を持って。
 彼は……器用なようで、とても不器用な人だった……。
 けれど、それさえも愛しくて、御影はいつもそんな彼を見つめていた。

 父が亡くなった報せが届いてすぐ、璃央は御影の元に駆けつけてくれた。
 彼が11歳……御影が13歳の時のことだ。
 母が亡くなってからずっと黒い風に囚われていた御影は、彼の言葉に何一つ返事をしなかったけれど、璃央は御影の手を握り締めて笑顔で言った。
『御影様、僕の屋敷に来ませんか?何一つ、不自由はさせません。この家で雇っていた者たち、一切合財も、こちらで面倒見ます』

 彼の愛は深かった。
 そして、璃央の心変わりがあった時、自分は何も言わないと告げた御影も、……もうそんなことは言えないほどに、彼に心を奪われてしまっていたのだ。


 『御影』がすっと御影の頭を抱き寄せて、優しく撫ですかす。
「……大丈夫。大丈夫よ。あなたの想いは叶うから。絶対に、叶えてあげるから」
「……ごめんなさい……あなたの想い、叶えられなくって……」
「ふふっ……今のキミカゲはわたしのタイプじゃないから気にしなくていいのよ。それにあなたはわたしであってわたしでない。違うのは当然でしょう?愛される幸せを、たくさんたくさん教えてもらえた……それだけで、わたしはおなかいっぱいだわ」
 お茶目にそう言うと、『御影』が優しく御影の手を握り締めた。

「さぁ……行きましょうか。愛する人の元へ」

「…………はい、『御影』さん」
 御影も『彼女』の手を握り返し、『彼女』に引かれるままに、上へ上へと上昇していった。


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