第8章 遥かなる愛の末に…… 『御影様!世界にはこんなにもたくさんの薔薇の花があるそうですよ!!』 婚約して1年ほどたった頃、璃央が最新の植物図鑑を持って御影の屋敷に訪れたことがあった。 その植物図鑑には一つ一つの花の絵も丁寧に描かれている出版数の少ない図鑑だった。 『赤、白、黄色、ピンク……青なんてのもありますよ。それに、薔薇には色んな品種もあるそうで、ほら、これなんて、全然形が違います』 璃央がそう言って笑うので、御影もベッドの上でゆっくりと体を起こしてそれを見た。 『薔薇だけでこんなにあるなんて、すごいですね。あ、そうだ!僕が大人になったら、屋敷にバラ園を造らせましょう。それで、そこに世界中の薔薇を栽培するんです。いい……アイデア……で…………』 そこで璃央ははっとして口を押さえて言葉を飲み込む。 『大人になったら』。 大人になれないかもしれない御影の前で、そんなことを言ってしまったのを失言だとでも思ったのだろう。 それに気がついたのは璃央らしくなかったけれど、その後にフォローの言葉を繋がなかったのは不器用な璃央らしかった。 御影はそんなことは気に留めていないような表情で笑い、図鑑をパラパラ……と捲っていく。 『こんなにいっぱい……。でも、青なんて綺麗なのかしら?この絵では綺麗に見えるけれど……』 『うぅん……実物が見たかったら探してもらいますけど?』 『え……いいえ』 『いいんですか?』 『…………。璃央様の造るバラ園を楽しみにしています……』 御影はそう言ってすぐに視線を図鑑に落とす。 璃央は困ったように目を細めたけれど、それには御影は気がつかない。 『あ……これ、花弁が小さくて薔薇に見えないな。可愛い〜』 『……あ、これ、隣の国が原産みたいですね。今度探してきましょう』 『え……だから、さっき……』 『来週父について、あちらの国に行くようなんです。どうせ、子供の僕は挨拶だけしかやることもありませんから、暇な時間に買ってきますよ』 璃央はそう言い切ると、すぐに御影の手より早くページを捲った。 薔薇のページが終わって、別の花のページになると、璃央はそっと顔を上げて笑った。 『御影様、薔薇以外に好きな花は?僕は、鈴蘭やスノウドロップなど白い花が好きだなぁと……思いました』 少々つり気味の目に優しい笑顔。 この人は、年下なのに、どうしてこんなにも優しい人なのでしょう。 そう、御影は心の中で呟いた。 だ……め……。やめて、璃央。 ポロリと、御影の目から涙がこぼれた。 心の中の言葉は声にならない。 ただ感じるのは唇のぬくもりだけ。 御影はそっと唇に触れて、目を開けた。 御影の心の中がふわふわと軽くなっていく。 昔に……『御影』の記憶に苛まれるようになるよりも前に、戻っていくような気がした。 心の色が黒から白へと、変わっていく。 「こんなに馬鹿だと……思わなかった……」 『御影』が隣でそう呟いた。 きゅっと御影の手を握る手に力を込め、悔しそうに形のいい爪を噛んだ。 「璃央……様……」 御影と『御影』の魂が結託し、不安定だった魂が調和し溶け合った。 それによって、それまで混在していた黒い風の魂は完全に分離してしまったのだ。 まるでそれを見透かしたかのように、璃央は葉歌から欠片を奪おうとした黒い風のごとく、御影にキスをし、オーラを注ぎ込んで、中の黒い風を引っ張り出そうとしている。 けれど……そんなことをしたら、下手をすれば、璃央が……。 どうして……? どうしてここまでするのだろう? 高貴で物腰が良くて賢い璃央が、どうして、こんな容姿しか取り柄のなさそうな自分にここまでしてくれるのだろう? 自分にはなんにもないのに。 こんなに血まみれになって、こんなに痛みを堪えて。 どうして、この人は……? 約束を……守ってくれると思っていたのに。 この不器用な人なら、悲しくて切ない約束でも果たしてくれると……御影は信じていたのに。 『御影様……』 「璃央……様……」 『申し訳ありませんが、約束は果たすことができません。何故なら、あなたはまだ誰も殺していないから』 「……璃央の……バカ……」 御影は目を細めて、零れる涙と一緒に搾り出した。 バカ……。そうだ、こういう時、相手にはバカというのが正解だ……。 よく、『御影』もあかりやキミカゲに言っていた。 『御影……生きて。この世界はとても広い。僕は、あなたにその広い世界をどこまでも見て欲しいんだ』 「あなたのいない世界なんて……」 『……僕が案内してあげられないことが心残りだけど……』 「いや……。嫌です!こんなの……嫌……。やっと……夢が叶うと思ったのに……」 『ごめんね……。御影。本当は、もっとスマートに護ってあげたかったのだけど』 完全に心の中が白一色になった時、璃央はゆっくりと唇を離し、御影の髪をいとおしそうに撫ぜた。 周囲にいた者は蘭佳以外、璃央のしようとしていることがわからなかった。 ただ、呆然と彼の御影に対する口づけを見つめるだけ……。 璃央はゆっくりと御影から離れると、すぐに蘭佳に視線を動かした。 璃央の周囲に黒い霧がまとわりつく。 「璃央様……先程のは……冗談ですよね……?」 蘭佳は悲しそうな目でそう尋ねる。 璃央は笑顔で首を横に振った。 「僕は嘘はつくけれど、冗談はそれほど言わないんだ。知っているだろう?」 「そんな……それじゃ……そ、……そんなの、納得できません……」 蘭佳の目に涙が溜まる。 ブンブン……と首が振られ、その反動で雫が宙を舞った。 「……護れるのは、蘭しかいないんだ……。蘭しか……」 璃央は目を細めて、ゆっくりと腹の傷に触れた。 霧がふわふわと、璃央をからかうように周囲を漂う。 パラパラ……と砂埃と石の欠片が落ちてくるのを見上げ、璃央はすぐに気を取り直す。 「崩れそうだ。逃げたほうがいい」 冷静な声でそう言い、ふぅ……とため息を吐き、その場に膝をつく。 すると、御影が璃央の肩に触れて、すがりつくような顔をした。 黒い霧が、御影の体に戻りたそうに漂う。 璃央は唇を噛み締めて、パン……と御影の手を払った。 御影はそれで完全に自失してしまったのか、茫然と璃央を見つめるだけになってしまった。 「蘭……頼む」 目を閉じて、気だるそうに璃央はそう言う。 蘭佳はすぐに御影に歩み寄り、優しく肩を抱き寄せた。 茫然としている御影は、ほとんど逆らうこともなく、蘭佳の導くままに歩みを進めてゆく。 「蘭……すまない……」 「御影様のこと……緋橙のこと、お任せください」 「……ありがとう……」 璃央は振り返った蘭佳に対して穏やかな笑顔でそう声を搾り出した。 蘭佳は切なそうに目を細め、唇を噛み締め、ポツリと呟く。 「……そんな顔、卑怯です……」 涙を拭い、すぐに御影を連れて部屋を出て行く蘭佳。 それを見て、真城はようやく璃央が何をしようとしているのかを察した。 もしかしたら……気がつくのが一番遅かったかもしれない。 真城は痛む腕をダランとしたまま璃央に歩み寄り、膝をついて璃央を見据える。 「……こんなの……君は、それでいいの?」 「また、その問いか。剣士殿はそればかりだ」 「だって……こんなの、納得いく訳ないだろう?!」 璃央は自分を犠牲にして、全てを終わらせるつもりだ。 こんなのはおかしいと、真城の心が軋む。 言葉があるのに……心があるのに。 譲歩すること、譲り合うこと。 ……何にもなしに、こんな形での決着になるのはおかしい。 納得いかない。 変だ。 ……だって、真城は、黒い風の心を、少しだけど垣間見た気がするから。 だから、納得できない……。 もしかしたら、手を繋げる相手を、はじめから無視してしまうような……それと同じじゃないか……。 「剣士殿は甘いんだ」 「納得できないよ、こんなの……!」 「剣士殿の心の自己満足のために、僕は闘ってきたんじゃないんだよ!」 璃央は勢いよく真城の襟を掴んで、グッと持ち上げる。 真城の腕がズキリと疼いた。 「……大切な人を護ること。それが僕にとって、全てだった。それ以上も以下もない。見定めろと、先程も言ったはずだ。……今、この状況で!他に手はあるか?!あるなら、言ってみたまえ!!」 「っ……」 「……ないだろう……」 部屋が揺れている。 塔自体が崩れるかは分からないが……この部屋はもう危ない。 そう感じるくらいの揺れと、ひび割れ……そして、天井からの小さな石の塊の落下……。 先程も璃央は言った。逃げなくてはならない。 真城の目から悔し涙がこぼれる。 璃央の言っていることが正しい気がしてしまう。 本当はこんな理屈、正しくなんてないはずなのに、正しいと……この状況がそう言う。 龍世が歩み寄ってきて、真城の肩をポン……と叩いた。 「行こう、真城……。これ以上は、このお兄ちゃんに失礼だと……オレは思うよ……」 「……でも……」 「剣士殿は甘い……」 「…………」 「……けれど、僕もそれを信じた頃があった」 璃央は少しだけ口元を緩めてそう言った。 ボロボロと涙がこぼれる。 それでも、真城は璃央から目を離さなかった。 少しだけ。時間を。少しだけでいい。 自分に、今のこの状況と、彼の理屈を飲み込むだけの時間を。 ……そうじゃないと、自分は……。 彼は自分に笑いかけてくれた……。 だから、もう少し……もう少し……時間を……。 けれど、土埃が起こり、部屋の隅の柱がバキリと音を立てる。 璃央を覆う黒い霧が少しずつ濃さを増していく。 一番宿りやすかった御影の存在が消えたことで、諦めたように璃央から離れなかった。 「剣士殿。きっと……もっと……そう、子供の頃に会えていたら、良い友になれたと思う」 「……駄目だ……。やっぱり……駄目だ」 真城はフルフル……とかぶりを横に振るばかり。 戒が葉歌を連れて、こちらに歩み寄ってきた。 葉歌が心配そうに真城のことを見ている。 「真城……」 「……大切な人は、護るべきだ」 「璃央……」 「戒、そう……思うだろう……?」 璃央は戒に向けてそう言うと、腹を押さえて俯いた。 柔和だった表情が強張ったように……見えた。 もしかしたら、黒い風の浸食が始まったのかもしれない。 智歳も真城の元に歩み寄ってきて、龍世と二人で真城を立ち上がらせようとするが、智歳の背が足りずに上手くいかなかった。 「璃央……確かに、僕もそう思うが……。これだと、残された側は……とても、辛い……ぞ」 「…………」 「辛いんだ……独りは……。特に、自分だけが死に損なってしまったという思いの中で生きるのは……死ぬより、辛い……」 戒は過去を思い起こすようにそう呟く。 葉歌がそれを心配するように見つめ、璃央はその言葉を噛み締めるように呼吸を繰り返している。 「……光を……」 その言葉は真城を見据えてだった。 「え……?」 「御影に……光を分けてやってくれ……」 「…………」 「彼女は……自分の目映さも、窓の外の美しさも……まだまだ知らないんだ」 璃央はそう呟いた後に吐き気をもよおしたかのように、口元を押さえた。 璃央の澄んだアイスブルーの瞳が、時折怪しく揺れる。 「もう……僕には……無理だから……っ」 真城は苦しそうに耐えている璃央を見つめる。 もう……他の皆は心を決めた顔をしている。 ……自分だけ……そこに行けない。 このままでは、みんな巻き込んでしまうのに。 ここには……真城を置いて逃げられるような人間はいない。 『見定めたまえ』 …………。 真城はこぼれるままの涙を必死に肩で拭って、立ち上がった。 「ごめん……」 「君が謝ることじゃない。……僕の、力が足りなかった。それだけのことさ」 璃央はようやく決意した真城を見上げて笑みを浮かべると、そのまま床に突っ伏した。 助ける手立ても……彼を連れ帰る手段もない……。 ボクに……力がなかったから……。 いつか強くなるのだろう。セージもそう言ってくれた。 けれど……いつかなんて、……そんな言葉はとても残酷だと思った。 自分は……今こんなに悔しくて悲しいのに……。 立ち上がった真城の顔を、葉歌がそっとハンカチを取り出して拭う。 戒に抱き上げられているのが、もう普通になってしまったようにさえ思う……。 「腕……大丈夫?」 「……うん……」 「わたしの体力が回復したら、すぐに治してあげるから」 「……うん……」 真城は葉歌と戒に導かれるままに歩き出した。 龍世は智歳のことを待って、扉を押さえたまま足踏みを繰り返した。 璃央はもうほとんど虫の息で、智歳はそれを見下ろしているだけ。 「俺は……お前のこと、許さないからな……」 智歳はそう呟いて、また少しの間、璃央を見下ろす。 すると……ピクリと璃央が反応した。 意識があるのかは分からないが、智歳に向かって言う。 「……すまなかった……な……」 「テメー、謝るならはなからやるなって言ったのは、誰だよ……」 智歳は悔しそうにそう呟き、そっと頭を押さえて俯いた。 璃央はその後、一言だけ言って、目を閉じた。 「……お前は……あの剣士殿みたいな、大人になりなさい……」 「……バッキャロ……」 智歳はそれだけ吐き捨てると、崩れてきた石を思い切り払って、こちらに歩いてきた。 その目には涙があったけれど、龍世はそれを見て見ないフリをする。 どうしようもない状況だ。 世の中にはどうしようもないことがたくさんある。 ……これも、その中の一つだ。 誰のせいにもできないと、とっても苦しい。 けれど……今回のことは、きっと、あの黒い風が全部悪いってことになるんだ。 そう考えないと、みんな……辛いから……。 だけれど……真城だけは、誰のせいにもしないで、自分のせいに……するんだろうな……。 龍世は心の中でそう呟いた。 智歳は部屋を出ると、そのまま勢いをつけて階段を駆け下りていってしまった。 ……確かに悠長にしている場合ではないのだけど……。 龍世もすぐに智歳の後を追おうとした……けれど、その時、彼の鼻を変わった匂いがくすぐった。 龍世は慌てて振り返る。 閉まりかけた扉の間から、金髪で和服の青年と……白に近い紫色の髪をした少女が璃央に歩み寄っていくのが見えた。 龍世はすぐにその人の名を叫んだ。 髪の色も……服も変わっていたけれど、あれは……。 「こーちゃん……!!」 その声で、少女がこちらを向く。 ……ニコリと、笑みを浮かべる少女。 その笑顔は、ほんの1週間前と変わることなく……。 龍世はすぐに扉が閉まるのを止めようとした。 ……けれど、扉は勢い良く閉まり、その後すぐに大きな物音が響き、どんなに押しても、扉を開けることができなかった……。 「こーちゃん!こーちゃん!!」 龍世は声の限り叫んだ。 力いっぱい扉を叩き、押す。 けれど、びくともしない……。 何度も何度も声を張って、何度も何度も拳から血が出るまで扉を叩いた。 それでも……びくともしなくて、扉の中からは何の返答もない。 「見間違い……?あ……オレ、寝てないもんなぁ……腹も減ってるし……そっか……見間違い……」 龍世が言い聞かせるように呟いていると、今度は階段にもひびが入り始めた。 龍世はそれを見て、慌てて下を目指して駆け出した。 これが……夢幻かどうかがわかるのは……まだ、先の話……。 |
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