片恋の章 東桜、30歳(終戦より4年後の計算)。 あの塔の一件から行方知れずとなる。 だが、今はあんなに嫌っていた母国に戻って……? 終戦から、3年後の話。 前章よりも1年ばかり前に時間軸は戻る。 「……でありますから、これからは更に戦争で荒廃してしまった街や国の復興に力を入れていくべきかと思います」 ああ……やっぱり、いい声だ。 東桜はまどろみの中で、そんなことをぼんやり考えながら、コクリコクリと船を漕いでいた。 彼女の声が良すぎるのだ。 東桜にしてみたら、これは眠りを誘う女神に出会ったようなものだ。 「……と、いうことなんですが、紫水国代表、ちゃんと聞いていますか?」 澄んだ彼女の声が、少しばかり鋭さを加えて、そう言った。 東桜はゆっくりと顔を上げ、すぐによだれを拭く。 「ああ、いいのではないか?俺は、緋橙国代表のお嬢さんは信頼してるから構わない」 「……お嬢さんはやめてください」 「俺にとっては、いくつになっても、あなたはお嬢さんなのでね。気分を害したならすまない」 東桜は短い髪をかき上げて、にぃ……と笑みを浮かべる。 困った顔で、昔よりも髪が長くなり、スーツ姿の蘭佳がこちらを見つめている。 彼女だけが、国の象徴である色を纏っていないのは、彼女があくまでも代表であり、実質的な権限を示す人間は他にいるという、彼女なりの主張なのだと思う。 相変わらず、健気なことだ。 ……もう、21か。 相手がいないなんて、勿体無い。 いっそのこと、攫ってしまいたいぐらいだ。 東桜はザラリと音を立てるヒゲを撫でて、そんなことを考えていた。 一応公式の場ということで、紫と水色を基調とした貴族服をだらしなくはあるが身に纏っている東桜。 蘭佳はため息を吐いて、すぐに席に着く。 黄黒国代表として来ていた智歳もそのやり取りを見つめて、はぁ……とため息を吐く。 「……で、他の国の方々、異論はありますかな?我々は大きな罪を犯したのです。巻き込まれただの、なんだのという言葉を認めるには、いささか時がかかりすぎた。……わかっておいでですね?」 東桜は周囲を睨みつけるように見回す。 誰も逆らいはしない。 今、全ての秘石は紫水国にある。 悪用せずに、ただ研究対象として預かっているだけなのだが、そんなことは表向きにする必要はない。 あの秘石は、絶対的な力を持っているのだ。 それだけ、その事実さえあれば十分。 紫水は、絶対にあの力を武器として利用することはない。 「……それでは、今回はこれまでということで」 東桜はそこでにっこりと笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。 クルリと踵を返し、くあぁ〜っとあくびをする。 他の国の代表も、のたくたと立ち上がって、会議室を出て行く。 大体の人間がいなくなったのを確認してから、東桜は今度こそ思い切り伸びをした。 「ん〜……!ああ、疲れた」 「……どうして、あなたが紫水の代表なのか、私には納得いきません」 呆れたように、澄んだ声が後ろでした。 すぐに東桜はくるりと振り返る。 「そりゃ、あれだ。一応、俺が一国一城の主だからだ」 「…………」 「……冗談だよ」 「はい。面白くない冗談ですね」 「……嫌な子だ」 「それはどーも」 蘭佳は全く表情を崩さない。 東桜がゆっくりと短く切りそろえた髪をガシガシ掻き、その後に蘭佳に詰め寄るように近づく。 蘭佳は全く同じスピードで、後ろへと下がった。 「……全く、お前さんは」 「あなたを、少しは尊敬するようにはなりましたが、その程度でしかありませんから」 蘭佳はゆっくりと踵を返し、もうほとんど癖になってしまっている仕草をした。 不安そうに腕を抱き締めて、ため息を吐く。 ……その背中は、彼女の優秀さや態度とは異なり、とても頼りなく見える。 「……俺のところに来ないか?」 東桜は目を細めて、そう言った。 珍しく、真面目な声で。 「……そういうことは、誰もいない時に言ってください」 「誰もいなかったら、返事が変わるか?」 「……さぁ、わかりませんけど……」 その時、智歳がゴホンと咳をして、ゆっくりと立ち上がった。 黄色と黒の王族服が似合うほどに、智歳の背は見事に成長した。 背は蘭佳を追い抜いて、東桜の顎より上ぐらいに頭のてっぺんが来ている。 「お子ちゃまはさっさと出ていきな」 「国の代表に、年は関係ないだろ」 「まぁな。だが、今はただの昔の連れでしかねぇだろ」 東桜はおかしそうに笑って、智歳を見下ろす。 智歳は少しだけ挑戦的な眼差しで東桜を見上げる。 「……あと三年したら、トーオなんて抜いちまうんだから、調子こいてられるのも今のうちだ」 「背が止まらないようにな。成長痛で、腰やら膝やら痛くはないか?」 馬鹿にするように東桜が言う。 智歳は悔しそうに唇を尖らせた。 どうやら、痛いらしい。 そりゃそうだ。 4年分、遅れていた成長が来た。 智歳は3年で、7年分の成長をしたも同じなのだ。 「智歳、国の調子はどうですか?」 蘭佳がすぐに話題を逸らした。 智歳はゆっくりと蘭佳に視線を動かす。 蘭佳は3年前よりも穏やかな笑みを浮かべて、智歳を見つめていた。 いつも無表情だった彼女も、少しは……成長したのだ。 東桜は顎を撫でる。 ……なんとなく、嫌な感じだ。 「そういうことか」 「え……?」 東桜の呟きに、蘭佳が不思議そうに首を傾げる。 東桜は智歳を見下ろし、すぐにボリボリと頭を掻いた。 「ヤダヤダ、自分本位な馬鹿ばかりに惚れやがって」 「……何を言うのですか。璃央様を愚弄するつもりですか?!」 「そういうとこ、変わってないねぇ」 「蘭の中では、アイツは永遠にヒーローなんだから仕方ないじゃん」 智歳がおかしそうに笑い、すぐにふいと踵を返してスタスタと歩き出した。 「ん? もう帰るのか?」 「……ああ。そろそろ出ないと、次の仕事が滞るのでね」 「王様は忙しいねぇ」 「忙しくなきゃ、終わらないんだよ、何もかもな」 智歳はそう言い切ると、扉を押し開けて出て行ってしまった。 東桜はボリボリと頭を掻き、ぽつりと呟く。 「アイツも相変わらず、とっつきにくいねぇ……」 「大変なのですよ。傀儡(かいらい)にされないためには、地盤が必要ですから」 「ああ、まぁ……そうなんだがな」 目を細めて、ため息を吐き、東桜はすぐに胸元に手を突っ込んだ。 どうにも、和服の時の癖が抜けない。 ……けれど、その癖のおかげで思い出した。 内ポケットに入れてあった手紙を取り出し、すぐに蘭佳に手渡す。 「 ? なんですか?」 「重要なお知らせだ。極秘の。……でも、お前は喜ぶかもな」 「え?」 「嘘をつくのも、結構大変だ」 「あの……」 東桜は蘭佳の手に手紙を置くと、すぐに蘭佳の体を引き寄せる。 額にゆっくりと口づけ、颯爽と後ろに下がった。 蘭佳の平手打ちが飛んできたが、器用にひょいとかわして笑う。 「俺にしては、結構我慢の子なんだ。これくらい、許せよ」 「あ……あなたは……」 蘭佳の顔が予想に反して、真っ赤に染まっている。 「……どうした?顔が赤いぞ」 東桜はからかうようにそう告げた。 蘭佳は顔をしかめて、慌てて俯く。 不覚……とでも言いたげだ。 彼女も、少しは自分のことを意識するようになってくれたらしい。 先程の智歳への嫉妬は、しばらく棚上げしておくとしよう。 この女は、子供に甘い。さすがに、先程のは敏感に反応しすぎた。 自分としたことが大人気ない。 蘭佳がすぐに手紙を開いた。 驚いたように蘭佳は目を見開く。 「これ……本当ですか?」 「俺は、冗談は言うけど、そうそう嘘は言わんよ」 わざと、彼を意識した言葉でそう言った。 さて……どちらがましなのだろう。 嘘をつかない人間と、冗談を言わない人間。 「……でも、その……」 「まぁ、……それなりに回復したから、そちらの国に帰したいわけだ。あとは、そっちで療養したほうが、何かと都合がいいだろうから」 「…………」 「大変だったんだぜ、二人も人間抱えて、あの塔脱出するのは」 「どうやって……?」 「風の石の力を使ったんだよ。……ったく、俺は馬車馬かなんかかよ。嬢ちゃんは可愛い顔して、人遣い荒ぇし」 「……香里もいるのですか?!」 「ああ。まだ、内緒だぜ?」 「どうして?智歳に教えてあげなくては……」 「……香里がいねぇと、璃央がくたばる」 「え……」 「正気は取り戻しつつあるが、衰弱しやすい状態でな」 「…………」 「だが、お前さんのハッシュドビーフが食いたいと言ってた」 「……そうですか」 「つーことだから」 「はい……承知しましたとお伝えください。暮らせる場所も、手配してお待ちしていますと」 「了解。じゃ、確かに」 東桜は笑顔でそう言うと、ドサクサに紛れて蘭佳の胸に触れた。 すぐに激しい平手打ちが飛んでくる。 痛々しい音が、室内に響いた。 「……へへ、まぁまぁ……。やっぱり、いいなぁ。女は胸がでかいほうがいい」 頬を押さえながらもそんなことを言い、東桜はスタスタと扉に向かって歩き始める。 蘭佳の殺気のような視線を背中に感じた。 「……前言撤回です」 「んぁ?」 「あなたみたいな人、やっぱり、私は尊敬しません!」 珍しく、蘭佳のうわずった叫び声。 東桜はくっと喉を鳴らして、一人笑むと、すぐに部屋を後にした。 このくらい許せよ。 闘う機会が減って、自分は相当退屈しているんだ。 そう……このくらいで、そんなに怒るな。 ……仕方がない。また、そのへんで、女でもひっかけて帰るか。 東桜は歩きながら、そんなことを心の中で呟いた。 蘭佳、22歳(終戦より4年経過の計算)。 国内で大きな権限は持たないが、緋橙国代表として、国際的な問題を担当している。 黄黒国復興の補助的な役割を果たすように促したのも、彼女の進言だったらしい。 あとは幸せになってくれればよいのだが……? 蘭佳はゆっくりと璃央の頭を撫でると、そっと立ち上がった。 苦しそうに眉を歪めて、寝息を立てている璃央。 蘭佳はそっと目を細めて、切なげに唇を噛み締めた。 生きていてくれてありがとう……。 そんな言葉が心の中を駆けるが、それでも、正気を失ってしまっている時の彼を見るのはとても辛い。 ……ようやく眠った……。 しばらくは、起きることはないだろう。 こんなことを、3年も繰り返していたというのか。自分の知らないところで……。 そう思うと泣けてくる。 自分は、彼のためなら何でも出来るのに……。 ふと浮き出てきた涙を蘭佳はそっと指で拭った。 「蘭ちゃん?」 この3年で智歳と同じく7年分の成長をした香里が、心配そうに蘭佳の顔を覗き込んでくる。 ……忘れていた。香里もこの部屋にいたのだということを。 「……ご、ごめんなさい。蘭ちゃんが、璃央様を好きなのは、分かっていたんですけど……。やっぱり、璃央様は、この国が合うと思ったから……私が無理を言ったんです」 「いいえ」 「…………」 「これでよかったんです」 蘭佳は優しい笑みを浮かべてそう言うと、そっと香里の手を取った。 愛しそうに香里の手を包み込み、蘭佳はぽつりと漏らす。 「……あなたが、生きていたこと。私は、とても嬉しく思っています」 「蘭ちゃん……」 「そうだ。以前に欲しがっていた服、いくらか要りませんか?今のあなたなら、サイズも以前ほど差はないし」 心配そうな目をしていた香里の表情が、蘭佳のその言葉で一気に華やいだ。 「本当?!」 「ええ、本当よ。いらっしゃい」 「はい♪」 香里は無邪気な笑顔を浮かべて、蘭佳の手をきゅっと握り、跳ねるようについてくる。 その動きがあまりにも愛らしくて、蘭佳の表情はまたほころんだ。 「璃央様、お手をどうぞ。足元、気をつけてくださいね?」 「……ああ……」 それから数日後、ぼんやりとした表情で、璃央はこくりと頷くと、白と青の金属でできたステッキを握る手に力を入れて立ち上がり、蘭佳の手を支えにして、馬車を降りた。 香里がその後に続いて、両足をそろえて着地した。 「ここは……?」 璃央が不思議そうにそんな声を発し、ぼんやりと廃墟と化してしまった御影の屋敷を見上げる。 ポケットから鍵を取り出すと、蘭佳は門についていた錠にそれを差し込み、カチリと開けた。 錠の外れた門は、キィ……と音を立てて開いてゆく。 璃央が何かに誘われるように、カチャカチャとステッキの音を立てながら、中へと入っていくので、蘭佳も香里もそれを追いかける。 蘭佳は目を細めて優しい声で言う。 「覚えてらっしゃいますか?御影様のお屋敷です」 「み……かげ……?っ……ぅ……つ……」 御影という名に反応するように、璃央は苦しげに眉根を寄せ、頭を抱える。 璃央の体から微かに黒い霧が湧き出てきた。 璃央はそれを必死で抑えようとしているのか、何度も呼吸を繰り返し、膝をつく。 その様子を見て、蘭佳は動揺を隠せなかった。 これは一体……どういうことか……? 香里のことを見ると、すぐにそれに答えてくれた。 「……璃央様、御影様の記憶だけ、すっぽり抜け落ちてしまってるんです……。それで、思い出そうとすると、いつも……こんな風に……」 「そう……」 蘭佳は眉をひそめて、彼を見つめることしかできない。 璃央が足掻くように地面を叩き、ゆっくりと立ち上がる。 「はぁ……はぁ……。じゃ、邪魔をするな……」 ステッキを支えにするようにして立ち、すぐに一人で歩き始めた。 カチャカチャ……とステッキの音が周囲に響く。 「邪魔をするな……邪魔だ……邪魔なんだ……この黒い霧が、邪魔だ……」 ブンブンと手を振り、霧を払おうとしている。 けれど、その程度で黒い風の霧が払えるわけもなく、黒い霧は璃央をせせら笑うかのように、少しだけ揺れて璃央の体に戻るを繰り返している。 「見えない……前が、見えない……。見えない見えない見えない……!」 中庭のほうへと歩いていきながら、璃央の振るう手はどんどん勢いを増してゆく。 元々足に力が入りづらく、ステッキを頼りにしている璃央の体が、その勢いに負けて傾いた。 グラリとゆっくり傾いて、糸がプツリと切れたように倒れこむ。 慌てて蘭佳は璃央に駆け寄った。 すぐにその場に膝をつき、璃央の体を支えようとした。 「大丈夫ですか?」 「蘭……見えないんだ……」 「え……?」 「何度も泣きながら僕の名を呼んでくれているのに、その人の顔が見えない……。それが、……僕はとても悲しい……」 「……璃央……様……」 「どうすればいいんだ……どうすれば……? 教えてくれ、蘭……。どうすれば、彼女が泣かずに済むのか……」 以前ならば、決して見せなかった情けない表情と、情けない声……。 璃央は、黒い風との闘いで、疲れてしまっている。 それが余計に拍車をかけてしまっているのかも知れない。 蘭佳はゆっくりと璃央の体を抱き寄せ、抱き締めた。 ごめんなさい、抱き締めずにはいられない。そんな言葉が心を過ぎる。 自分は、彼の、年甲斐もなくしっかりとした人間性に惹かれた。 だからこそ、今のこの状態は、とても辛い。辛いと感じながらも、自分の母性がくすぐられる……。 「……蘭ちゃん……」 香里の声が聞こえたけれど、蘭佳はそのことは気に留めなかった。 「……代われればいいのに」 「…………」 「どうせ叶わぬ想いなら……、それであなたが幸せになれるのなら、私が代わって差し上げたい……です」 蘭佳はゆっくり体を離すと、璃央の頬にそっと触れた。 璃央がくすぐったそうにピクリと体を動かす。 「……駄目だよ……」 すぐに璃央の声がした。 璃央の表情は相変わらず覇気がないが、その声はとても優しかった。 「蘭は、幸せにならなくちゃ、駄目だよ」 「璃央様……」 その言葉で、蘭佳の目から涙がこぼれた。 彼は……いつもこうだった。 自分は必死に彼を護ろうとしているのに、彼はいつもこうやって心配してくれる。 それが、彼特有の鈍感さによって、少しずれた心遣いだとしても、その優しさに、自分はいつも惹かれた。 璃央が再びステッキを支えにして立ち上がる。 何かに、気を取られたように視線は真っ直ぐどこかを向いていた。 蘭佳は再び指で涙を拭い、すぐに立ち上がる。 そっと香里が蘭佳の背中をさすってきた。 「大丈夫?」 「……ええ、大丈夫。私らしくなかった……」 「蘭ちゃん、そういうものですよ」 「え?」 「恋って、そういうものです。……理性で、物を考えていては、いつまで経っても、感情が前に出られません」 「……そんな、ものですか……」 「でも……そこが蘭ちゃんらしくて、なんだか勿体無いなぁと思いつつ、可愛いなぁとも、不謹慎にも思いました」 横にいる香里を見下ろす。 背や面立ちだけではなかった。 彼女は、この3年で……考え方まで、大人になった……。 まさか、年下の子に、こんなことを言われてしまうとは……。 思えば、自分の中での時は動いていない。 璃央が目の前から消えた、あの日から、時が動いていなかった。 ……このままでは、追いつかれてしまうな……。 そんなことを心の中で蘭佳は呟いた。 「……ピンクの薔薇だ。すごい……。手入れも何もされていないのに、きちんと残っているなんて……!」 璃央の声が、中庭の更に向こうの……緑が鬱蒼と繁った花壇から聞こえてきた。 蘭佳も香里も急いでそこへと駆け寄る。 璃央が頭に手を当てて、群生しているピンクの薔薇を見つめていた。 「ああ……御影が喜ぶ……。まだ、この屋敷の薔薇が色づいているのを知ったら……」 璃央は忘れてしまったはずの御影の名を口にし、嬉しそうに薔薇の花に手を伸ばす。 すぐに璃央の周囲に黒い霧が漂い始める。 「そうだ……。御影だ」 璃央はようやく辿りついた答えを喜ぶように、口元を吊り上げる。 蘭佳は様子を窺うように璃央の顔を覗き込んだ。 黒い霧が彷徨うように璃央の周囲を漂っている。 「蘭……やっと、思い出したよ」 「…………」 「こうしてはいられない。御影を、迎えに……ぐっ……」 生き生きとした笑顔がすぐに曇ってしまう。 黒い風が、璃央の体の中へと染み込むように消えていく。 また……彼は闘っているのだ……。 「香里」 「うん、だいじょぶ、任せてください」 蘭佳の声にすぐに反応して、香里は璃央の肩にそっと触れる。 黒い風を払うことはできないけれど、璃央が正気を失うことだけは防ぐことができる。 黒い風に囚われると、璃央の体はひどく消耗してしまうのだ。 それは……彼の体が、黒い風と相性が悪いことを示している。 「……すまない……香里……」 「謝るのはいいから、早く良くなってください。……じゃないと、私、許しませんからね」 笑顔で香里はそんなことを言う。 璃央は苦しそうに呼吸を繰り返しながらも、香里を見ておかしそうに笑った。 「……プリンセスは……手厳しいな……」 「はい」 香里はまたもや笑顔。 蘭佳はそんな二人のやりとりに、そっと目を細めた。 それから半年後。 璃央はなんとか黒い風を自分の体から追い出し、御影の元に訪れる準備を整えていた。 結局、黒い風に蝕まれてしまった器官で治らなかった部分もあり、その最たるものが足だった。 歩くことが不自由なことだけは、どうしても治すことができなかったのである。 「あまり荷物が多いと……璃央様も大変ですよね。やはり、途中まで馬車でお送りしましょうか?」 「……ああ、そうしてもらえると、助かる」 「ただ、塔は山中ですので、お一人で本当に平気ですか?もしよければ、私が……」 「いや、蘭にそこまでさせるわけにはいかないよ。忙しいんだろう?」 「……はい……。ですが、大丈夫ですよ、1週間くらい……」 「1週間空けられるのであれば、その1週間は、自分のために使いなさい」 「…………。承知しました」 「君は、聞きわけが良くて好きだよ。香里は最近扱いづらくてね」 璃央はにこりと笑んでそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、香里の寝顔を見つめる。 あどけない可愛らしい顔が、そこにはあった。 「香里も、用があるようですから。ついていかせてあげてください」 「……ああ……。しかし、智歳が先じゃなくていいのかい?」 「怒られるから嫌だそうですよ」 「はは……なるほど」 蘭佳のその言葉を聞いて、璃央は楽しそうに表情をほころばせた。 その表情を、とても切ない目で見つめる自分と、ようやく……彼が幸せになる時が来たと喜ぶ自分がいる。 ふと思いついたように、璃央が目を細めて顎に手をやった。 「……そうだ。もしよかったら、剣士殿にも会いたいな……。彼はどこに?」 「か……。あ、あの、失礼ですが、璃央様、真城さんは女性……ですよ?」 「え?」 「あの方は、剣も流麗で、身のこなしも毅然としてらっしゃいますが、女性です」 「ああ……、僕は酷い誤解をしていたようだ。姫の傍には、騎士がいるものと……そう思っていたものだから」 「ふふ……でも、私も何も知らなかったら、間違えていたと思います」 璃央の困ったような表情を見て、蘭佳はクスクス……と声を漏らして笑った。 璃央がそれを見て嬉しそうに目を細める。 「……なんですか?」 「初めて会った時から考えると、……とっても、表情が柔和になったと思ってね」 「愛想がないと、父にもよく言われました」 「いや、そういうのじゃない。君は、単に自分の出し方を知らなかっただけさ。……だから、気になってね。秘書にするのを了承したんだ」 「…………」 「とても、よくやってくれた」 蘭佳はそこで長い睫毛を伏せた。 まるで、それは別れの時のようだった。 ……そうか。彼は、御影を迎えに行ってそのまま、どこかに行くつもりなのだ。 御影の風当たりを、あの手紙でも気にしていた。 彼が御影を連れて戻ってくるなんてことも、ない。 「……これからも、そのように頼む」 「……え……?」 「……帰ってきたら、現国王を追い落とす」 「…………」 「忙しくなるから、休めるのなら休んでおくといい」 「…………」 「どうした?」 「い、いえ……思いもよらない言葉が、出てきたので……」 「世界旅行は、それからでも遅くないさ」 璃央はやんわりと笑むと、ふわりと蘭佳の髪を撫で、踵を返した。 カチャカチャ……という音が室内に響く。 窓際まで歩いていき、夜闇の広がる外を見つめ、璃央は企むように笑う。 「死んだはずの人間が王になって戻ってくる。……面白い筋書きだろう?」 「……璃央様、本当によろしいんですか?」 「僕には、それしかないからね。この体では、本当に……もうそれしかない。御影のことは、僕が護ってみせるさ」 「……大丈夫ですよ」 「え?」 「御影様、この3年で、とても芯が強くなられました。真城さんたちのおかげですよ」 「そうか……。これは剣士殿に頭が上がらないな……」 「ああ、真城さんですけど、今は騎士見習いとして演習中で、蒼緑にはいないそうですから、会うのだとしたら、また別の機会になりそうですね」 「……そうなのか……。それは、残念だな……」 本当に残念そうに璃央は目を細めて長くなった髪をかき上げた。 夜は更けてゆく。 思えば、こんなに長い時間、彼と雑談したことがあったろうか……? そんな言葉が、心を掠めた。 蘭佳は璃央が眠るのを待って、そっと彼の荷物の中に、短いけれど手紙をひそませ、小屋を後にした。 |
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