第7章  黒い風のお気に入り

 何度も何度も人工呼吸を繰り返していると、戒が歩み寄ってきて、葉歌の手をしっかりと握り締めた。

「ハウタ、しっかりしろ。お前が言ったんだろう?!一人で大丈夫だと、お前は頷いたんじゃないか!?マシロと約束したんじゃないのか?!」

 葉歌の手がピクリと反応を示す。

「お前には言いたいことが山程ある!!ペラペラペラペラ口が回るお前に、言えなかった嫌味がたくさんあるんだ。このまま、逝かれてたまるか!!ハウタ!!!」

 戒の声が高い天井に跳ね返って、色々なところを跳び回る。

 真城はそれでもただ静かに息を吹き込むのを繰り返すだけ。

 蘭佳の制止が入って、再び真城は手を止めた。

 ふっ……と葉歌の口から、先程とは違う息のようなものが吐き出される。

「葉歌……?」
 真城が葉歌の頬をそっと撫でると、葉歌の目がゆっくりと開かれた。

「コホコフッ。……まったく……いつもいつも思ってたけど。……ケホ……。発音が違うのよ……馬鹿……」

「葉歌!!」
 真城は顔をほころばせて、すぐに葉歌のことを抱き寄せる。

 その次にいつの間に戻ってきていたのか、龍世が真城と葉歌二人にのしかかるように抱きついてきた。

「戻ってきたら、やばくなってたからびびったじゃんかぁ……。よかったぁぁぁ……葉歌……」

「たっくん、痛い……」

「あ……ごめん」

「ううん、心配かけてごめんね」

「それは、オレに言うことじゃない気がするんだけどぉ……にひひ……」
 龍世はおかしそうに戒に視線を動かして、にひひと笑いかける。

 戒はそれを察したのか、不機嫌そうに視線を逸らした。

 葉歌が床に手をついて、体を起こし戒のほうに向き直る。

「なんだか、聞き慣れない声が聞こえた気がするんだけど?」
 おかしそうに葉歌は戒にそう言う。

 戒が眉根を寄せて、それを睨みつける。
 けれど、そんなのには臆することもなく、葉歌は小首を傾げた。

 先程までとは違って、葉歌の目はいつものように穏やかな光を湛えている。

「私の名前は、葉っぱに歌で、葉歌なの。歯痛みたいな発音で何度も呼ばないで、そろそろ、覚えてちょうだい?御影さんのことはきちんと発音してるんだから」

「お、お前らの名前はみんな面倒くさいんだ」

「……なんか、いつの間にか、やり取りが痴話喧嘩〜?」
 龍世が面白そうに二人を見つめてそう言うと、戒はむっとして黙り込み、葉歌は戒の表情を気にして黙り込んだ。

 真城はそれを横目で見ながら、蘭佳と璃央にしっかりと頭を下げる。
「ありがとうございました。もし、君が言ってくれなかったら、葉歌の異変にちゃんと気付けなかったし。……あなたがいなかったら、葉歌、今頃……」

「気にしないでくれ。お詫びにも何にもならないほど、些細なことだ」
 真城の言葉に璃央は青い顔のままでそう答える。
 蘭佳も特に言葉を口にすることなく、本当に微かに微笑んだだけ。

 真城はもう一度しっかりと床に手をついて頭を下げる。

 けれど、その空気の中で、璃央だけが表情をすぐに歪ませた。

「……笑いを堪えるの、そろそろやめたらどうですか?」
「え?」
「……璃央様?」
 真城と蘭佳は意味が分からずに、璃央に視線を動かした。

 すると、それまで璃央に身を寄せていた御影がゆっくりと離れて、長い髪をふわりとかき上げた。

「笑いを堪えるなんて……人聞きが悪いわ。まるで、わたしが他人(ひと)の死ぬのを喜んでいたみたいな言い様」
「やはり……まだ駄目か……」
 璃央は悔しげに唇を噛み締める。
 それを見て、御影が余裕で目を細めた。

「どうして、わかったの?これもあなたの言う、愛の力……?」

「何年、お前と御影を見てきたと思っているんだ?肌を寄せただけでわかるさ」

「まぁ……恥ずかしくなってくるわ、そんな台詞」
 璃央の言葉にわざとらしくはにかんでみせる御影。

 再び璃央の傍に寄ると、そっと璃央の腹をなぞって掴むような動作をする。

「……っ……ぁぁ……」
 璃央の表情が苦悶で歪んだ。

 御影は嬉しそうに笑みを浮かべて、馬鹿にするように言葉を口にする。

「紳士な璃央はベッドの上と同じで、我慢我慢。……ふふ、格好良かったわよ。でも、それも終わりね。そんなに頑張らなくていいのよ?」
 御影が璃央に寄りかかるように動いたかと思うと、璃央は苦しげに声を漏らして、その場に膝をついた。

 長い睫毛を伏せて、御影は高飛車な笑みを浮かべる。
「跪かせてみたかったの。あなたを。ねぇ?わかる?上から見下ろすのはとてもとても快感なの。……支配したと、思えるからかしらね?」

「……出て行け」

「ん〜?」

「御影の中から出て行けと言っている!!」

 璃央は青白い顔を引きつらせながら、すごい剣幕で叫んだ。

 蘭佳も智歳も先程とは打って変わっての雰囲気を出している御影に驚きを隠せずに見つめていた。
 ようやく、何が起こっているのかを、二人も肌で感じ取ってくれたのかもしれない。

 ……誰も、その緊張感の中では動くことができなかった。

 真城だけが、床に転がっている璃央のサーベルに手を伸ばす。

「……まぁ……この体は気に入っていても、中の人たちがうるさくてどうしようもないから、……ほら、さっきみたいに飛び出してきたりね?不便だから、そろそろ器を変えるか何かしようかなぁ……とは思っていたけれどね。……でも」

 御影の顔に狂気が宿り、グリグリと璃央の頭を踏みつけた。

「お前に言われる筋合いは、どこにもない」
 その声は殺気を宿しており、その場にいた全ての人間に寒気を覚えさせた。

「……剣士さん」
 サーベルを握り締めた瞬間、御影は目ざとく声を掛けてきた。

 ビクリと真城の肩が跳ねる。

「どうしたの?怯えないでよ」
「……彼から、離れろ」
 真っ直ぐな目で御影を見上げ、ゆっくりと真城は立ち上がった。

「……離れたら、わたしのものになってくれる?剣士さん」
「…………」
「その瞳……ねぇ、わたし、本気で気に入ってるのよ?」
「支配し甲斐がある?」
「意地悪な剣士さん。……わたしは、本気で気に入っているのに」
 御影はゆっくりと璃央から足を離し、スタスタと真城の傍へと歩み寄ってきた。

 葉歌と同じ顔が真城のことを懸命に見上げてくる。

「真城……」
「だいじょうぶだよ、葉歌」
 立ち上がれないまでも心配そうに名を呼ぶ親友に、真城は優しく声を返した。

「羨ましいわ」

「…………」

「護ってくれる人がいて」

「……キミ、どんなに調子のいいこと言っているか、分かってる?」
 御影の言葉に対し、真城の声は明らかに怒気を含んでいた。

 御影がそっと指を立てると、ふわりと黒い風が二人を取り巻いた。
 葉歌や戒が心配するように叫んだ声があっという間にかき消される。

 けれど、真城はそんなことには全く動じることなく、御影のことをしっかりと見つめていた。

「調子がいい?」
「うん」

 御影はゆっくりと目を動かして、その後に真城の懐に入り、背中を向けてきた。
 真城もさすがにそこで動揺する。
 一体、何がしたいのだろう?
 御影は真城の腕をそっと引っ張って、真城が抱き締めるような形に持っていく。
 真城の持っているサーベルを気にも留めることなく、真城の腕をきゅっと抱きこんだ。
 真城の右腕がずきりと疼くが、御影は痛みなんて存在は忘れてしまっているようだった。

「ねぇ、剣士さん。あなた、不思議な人ね」
「え……?」
「なんだか、とても……こんなに自分のものにしたいと思うのは、……久しぶり」
「…………」
「あなた、どんなに怒ってても、すぐに剣に訴えない。いつも、本当にこれでいいのかなって考えながら闘ってる」
「…………」
「迷いがあるのに、それでもあなたの剣筋には迷いがない。……不思議……」
「……これは、話し合う機会を、くれたと……思っていいの?」
 真城は御影の耳元でそう呟いた。

 御影がふっと笑みを浮かべたのがわかる。

「わたし、人間は嫌いだけど……鼓動と熱は嫌いじゃないわ」
「え……?」
「体持たぬわたしたち、まつろわぬ者には、決して知ることの出来ない温かさ」
「キミは……」
「わたしが持つことが出来ず、……大地が好んだぬくもり」
 その声は寂しげで、真城は目を細める。

「気になってたんだ」
「え……?」

「ボクの腕を締め上げた時、キミは不思議なことを言った。……不公平だと思わないか?と」

「……そんなこと言ったかしら」
「言ったよ」

 とても優しい声で、『大地』と呼んだ。
 それを、よく覚えている。

 御影は優しく真城の手を撫でる。

「……あなた、やっぱり変な人」
「不思議から変に?」
 真城の反応がおかしかったのか、御影は少しだけ意地悪な声で更に言う。

「頭おかしいわ」
「……酷い」
「怒ってたはずなのに、わたしとこんな風に話しているし。あなたの腕を折ろうとしたわたしの話をちゃんと聞いてるなんて、……正気の沙汰じゃない」

 真城の指の節を一つ一つ確認するように御影の指が滑っていく。

「そう……?」
「あなた、憎いとか嫌いって感情、持ったことがないんじゃないの?」

「……そんなことはないけど」
「じゃあ……あなたに憎まれる人ってどんな人?あなたに嫌われる人って、どんな人?」

「…………」
「答えられないでしょう?」

「うん……ボクは、恵まれたことに、まだ……心の底からそう思う人には出会っていないから」
「わたしも、当てはまらないんだ?大切な人が死にかけたっていうのに」

「もし死んでたら、もしかしたら叩き斬ってたかもしれないけど……でも、助かったし……」
「あなた、……馬鹿なのかもね」

「え?あ、う、うん……頭はあんまり良くない」
「……馬鹿っていうのは、誉め言葉よ」

「え?」
「あなたにほだされた人間たちの気持ちが……少しわかった」

「…………」
「でも……」
 御影はそこでくるりと振り返る。

 しっかりと真城を見上げ、血が固まり始めた自分の肩に触れる。

「あなた……そのままじゃ、傷だらけになるわよ」
「…………」
「博愛も結構だけれど、そのうち疲れてほっぽりだすんだわ」

 何も言わない真城に対して、御影は眉を吊り上げてそう言った。
 まるで何かを思い出したように憎々しげに。

「ボクは……博愛なんて、そんな器用なことできてないよ」
「ええ。天然なのは良く分かってる」
 クスリと御影は声を漏らした。

 真城は不思議に思って御影の顔を覗き込む。

 すると、御影が恥ずかしそうに目を逸らした。……珍しく顔を赤らめて。

「なに?」
「……なんだか、印象が違う」
「言ったでしょう?……気に入ったの」
「だから、話してくれるの?」
「え……?」
「キミは、ボクの中に……その、誰かを見ているように……みえ……」
「気のせいよ」
 真城が言うよりも早く、御影はぴしゃりと真城の言葉を切った。

 御影は自分の腕をゆっくりと撫でながら、考え込むように目を伏せた。

 真城はそれを見つめるだけ。

 周囲に渦巻いている風が、真城と御影の髪をさらさら揺らした。

「ねぇ……剣士さん」
「……なに?」

「わたしのものになりなさいよ。そうすれば、ずっと一緒にいられる」
「ごめん」

「…………」
「ボク、一緒に生きる人は……もう決めているんだ」

「葉歌?」
「……もいる」

「……そうよね。剣士さんは人気者だものね」
 御影が寂しげに目を細める。

「……人間を滅ぼさないで、キミも一緒にいればいいじゃない」
「え……?」
「うん、そうだ。そうすればいいんだよ!」
 真城は良いことを思いついたとでも言いたげな眼差しでそう言い切った。

 相手はたくさんの仲間を傷つけた最悪の敵なのに、そんなことはすっかり忘れたように目を輝かせている。

「ちょっと待って、あなた、本当におかしいんじゃないの?」

「だって、キミは元は妖精なんでしょう?元に戻ればいいんだよ」

「…………」

「できないの?」

「あなたの中の風の子は、どうなった?」

「……え?」

「消えたでしょう?」

「…………そういえば、……どこにもいない……」

「それが末路よ。都合のいいものにはリスクが伴うの。それは当然だわ」

 御影はゆっくりと真城から離れていく。
 風がふわふわと吹く。

「全く、自分の都合のいいほうに話を持っていくなんて、頭悪そうなくせに、なかなか性格悪いわ、剣士さん」

「え……ボク、そんなつもりじゃ……」

「ええ、天然なのは分かってる」

「……あのさ……」

「交渉決裂」

「……え……」

「わたしは人間を滅ぼして、この大地とあなたが欲しい。あなたは、わたしを妖精に戻して仲良しこよしを所望している」

 御影はクルリとターンをして、こちらに向き直った。

 表情はいつものように歪んでいて、金の瞳が怪しく閃く。

「あなたは仲間を失いたくない。わたしは自分の命が惜しい。だって、長かったんですもの。ここまでになるのに……3000年かかった」

「…………」

「そうね、そうよ。あなたを生かしたところで、結局のところ、わたしの障害に、いつかなるんだわ」

 真城は殺気を感じて、サーベルを握り直した。
 御影の周囲に黒い霧のようなものが立ち込め、二人を取り巻いていた風がおさまった。

「時間の無駄だった。当初の予定通り、滅ぼしてしまえばよかったのよ……!!」

 御影は両手をクロスさせて、大きなかまいたちを発生させた。
 スパン……と音がするほど、風切りの音は鋭く、……真城はできるかもわからないのにサーベルでそれを受け止めようとした。

 真城の前に風の障壁のようなものが発生したことでなんとか防ぐことができ、二つに折れたかまいたちは真城のジャケットの袖を鋭く掠めて、そのまま壁へとぶつかった。

 激しい音が室内に響き渡り、天井の一部が鈍い音を立てて、崩れ落ちてきた。

 両の二の腕から血が出てきて、サーベルを持つ手に力が入らず、カラン……と床に落とす。
 一体、今日一日でいくら血を失ったのだろう……。
 そう考えた途端、頭がくらくらしてきた。

「……真城、大丈夫?」
 その声で、風の障壁を発生させてくれたのが誰なのか、すぐにわかる。
 立つこともできないくせに、無茶をして……。

 龍世がすぐに駆け寄ってきて、その前に智歳が立った。
 両の手のひらに炎を掲げて、しっかりと御影を見据える。
 御影がイライラするように智歳を睨みつけた。

 戒も葉歌を護るようにしながら、真城の前へと立った。

 瀕死の璃央の止血をしようと、蘭佳は必死に直接圧迫をかけ、必死にオーラを漂わせている。

「……イライラするわ」
『羨ましいわ』

「そうやって、庇いあうのを見るのは、滑稽でありながら、とても不快」
『護ってくれる人がいて』

 真城は、なんとなくそこで感じ取る。
 黒い風は、とても素直じゃないと。
 いや、素直な声を、真城が一蹴してしまったのか……。

『遊びよ。わたしにとっては全部遊び。退屈な700年よりはずっと有意義な700年。その程度だもの』

 もしも、あの時の言葉が……こうなのだとしたら?

『構ってもらえない700年よりも、少しでも、自分の存在を思い出してもらえる700年であるのなら』

 誰に?
 ……『大地』にだ……。
 博愛を持って全てを育む存在。
 黒い風が、焦がれ育てた想い。
 ……けれど、愛は人間へと注がれる。
 風はただ漂うだけ。
 大地を吹きすさび、通り過ぎ……けれど、決して留まることのない……。
 人間は、大地に育てられ、けれど、大地を冒す……。

『あなた……そのままじゃ、傷だらけになるわよ』
『…………』
『博愛も結構だけれど、そのうち疲れてほっぽりだすんだわ』

 辻褄が合わないだろうか?
 真城の中に見ていた誰かが……なのだとしたら。

 真城は動かない両腕をぶらりと下げたまま、ゆっくりと歩き出す。

 ……駄目だ……。

 憎しみの暴発は悲しすぎる。

 せっかく、綺麗な想いがそこにあったのに。

 黒い風は、自分に話してくれた。

 それは……自分にでなくて、知って欲しい人がいたからではないのか?

「待って……」
 真城は痛みを堪えて、必死に声を出した。

 けれど、その声は思った以上に音にならない。

 先程のかまいたちの衝撃で、天井から砂埃や石の欠片がボロボロと落ち始めていた。


 そんな中、誰よりも早く御影に手が届いたのは、……璃央だった。


 ……先程まで横たわっていた場所には蘭佳が悲しげな光を瞳に湛えて座り込んでいる。


「……器を変えれば、……御影の中から、出て行ってくれるんだろう?」
 璃央の苦しげな声が低く響き、みんなが立ち尽くしている中、璃央は素早く御影に口づけた。


 それは……割れ物を扱うように優しく、それでも……葉歌から欠片を取ろうとした黒い風のように、強引な手だった。


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